俺の彼女には元彼がいる
彼女ができた。
付き合い始めて、今日でちょうど一ヶ月。
高校三年。
受験戦争が本格化し、照りつける太陽も少しずつ勢いを失い、耳を刺すように鳴いていたセミの声が、いつの間にか遠くなり始めた頃だった。
彼女の名前は、陽奈。
バスケットボール部に所属している。
運動神経が抜群。
体育祭のリレーではいつもアンカーを任され、男子顔負けのフォームでトラックを駆け抜けていた。
勉強だってできる。
朝練、昼練、夜練。
バッシュのゴムが擦れる音が体育館に響き続けるような強豪校で、全国大会常連のレギュラーとして毎日練習している。
それなのに、一定の成績を維持している。
何をやらせても器用で。
努力すれば、それ以上の結果を出す。
そんな陽奈と俺は――幼なじみだった。
幼稚園の頃から、ずっと一緒だった。
登園バスでは毎日隣の席。
互いのカバンについたキャラクターのキーホルダーを突き合わせて遊んだり、結婚式ごっこをしたりもした。
「ぼくとけっこんしてください」
「ゆびわがなーい!」
母親から結婚指輪を強奪しようとして、しこたま怒られた。
小学生になると、放課後は公園でボールを投げ合った。
どちらかの家に上がり込んではゲームをして、夏休みには家族ぐるみで旅行にも行った。
「やだ!かえらない!」
「ゆうたにげて!わたしがおにする!いーち!にーい!さーん!」
空港で帰りたくないと駄々をこね、二人でかくれんぼを始めたときは、両親からまた怒られた。
あの頃の俺は、未来のことなんて何も考えていなかった。
明日も会える。
来週も遊べる。
来年も、その先も。
ずっと一緒にいる。
息をするのと同じくらい、それが当たり前だった。
――当たり前だと思っていた。
だから。
俺たちの間に少しずつ距離ができ始めたとき、俺はそれを認められなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
中学一年。
陽奈がバスケットボール部に入った。
「優太も一緒にやろうよ」
そう言って、陽奈は笑った。
俺は断った。
「ごめん、サッカー部に入りたいから」
嘘だった。
本当は、サッカーが特別好きだったわけじゃない。
バスケでもサッカーでも、別に何だってよかった。
ただ――怖かったのだ。
陽奈と同じ場所に立つことが。
陽奈は、俺なんかよりずっと凄かった。
中学のバスケ部も地区では有名な強豪だった。
厳しい練習についていける自信なんてなかった。
陽奈がコートの中心で輝いている中で、俺は何もできずに座っている。
そんな姿を、幻視してしまった。
だから逃げた。
陽奈の目に留まらない場所へ。
強豪とは言えなかったサッカー部へ。
あの日、どんな選択をしても後悔するのだろう。
でも、その時の彼女の顔を見て
「そう…なんだ…サッカー部、入るんだ頑張ろうね…」
引きつった笑顔で呟いた陽奈。
その日から、顔を合わせるのが怖くなってしまった。
それから少しずつ、俺たちは一緒にいる時間を失っていった。
登校時間が変わった。
放課後も別々になった。
それでも、クラスが一つしかない中学校だったから、毎日会って、他愛のない話をした。
彼女が笑う姿を見ると、どうしようもなく嬉しくて、安心したんだ。
高校も同じだった。
示し合わせたわけではない。
それでも、また同じ学校になった俺は複雑な感情を持ちつつも、ひそかに喜んでいた。
だが、
「荒井さんって、勉強もできるんだ!」
「スポーツ推薦でも絶対通っただろうに、一般入試で合格したらしいよ!」
周りのそんな声を聞くたび、胸が強く締め付けられた。
俺が3年間必死に勉強して、合格した進学校。そこに、毎日汗だらけで部活に心血を注いでいた彼女が、引退後にメキメキと成績を伸ばし、俺と同じ一般入試で軽々と合格したという事実に、打ちのめされた。
やっぱり陽奈は凄い、
俺よりずっと。
