境界の背教者と泥に咲く聖女 ―神殺しの忘却(レト)―
第一章:白き巡礼の到来
その地には、神の吐息さえ届かない。
境界の地――荒野の石灰が喉を焼き、古き森の湿り気が肌にまとわりつく、色彩を失った揺り籠。そこに、かつて神殿と呼ばれた瓦礫の塊があった。
その地自体が、朽ちて枯れているかのような人も住むはずがないような場所。
そこでアビスは、神殿と呼ばれていた瓦礫の中でかろうじて原形を留める崩れかけた石段に腰を下ろし、錆びた銀のナイフで硬いパンを削っていた。
「……」
彼の耳の奥では、低く濁った水底の唸りのような声が、絶えず呪詛を紡いでいる。
『殺せ。清らかなる者が来る。その喉笛を食い破り、我に捧げよ』
深淵の王の声だ。アビスはその声を無視することに慣れていたが、今日ばかりは胃の辺りが不快に騒いだ。
風が、場違いな香りを運んできた。
枯草と獣の臭いではなく、焚かれた香炉と、よく手入れされた麻の匂い。
この地では久しく失われた香り。
白が見えた。
地平の向こうから、一筋の光が零れ落ちたかのような、眩いばかりの白。
聖女エルセラは、数人の従者を引き連れ、ゆっくりと石段を登ってきた。その足取りは優雅で、まるで天上の雲を踏んでいるかのようだ。
「あ……」
アビスはパンを削る手を止め、濁った瞳で彼女を見上げた。
その瞬間、彼は不覚にも息を呑んだ。陽光を編み込んだような金髪と、慈愛を形にしたような整った貌。泥と埃に塗れたこの地に、場違いなほどの美しさが降臨していた。
「ふふっ……」
同時に、エルセラの瞳もまた、石段に座す男を捉えて微かに揺れた。こんな見捨てられた廃墟に、これほどまで野性的で、生命の拍動を肌に突きつけてくる男が隠れ潜んでいようとは。
男の纏う闇は深く、澱んでいる。
しかし、その奥底から漏れ出す剥き出しの生命力は、触れれば指先が焼けそうなほど熱い。エルセラの胸の内で、静かな鼓動がぴりぴりと速度を上げた。
それは恐怖か、あるいは本能的な期待か。
視線がぶつかり、火花が散るような沈黙が流れる。
「……」
「……」
彼女の脳内では、アビスのものとは正反対の、澄み渡り、それゆえに鋭い刃のような声が響いていた。
『殺せ。汚らわしき闇の器がそこにいる。その心臓を貫き、大気を浄化せよ』
輝ける主の神託。慈愛の象徴たる聖女は、その神々しい微笑の裏で、指先に絡みつく聖なる殺意を必死に抑え込んでいた。
「けほっ――ここは少々、埃っぽいようですね、失礼」
喉から出掛かった言葉を咳で誤魔化し取り繕う。
エルセラが口を開いた。鈴の音を転がしたような声。だが、アビスの影は彼女の足元まで伸び、その細い首を絞め上げようと蛇のように蠢いている。
「ここは神に見捨てられた場所だ。巡礼者が来るような道じゃない」
アビスの声は、長い間使われなかった楽器のように掠れていた。
だが、その言葉は掠れた声に反して力強い。
言葉だけで相手を威嚇し立ち去るような圧を感じさせてくる。
「ええ、存じております。けれど、見捨てられた場所にこそ、光は届かなければなりません」
対してエルセラは微笑を崩さなかった。それどころか彼女は従者たちを振り返り、静かに告げた。
「皆さんは麓の村で休んでいてください。この方と、少しお話をしたいのです。……聖地を巡る者として、この寂れた寺院で祈りを捧げる義務がありますから」
「しかし……このような場所で」
ちらりと従者がアビスへと視線を走らせる。こんな場所で平然としている彼をあからさまに警戒している。無理もないことだ。
何より彼は男で、聖女様は女である。何が起こるか解ったものではない。