高校ではさらに距離ができた。
俺は電車通学。
陽奈は猛烈な朝練と夜練に参加するため、学校近くの寮で暮らしていた。
クラスも違った。
俺は一組。
陽奈は七組。
廊下ですれ違うことすら、ほとんどなくなった。
そして。
陽奈に彼氏がいるという噂が流れた。
ーーでも俺は、噂が確信になる前から知っていた
見てしまったから。
高校近くの繁華街、夕暮れの人混みの中。
隣にいたのは、金髪で大学生くらいの男だった。
そして二人は、手を繋いでいた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「しっかし、よう付き合えたな、お前」
昼休み。
俺の机に肘をつき、おにぎりを頬張る男がニヤニヤと笑っていた。
「……何がだよ」
「何がじゃねぇよ。想い人の荒井さんと付き合えて、今日でちょうど一ヶ月だろ? 夢心地でございますか?」
「……声がでかい」
俺は周囲を見回した。
幸い、教室の連中はそれぞれのグループで騒いでいる。
こいつの名前は、颯。
中学からの腐れ縁で、唯一中高同じサッカー部の男だ。
自称・恋愛マスター。
学年イケメンランキング6位。
黙っていればモテる。
黙らないからモテない。
「それよりよ」
颯が急に声を潜めた。
「俺、マジであの元彼の奴に殺されるかと思ったんだぞ」
「……だから、俺はその人のこと何も知らないって」
「そろそろ聞いちゃう?」
「聞かん」
「500円で!」
「お前にしては破格だけど、一万円でもやらんぞ」
「…ちぇっ」
「なんでお前がそこまで首突っ込んでくるんだよ」
「気になるんだもん!」
「その語尾やめろ。気持ち悪い」
颯は不貞腐れる。
「でもさぁ」
「何だよ」
「お前、本当に気にしてないの?」
「……何を?」
「だから、元彼、色々怪しいだろ」
俺は少し考えた。
そして首を横に振った。
「別に」
「ふーん?」
「…本当だぞ」
その人が憎いわけじゃない。
どんな奴なのか知りたいわけでもない。
ただ。
陽奈に、俺の知らない時間がある。
それが少し寂しい。
それだけだった。
「まぁ、荒井さんはバカモテるからなぁ」
「ああ」
「彼氏と別れ待ちの男も、いっぱい――」
「その話はいい」
「はいはい…エロ漫画の導入みてぇだな」
「黙れ」
「…で?」
「何だよ」
「楽しいか?」
俺は一瞬だけ黙った。
それから。
「……うん」
そう答えた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
放課後。
下駄箱で靴を履き替えていると、体育館から汗の匂いを漂わせた男子バスケ部の連中が、ぞろぞろと廊下を通り過ぎていった。
そのうちの数人が、俺を見てニヤリと笑う。
「おっ、噂の陽奈ちゃんの彼氏じゃ~ん」
「童貞卒業おめでと~。ガバガバだっただろ?」
別の男が、品のない笑い声を上げた。
俺は視線を向けず、通り過ぎる。
付き合ってからというもの、こういう悪意混じりの噂やからかいが絶えない。俺は童貞だ。
あと数ヶ月で卒業し、関わることもないであろう奴らだ。俺に突っかかるだけなら問題ない。
そのとき。
隣にいた颯が、一歩前に出た。
「お前らぁぁぁ!」
冷や汗が流れる。
「陽奈ちゃんのこと、本当は好きだったんだろーッ!」
「おい、颯」
「無理どぅえぇぇす! ざまぁみろー!」
「バカが!」
俺は颯の制服の襟首を掴んだ。
二人で走った。
廊下を駆け抜け、階段を二段飛ばしで下り、体育館裏まで逃げ込む。
「はぁ……」
二人して膝に手をついた。
「ふぃー……スッキリした! やっぱ偏差値じゃ人間性は測れんねぇ」
「お前……マジで後先考えろよ……」
「いいだろ別に。青春、青春!」
「……陽奈に迷惑かけんな」
「リカバリーはお前の仕事」
「はぁ……」
文句を言いながら、俺は窓ガラスに映った自分の顔を見た。
口元が少し緩んでいた。
「ほらな」
颯が笑う。
「お前、笑ってんじゃん」
「……うるさい」
「感謝の言葉は?」
「……ありがとな」
「おう! そんなことより! 荒井さんには上手く言っといてくれよ……」
手を合わせる颯に、俺は微妙な表情で頷いた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
その帰り道。
夕暮れに染まった住宅街を、俺と陽奈は二人並んで歩いていた。
部活を引退してから、陽奈は短く結んでいた髪を解き、伸ばし始めていた。
夕風に揺れる黒髪は、肩のあたりまで届いている。
「……何?」
陽奈がこちらを見る。
「ん?」
「さっきから、じっと見てる」
「……髪、伸びたなと思って」
陽奈は「あぁ」と呟き、自分の毛先を指先で摘まんだ。
「変……かな?」
「いや」
少しだけ間を置く。
「すごく似合ってる」
陽奈はぱっと前を向いた。
横顔から覗く耳が、夕焼けよりも赤く染まっていた。
「……そっか」
「うん」
それから、また静かな沈黙が流れた。
でも、気まずくはなかった。
ずっとそうだった。
昔は疲れ果てるまではしゃぎ、眠りコケるまでおしゃべりをしていた。
今は、言葉を交わさなくても、隣にいるだけで落ち着く。
変わったけど、変わらない。
「……ねぇ、優太」
「ん?」
「今日、私の話してたでしょ」
「……してた」
「色々言われるよね」
「うん」
「ごめんね」
「謝ることじゃないよ」
俺は前を向いたまま答えた。
「悪いのはあいつら…と颯だから」
「……うん」
陽奈は小さく頷いた。フォローは特に入らない。
その横顔を見ながら。
俺は、一ヶ月前のことを思い出していた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
その日の帰り道。
俺は、いつもの道を歩いていた。
けど、胸に引っかかるものがある。
陽奈が今日、最後の大会を終えた。
全国大会には、行けなかった。
県大会の決勝で、敗退。
理由は明白だった。
1年生からレギュラーだった陽奈。
陽奈のワンマンチームだった。
真面目でひたむき、全てが高水準。
そして、大人っぽい彼氏がいることも周知の事実だった。
すべての要素が、嫉妬を集めた。
共に歩んできた先輩達が引退、卒業した時。
陽奈は1人になった。
噂、陰口、嫌がらせ、退部者の続出。
女子バスケ部は最悪の世代と呼ばれた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
俺は、数ヶ月間連絡の途絶えた陽奈とのトーク画面を見つめていた。
『お疲れ様』
『残念だったな』
『大丈夫か?』
何度も文字を打って。
そのたびに消した。メッセージのセンスの無さを呪いながら。
陽奈には恋人がいる。
だから。
俺が今更声をかけるのは、違うと。
きっと、声を掛けても、陽奈にとっては邪な気持ちの奴らと俺に差はないのだろう。
そう思っていた。
だから、何も言えなかった。
学校でも、帰り道でも、会うことはなかった。
陽奈は強い人だ。恋人に支えてもらえばきっと立ち直る
――そう思っていたんだ。
実家の近くにある、小さな公園。
昔、陽奈と何度も遊んだ場所を通りかかったとき。
俺は足を止めた。
ベンチに、人が座っていた。
夕暮れの中。
俯いている。
一瞬、誰なのか分からなかった。
いや、理解することを拒否したんだ。
見間違えるはずがない。
「……陽奈?」
声をかけると。
肩が、ぴくりと揺れた。
ゆっくりと顔が上がる。
「……優太?」
やっぱり。
陽奈だった。
「どうして……ここに?」
「それはこっちの台詞」
「……そっか」
陽奈は小さく笑った。
でも。
その目は赤かった。
俺は何も言えなくなった。
全国大会を逃した。
でも、試合を見たわけじゃない。
陽奈がどんな顔で。
どんな気持ちで。
最後のブザーを聞いたのか。