「良いのです。これもまた神のお導きでしょう」
そう口にして微笑んでみせる聖女。彼女の頭の中では神の言葉が暴れていた。
「……」
「……」
アビスのような圧を感じる強い言葉に従者が顔を見合わせる。
結局、従者たちは困惑しながらも、聖女の言葉に抗えず、山を下りていった。
残されたのは、崩れた石柱と、赤く染まり始めた空と、互いを殺そうと囁き合う神を宿した二人だけ。
「宿を貸してくださるかしら?」
エルセラの右手は、法衣の袖に隠された聖銀の短剣を、愛おしげに撫でている。
「好きにしろ。ただし、寝ている間に何が起ころうと、文句は言わないことだ」
アビスは吐き捨てるように言い、立ち上がった。
「まあ怖い……貴方が守ってくださるのではなくて」
エルセラの言葉にアビスは忌々しげな表情を見せる。舌打ちをしてそれ以上何も言わずに動き出す。
二人の影が、石畳の上で長く伸び、歪に交錯する。
それはまるで、互いの息の根を止めるための、死のダンスの序曲のようだった。
第二章:毒の入った聖杯
瓦礫の奥にひっそりと残っていた寺院の内部は、外の荒野よりもさらに濃い沈黙に支配されていた。
天井の崩れた隙間から差し込む月光が、埃の舞う聖堂を斑に照らしている。かつては神像が鎮座していたであろう台座には、今や正体不明の蔦が絡みつき、湿った土の匂いを放っていた。
アビスは、唯一崩れていなかった木製の机の上に、粗末な木皿を二つ並べた。
皿の上には、干し肉と、毒々しいほど赤い野生の果実、そして先ほどまで彼が削っていた硬いパン。
アビスの指先が、皿の縁をなぞる。彼の脳裏には、深淵の王の低い声が粘りつくように響いていた。
『その果実に、我が影の雫を垂らせ。一口啜れば、聖女の魂は内側から腐り落ちるだろう』
アビスは無言のまま、水差しから古びたカップに水を注いだ。
毒を混ぜるべきか、あるいはこのまま喉を裂くべきか。迷いは、彼自身の意志ではなく、支配する神への嫌悪から生じていた。
「――わざわざの気遣い申し訳ありませんわ。巡礼の身には、これ以上ないご馳走ですけれど」
背後から、衣擦れの音と共にエルセラが歩み寄ってきた。
彼女は法衣の汚れを気にする様子もなく、アビスの向かい側に腰を下ろした。その動作一つ一つが、計算されたかのように美しい。
だが、アビスは見逃さなかった。彼女が組んだ膝の上、その白い指先が、法衣の袖口を強く握りしめているのを。
彼女の耳にも、きっと届いているはずだ。あの、耳障りな「光」の命令が。
「食え。毒は入っていない。……今はまだ、な」
アビスが低く告げると、エルセラはふっと目を細めて笑った。
「あら、わざわざ『今は』と仰るなんて、正直な方ですのね」
エルセラは迷うことなく、アビスが並べた赤い果実を一つ手に取り、その薄い唇に運んだ。
熟れきった果肉を噛み砕く、かすかな音が静寂に響く。
瑞々しい果汁が彼女の柔らかな唇を濡らし、あどけない桜色を毒々しい紅に染め上げた。アビスの視線は、その唇から目が離せなくなる。
彼女が果肉を飲み込もうとした瞬間、白く細い喉筋が艶かしく蠢いた。嚥下の動きに合わせて上下する喉の、あまりの無防備さと、そこから漂う生命の芳香。
アビスは、背筋を這い上がるようなぞくっとした恐怖と、同時に湧き上がる抗いがたい魅力が同居した、不思議な感覚に襲われた。
彼女が毒を恐れていないからではない。
その「生」そのものが、神の器という殻を突き破って自分を侵食してくることに、彼は激しく心臓を揺さぶられたのだ。
エルセラもまた、アビスを射抜くように凝視していた。