俺には分からない。
でも、彼女の顔を見て、
話さずにはいられなかった。
「……試合」
俺がようやく口にすると。
陽奈は俯いた。
「うん」
「悔しいな…」
「……うん」
「頑張ったな…ずっと」
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。
俺はその努力を、最後まで隣で見ていたわけじゃない。
中学から少しずつ距離を取って。
高校では、さらに離れて。
陽奈がバスケに打ち込んでいる間。
俺は別の場所にいた。
だから。
「……頑張ったんだな」
俺はそれだけ言った。
陽奈はしばらく黙っていた。
そして。
「……うん」
小さく頷いた。
「頑張った」
その声が震えた。
「……でも、負けちゃった」
「うん」
「最後だったのに」
「……うん」
「もっと…上に行きたかった」
陽奈の目から、涙が落ちた。
何か言わなきゃと思った。
でも。
何を言えばいいのか分からない。
俺が何を言えるんだ。
慰めるのだって。
本当なら、恋人の役目なんじゃないのか。
そう思った。
陽奈の恋人に疑念と怒りを抱いてしまった。
だから。
俺は黙って隣にいた。
少し、当て付けの意味も込めて。
しばらくして。
陽奈が涙を拭った。
「……優太」
「ん?」
「なんで、今日は話しかけてくれたの…?」
「……」
「避けられてると…思ってた。」
「いや……」
俺は言葉を探した。
「陽奈には……その」
言いにくかった。
でも、隠しても仕方がない。
「恋人、いるだろ」
陽奈の表情が止まった。
「……うん」
「だから」
俺は前を向いた。
「俺が声かけるのは…その…」
「……」
「ごめん」
陽奈は何も言わなかった。
夕暮れの風が吹く。
ブランコが、キィ……と小さく鳴った。
「そう…だよね…知ってるよね…」
彼女の口から聞くのは初めてだった。
彼氏がいるという事実を。
そのぎこちない笑顔を見て。
俺は、胸の奥が苦しくなった。
陽奈には恋人がいる。
だから。
言ってはいけない。
そう思っていた。
なのに。
目の前で泣いている陽奈を見て。
その隣にいる自分を見て。
もう、抑えられなかった。
「……陽奈」
「ん?」
「俺さ」
心臓が痛いほど鳴っていた。
「……陽奈のことが好きだ」
陽奈の目が、大きく開く。
「……え?」
「ずっと好きだった」
「……」
「恋人がいるのも知ってる」
「……うん」
「だから、言うつもりなかった」
陽奈は何も言わない。
「今日だって、声をかけないつもりだった」
俺は笑おうとした。
でも、上手く笑えなかった。
「でも……」
陽奈を見る。
「なんでだろ、放っておけなかった」
「……優太」
「ごめん」
「……」
「困らせたいわけじゃない」
「……」
「聞かなかったことにして欲しい」
俺は俯いた。
「ただ……好きなんだ」
それだけだった。
ずっと言えなかった。
その気持ちが芽生えてから。
一番大切な言葉だけは、伝えられなかった。
「……返事はいらない」
「……」
「本当…ごめん」
陽奈の目から、また涙が落ちた。
その涙の意味は俺にはわからない。
けど、これで終わりなのだろうと、そう思った。
「だから……」
俺は立ち上がろうとした。
陽奈を実家に送り、帰る。
あとはこれまでの日常通りだ。
陽奈を振り回してしまったことに罪悪感を感じるが、不思議と後悔はしていない。
最後に伝えられてよかった。
そのとき。
「待って」
陽奈の声がした。
俺は動きを止めた。
「……優太」
「ん?」
陽奈は涙を拭いながら、俺を見上げた。
「今は……何も答えられない」
「……え?」
「ごめん」
「いや…」
俺は言葉の意味を飲み込めていない。
陽奈は少しだけ笑った。
「嬉しかった」
「……」
「優太が、私のことを好きだって言ってくれたこと」
俺は何も言えなかった。
「……ありがとう」
それだけ言って。
俺たちは、しばらく夕暮れの公園にいた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
この告白が。
俺たちの関係を変えることになるなんて。
ーーーーーーーーーーーーーーー
それから翌日。
陽奈から連絡が来た。
『少し話したい』
それだけだった。
学校が終わったあと。
俺たちは、あの公園で会った。
一緒にベンチに座ると、しばらく沈黙が流れた。
「……この前のことなんだけど」
「うん」
「ちゃんと考えた」
俺は黙って聞いた。
「私、優太に言われるまで……」
陽奈は膝の上で指を絡めた。
「自分がどうしたいのか、ちゃんと考えたことなかった」
「……」
「バスケも。
学校も。
周りが期待してくれることも。
全部、応えなきゃって思ってた」
陽奈は小さく息を吐いた。
「恋人のことも」
その言葉に、俺の胸が少しだけ痛んだ。
「……うん」
「公園でバスケしてた時に知り合ったの」
「友達になってくださいって言われて」
「少し変だけど、本当にいい人なの」
「……」
「だから、付き合ったことを後悔してない」
俺は頷いた。
「でも」
陽奈が俺を見る。
「今の私が、本当に会いたいと思う人は誰なのかって考えたら」
「……」
「優太だった」
息が止まった。
「最後の大会が終わった日も」
「……」
「一人でいた私を見つけてくれたのも」
「……」
「ずっと、私のことを待ってくれていたのも」
陽奈は笑った。
「全部、優太だった」
「……陽奈」
「だから」
陽奈は一度だけ目を伏せる。
「私、ちゃんと話してくる」
「……え?」
「今の恋人と」
「……」
「最低かもしれないけど、中途半端なまま、優太と付き合いたくないから」
俺は何も言えなかった。
ただ。
陽奈の言葉を聞いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
それからしばらくして。
陽奈は、恋人と別れた。
詳しいことは聞かなかった。
その人との時間が、偽物だったわけじゃない。
そう陽奈は言った。
俺も、それを否定するつもりはなかった。
過去は過去だ。
今は、許諾してくれた彼に感謝している。
陽奈は俺を選んでくれた。
「……優太」
「ん?」
「この前の答え」
「……うん」
陽奈は顔を赤くしながら。
俺を見た。
「私も、優太が好き」
胸がいっぱいになった。
「だから……」
陽奈が手を差し出す。
「私と付き合ってください」
俺は笑った。
「……俺から言うつもりだったのに」
「優太は言ってくれたもん」
「そっか」
俺たちは笑った。
そして。
幼い頃から何度も繋いできた手を。
今度は恋人として繋いだ。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「……優太?」
「ん?」
「さっきから、ぼーっとしてる」
気がつくと。
隣を歩いていた陽奈が、俺の顔を覗き込んでいた。
「ちょっと思い出してた」
「何を?」
「告白した日のこと」
「あ……」
陽奈の顔が少し赤くなる。
「もう忘れてよ」
「無理」
「…なんで?」
「嬉しかったから。」
「……私も」
「え?」
「なんでもない」
陽奈は前を向いた。
その耳が赤い。
俺は思わず彼女を抱き寄せ、
鞄のフルスイングを受けた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
それから。
俺たちは大学生になった。
学部は違うがキャンパスは同じなので、共に過ごす時間は多い。
お互い1人暮らしを始め、お互いの家を行き来している。
「今日、講義終わったら一緒に帰れる?」
陽奈からメッセージが届く。
「食堂前で待ってる」
そう返信して、スマートフォンを閉じた。
しばらくして、
少し大人びた服を着た陽奈が、こちらへ走ってきた。