自分を値踏みし、捕食者のように観察する彼の不躾な視線。
それを肌で感じながら、彼女の心奥には不謹慎な高揚が渦巻く。
彼女はゆっくりと、わざとらしく舌を伸ばした。唇の端に付着した紅い果汁を、挑発的に、そして丹念に舐めとってみせる。
その仕草は聖女の清廉さとは程遠く、まるで熟練の娼婦が客を誘うような、悪戯で背徳的な色香を孕んでいた。
神の言葉に耳を貸さず、目の前の「闇」に熱狂する男。
無造作な黒髪の隙間から覗く飢えた瞳に、彼女は自らの内なる獣が共鳴するのを感じていた。輝ける主が『今すぐ殺せ』と脳内で金切り声を上げれば上げるほど、彼女の体は禁じられた果実を貪る快楽に震えるように、目の前の男が放つ独特の温かさに惹きつけられていく。
「貴方は、なぜここにいらっしゃるの? えっと……」
わざとらしく指先を自分の唇に触れさせながら尋ねる仕草の聖女。
「……アビスだ」
その仕草にぶっきらぼうに返す。
「アビス様……わたくしはエルセラと申しますわ」
「様をつけるな。俺はただの背教者だ。神の声を無視し、ここで朽ちるのを待っているだけのな」
「……ふふ、同じですわ」
エルセラが零した言葉に、アビスの手が止まる。
「聖女様が、何を仰る」
「私も、神の声を聞くのは疲れましたの。あの方たちは、常に『殺せ』か『救え』か、極端なことしか仰らないでしょう? ……本当は、ただ静かに月を眺めていたいだけなのに」
その言葉は、アビスの魂の深い場所を、鋭く射抜いた。
聖女と背教者。光と闇。
正反対の場所に立ちながら、二人は同じ檻の中に閉じ込められていた。
エルセラは立ち上がり、窓の外の月を見上げた。
彼女の背中は、神の栄光を背負うにはあまりに華奢で、頼りない。
「今夜は、神様たちの声がいつもより騒がしいようですわ。私を殺したいという貴方の影が、そこまで伸びていますもの」
アビスは自分の足元を見た。
彼の影は意志に反して、蛇のように床を這い、エルセラの白い足首に絡みつこうとしている。
「……俺のせいじゃない。こいつが勝手に動くんだ」
「わかっておりますわ。私の手も、貴方の心臓を求めて震えていますもの」
エルセラは袖の中から、聖銀の短剣をゆっくりと抜き出した。
月光を反射する刃は、美しく、そこで残酷だ。
二人の間に、張り詰めた糸のような殺意が満ちる。
しかし、その殺意の裏側で、二人の鼓動は同じリズムで高鳴っていた。
神の言葉ではない、自分たち自身の声を探るように。
二人の夜は、まだ始まったばかりだった。
第三章:告白という名の探り合い
食事を終え、月の位置が天頂を過ぎた頃。
二人は寺院の裏手に広がる、荒れ果てた庭園へと場所を移していた。かつては聖木が植えられていたであろうその場所は、今や乾燥した風が土を削り、死んだ枝が幽霊の指のように虚空を掻いている。
アビスは崩れた石壁に背を預け、腕を組んでエルセラを凝視していた。
エルセラは、月光を一身に浴びながら、祈るでもなくただ遠い地平を見つめている。
その横顔は驚くほど静謐で、先ほど食事の際に見せた娼婦のような危うい色香は、霧のように霧散していた。
「――なぜ、ここに来た」
アビスの低い声が、夜の静寂を裂いた。
「巡礼だなんて嘘は、もういい。お前を支配する『光』は、俺を殺すためにその足をここまで運ばせたはずだ」
エルセラはゆっくりと振り返った。彼女の瞳には月が宿り、銀色の光を湛えている。
「……鋭いですわね。ええ、その通りですわ。あの方は仰いました。『汚泥の中に咲く腐った花を摘み取りなさい』と。それが、貴方のことですわ、アビス様」
彼女は手にした聖銀の短剣を構える。指先でうっとりした顔を見せながらその刃を愛撫してみせる。
「けれど、不思議ですの。貴方を見つめていると、あの方の声が遠くなる。殺せ、浄化しろという叫びよりも、貴方の瞳の奥にある『渇き』の方が、私の胸を強く打つのです」
「渇き、だと?」
「ええ。貴方も同じでしょう? 神に選ばれ、力を与えられながら、その実、魂を食いつぶされているだけの操り人形。貴方のその苛立ちは、神への忠誠ではなく、自由への飢えではありませんか?」
アビスは鼻で笑ったが、その内側では深淵の王が激しく悶えていた。
エルセラの言葉が、深淵の底に隠していた彼の本音を引きずり出そうとしていたからだ。
『黙らせろ。その女を、今すぐ闇に沈めろ』
脳内の咆哮を無視し、アビスは一歩、エルセラへと歩み寄った。
「聖女のくせに、随分と不信心なことを言う。俺たちは器だ。神が注ぎ込む意思を垂れ流すだけの、ただの器だ。そこに俺自身の飢えなど入り込む隙間はない」
「いいえ、ありますわ」
エルセラもまた、一歩前へ出た。
二人の距離が、手を伸ばせば届くほどに縮まる。彼女から漂う清らかな香りと、アビスの纏う血生臭い闇が、夜気の中で激しく衝突し、混ざり合う。
「貴方の視線……食事の時、私をどうしようとしていました? 神の命に従って殺そうとした? それとも、一人の男として、私を支配したいとこの身体に欲情を催しておりました?」
彼女の問いは、刃よりも鋭くアビスの理性を切り裂いた。アビスの視界の中で、月光に透ける彼女の白い法衣が酷く邪魔なものに思えてくる。
その幾重にも重なった聖なる布を乱暴に剥ぎ取り、隠された柔らかな肢体を曝け出させたい。神に捧げられたその清廉な肌に、泥に塗れた自らの指を沈め、獣のように貪り尽くしたいという、どす黒い渇望が彼の芯を焼き焦がしていた。
「……」
ちりちりと首の後ろが焦げる様な感覚。
アビスは衝動に突き動かされ、彼女の細い手首を掴むと、力任せに壁へと押し付けた。
「黙れと言ったはずだ」
掴んだ手首からは、ぴりぴりとした聖なる拒絶の光が漏れ出し、アビスの肌を焼く。だが、それ以上に掌から伝わる彼女の脈動が、逃れようのない熱を持ってアビスの理性を溶かしていく。
エルセラは痛みに顔を歪めるどころか、うっとりと目を細めた。
彼女もまた、自分を抑えつけるこの男の圧倒的な力に、女としての本能を激しく疼かせていた。
境界の地という死の淵で、孤独に、逞しく生き抜いてきた男の生命力。汗と土の匂い、そして剥き出しの獣の如き気配。それが神の光よりも眩しく、背徳的な官能となって彼女の肌を粟立たせる。
闇の住人である彼の荒々しい呼気が顔にかかるたび、彼女の芯は濡れ、溺れ死んでしまいたいくらいの快感に震えていた。
「痛い……けれど、心地よいわ。これは神が与える死の試練ではなく、貴方が私に与える『生の感触』ですもの。アビス……貴方は神の器ではなく、私を見て。私の恐怖を、私の震えを……その目でもっと、奥まで犯して」
アビスの影が、彼女の背後の壁を黒く浸食し、法衣を汚していく。
二人は互いの呼吸が触れ合う距離で、探り合うように、見せつけるように視線を絡ませた。
それは信仰の告白よりも深く、呪いよりも重い、背教者たちの共犯契約だった。
「お前は狂っている、エルセラ」
「ええ、きっと。でも、貴方も同罪ですわ」
月光の下、二人の影は一つに重なり、どちらが光でどちらが闇かも判別できなくなっていた。
神々の叫びが、この瞬間だけは、どこか遠い世界の出来事のように思えた。
第四章:均衡の崩壊