「講義伸びちゃった、待った?」
「今来たところ」
「絶対嘘」
「なんでだよ」
「五分前には着いてたでしょ」
「……なんで分かるんだよ」
「顔に『待ってた』って書いてある」
「嘘だ」
ペタペタと顔を触る俺を見て、陽奈が楽しそうに笑う。
俺も笑った。
彼女の笑顔を見ると、やっぱり心が暖かくなる。
二人でスーパーへ行き、夕飯の食材を買う。
他愛ない話をしながら、陽奈のマンションへ向かった。
こういう何でもない時間が。
俺にとっては、何よりの宝物だった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
その夜。
部屋の照明を少し落とし、テレビの音だけが静かに流れていた。
「……優太」
「ん?」
「今日、泊まっていかない?」
「……うん。明日は全休だし」
「……ありがとう」
陽奈が膝の上で自分の指を弄りながら、俯く。
付き合い始めて一年弱。
陽奈について色んなことを知った。
幼稚園の頃から数えれば、十五年以上隣にいる。
お互いの癖も。
好きな食べ物も。
嫌いな味付けも。
変わっていたり、変わらなかったり。
「優太まだトマト嫌いなんだね〜」
「陽奈はエイヒレ好きなんだ…おじ…いえ…なんでも」
距離を縮めるのに時間はかからなかった。
それでも。
今夜ばかりは、部屋の空気が妙に重かった。
「小学生以来だね……お泊まりって」
「……緊張してる?」
「……うん」
「俺も」
顔を見合わせる。
そして、二人とも吹き出した。
「なんか変だよね」
陽奈が笑う。
「こんなに昔からずっと一緒にいるのに」
「…俺は嬉しいよ…陽奈が緊張してくれて」
陽奈は目を丸くした。
それから、愛おしそうに目元を緩めた。
俺はそっと手を伸ばした。
陽奈の手に、自分の手を重ねる。
細い指先同士を絡める。
じんわりと伝わってくる温かい体温。
「優太」
「ん?」
「……好き」
「俺も。ずっと、ずっと好きだよ」
何度も目を合わせた。
照れて視線を逸らして。
また見つめ合って。
名前を呼び合った。
昔と変わらない。
唇が重ねられる。
初めてのキスは付き合って早々に済ませた。
幼少期以来の陽奈とのキスは、どこか手慣れているようにも感じられ、情熱的でありながら、少しだけ胸が締め付けられる味がした。
素人でも分かる、吸い込まれるようなキスの心地よさ。
俺が戸惑いながら追うと、まるで導くように陽奈は自然と受け入れてくれる。
――元彼とも、こうしていたのだろうか。
関係が深くなるほど、輪郭が見えてしまう。
そう思ってしまう自分に、嫌悪感を抱く。
とっくに終わったことなのに、俺は見知らぬ彼に今更ながら小さな嫉妬を重ねてしまう。
颯に協力してもらい、色々と予習はしたものの、初めての夜で情けない姿を見せてしまうだろう。
いや、
今の俺にできることをやろう。
そして何より、この目の前にある瞬間を大切にしよう。
「優太……服、脱ごう」
陽奈は少し頬を赤らめながら、お互いの服に手をかける。
「ほら……こっち来て、優太」
照れくさそうに腕で体を隠しながら、熱の籠もった瞳でこちらを見つめていた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
俺の彼女には、元彼がいる。
俺の知らない、素敵な経験も沢山してきたはずだ。
その過去が消えてなくなることはない。
やっぱり、少し寂しくて、悔しい。
重なる体温。肌に触れる指先。
不器用になぞる俺の手に、陽奈が小さく息を呑む。
吐息が耳元をかすめ、胸の奥が熱くなる。
「ずっと……優太としたかった」
今でも時々、胸が締め付けられるような、不思議な切なさに襲われることもある。
でも。
その気持ちも大事にしようと思う。
過ぎ去った日々を変えることは、誰にもできない。
俺が拒んだあの日も、陽奈が誰かと過ごした時間も、全部、今この瞬間を作っている。
そう思っている。
俺は、その全部を含めた陽奈を好きでいればいい。
幼い頃の俺は、「明日も会えること」を無条件に信じていた。
そうじゃない。当たり前の明日なんてどこにもない。
でも、明日も陽奈と一緒にいられる。
変わったけど、変わらない、
この瞬間を大切にしたい。
「陽奈……」
「ん……?」
「好きだよ」
少しだけ身を引いた陽奈が、愛おしそうに笑った。
「……私も。大好き」
その手を強く握り返す。
幼稚園の頃と同じ温もり。
いや、あの時よりも熱い気がする。
揺るぎない愛しさを込めて。
誰かに勝つためでもない。
陽奈の過去を自分のものにするためでもない。
ただ。
これから先の時間を、思い出を積み重ねていこう。
ゆっくりと、身を委ねる彼女の体に寄り添う。
情熱的に絡み合い、
お互いに、準備は万端だった。
「陽奈……いくよ」
「うん……きて……」
――俺の彼女には、元彼がいる、けど
負けないように、俺も頑張るから。
――陽奈
俺はぐっと力を入れる。
「…あっ……あ、痛ったーーーい!」
直後、広げられた彼女の足が勢いよく跳ね上がり、
「ぶはっ!!」
俺のみぞおちを貫いた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
登場人物紹介
優太
本作の主人公。
陽奈の幼なじみ。
幼い頃から陽奈と一緒に過ごしてきたが、彼女の才能に対する劣等感から、中学では別の部活を選んだ。
その結果、陽奈との距離が少しずつ開いてしまう。
自分に自信がない訳ではないが、他人を高く見積もり過ぎる傾向がある。
学年イケメンランキング7位
学年メロつき男子1位
学年腐女子の素材ランキング1位
中高で特に告白などされなかったので、自分はモテないんだろうと勝手に思っている。
陽奈と付き合い始めたことを知った中学の同級生は多数が鼻血と涙を噴き出した。
中高のサッカー部からは胴上げされ、ネタが被っていると駄目だしした。
---
陽奈
主人公・優太の幼なじみ。名字は荒井。
幼稚園の頃から優太と一緒に育ってきた。
高校では強豪バスケットボール部のレギュラーとして全国大会を目指していた。
優太とは中学進学をきっかけに少しずつ距離が開いていった。
フィジカル派。
学年美女ランキング1位
学年美乳ランキング1位
学年巨乳ランキング4位
恋に関して、優太以上に鈍感。
優太に避けられていると思っていた。
優太以外の男子に特に興味を向けたことは無い。
クールぶって、やることはやっていると、あらぬ噂を流されていた。
優太と付き合って以降、噂は全て払拭され、広げた主犯格たちを除き、バスケ部の同級生とも関係は修復している。
大学では幼馴染と付き合っていると知られており、尊死者が多数いる。
---
颯
優太の同級生。
本当に偶然で、中学から部活、クラスを共にしている。
中学では優太と成績トップを争っており、今ほど仲良くなかった。
現在は成績が落ちている。
学年イケメンランキング6位。
学年小学生の時モテてそうな男子ランキング1位
学年腐女子の素材ランキング2位。
プライベートについては優太にも明かしていない。
高校卒業後、就職した。
---
陽奈の元恋人
陽奈が高校時代に交際していた女子大生。
レズっ気があり、男装している。
陽奈がバスケットボールをしている姿を見て、一目惚れ。
一か八か、友達として猛アタックを仕掛けた。
恋人はおらず、想い人から避けられているという事を知り、交際を持ちかけた。
陽奈は女性と交際するということにあまりピンとこないまま、友達の延長として受け入れた。
いい人だが、キスの魔神。
陽奈が県大会で負けた事を知った日、キャンパスでぶっ倒れていた。
別れを告げられた時は泣き崩れたが、幼馴染と両思いだったという事を知り尊死。交流は絶ち、影で応援したり、影で見つめていたりする。