深夜。寺院を包む空気が、一変して凍りついた。
庭園の沈黙を切り裂くように、天から目も眩むような白光の柱が降り注ぎ、同時に足元の影が粘り気のある泥のように膨れ上がる。
だが、その破滅的な力が顕現する直前まで、二人はあまりに危うく、そして醜悪なほどに美しい「密事」に耽っていた。
月光の届かぬ影の中で、アビスはエルセラの喉元に鋭い指先を食い込ませ、彼女を石柱に押し付けていた。
殺せという深淵の王の絶叫を、彼は自身のどす黒い情動ですり替える。その指先が求めるのは、彼女の命か、それとも聖女という殻の下にある柔らかな肉の熱か。
「……そんなに震えて、何を見てる。お前の神か、それとも俺の指か」
アビスの掠れた声が、彼女の耳朶を焼く。
エルセラは恐怖に顔を歪めるどころか、挑発するようにその白い首を反らし、彼の手のひらに自身の鼓動を押し付けた。
「どちらも同じですわ、アビス。貴方の指が食い込むたびに、あの方の声が聞こえなくなる……もっと、強く。私の魂が砕けるほどに」
彼女の手もまた、アビスの胸元を、爪を立てるようにして探っていた。法衣の袖から覗く聖銀の短剣が、アビスの脇腹を浅く裂く。流れる血の色は闇の中でも鮮烈で、エルセラはその滴を陶酔した瞳で見つめながら、男の野性的な匂いを深く吸い込んだ。
「死ぬなら、貴方の腕の中がいい……。あの方の命令ではなく、私の意志で、貴方に殺されたい」
それは信仰の極致であり、同時に最大級の背徳。二人は互いの喉笛を狙いながら、同時に救いを求めるように互いの体温を貪り合っていた。
その、人間にしか許されない「神への無視」が、ついに高位の存在たちの逆鱗に触れた。
突如として、大気が歪んだ。
愛撫のようだった殺気は、瞬時にして真の抹殺の意志へと変貌させられる。
「あ、……あぁっ!」
エルセラの喉から、彼女自身の意思ではない悲鳴が漏れた。
彼女の四肢は、目に見えぬ糸で吊るされた操り人形のように跳ね、意思に反して動き出す。
その瞳からは感情が消え、絶対的な秩序を強制する「輝ける主」の冷酷な光が溢れ出した。
一方、アビスの背中からも、どす黒い触手のような影が噴き出していた。
深淵の王が、彼の意識を飲み込もうと脳を直接蹂躙している。視界が赤く染まり、あらゆる生命を無に帰せという破壊衝動が、彼の四肢を強制的に突き動かす。
二人の肉体は、物理的な法則を無視した加速で交錯を始めた。
エルセラが光の軌跡を残して虚空を滑れば、アビスの影が網のように地を這い、その足首を狩ろうと蠢く。
剣筋と影の刃が触れ合うたび、火花ではなく、存在そのものを削り取るような不協和音が周囲の石柱を砕いていった。
それは優雅でありながら、一歩間違えば魂ごと霧散する、神々の指先による残酷なダンスだった。
やがて、神々の苛立ちは限界を超え、境界の地そのものを変貌させ始める。
天は紫黒色に澱み、巨大な雷鳴が断続的に大地を打つ。地面からは深淵の泥が噴き出して熱い沼のように沸き立ち、そこから腐敗した硫黄の臭いが立ち上った。
その時、二人の脳内ではなく、この空間そのものに「声」が鳴り響いた。
『我が光よ、不浄を焼き尽くせ』
『我が闇よ、偽りの輝きを飲み込め』
それは、二人の意志を完全に黙殺した、神々の直接的な宣戦布告だった。もはやエルセラとアビスは一人の人間ではなく、盤上に置かれた「駒」――神々の力をこの世に顕現させるための器に過ぎなかった。
だが、神々が力を行使したために緩んだ。
「……逃げろ、エルセラ……っ!」
アビスは、食いしばった歯の隙間から、血の混じった声を絞り出した。
彼の右腕が、自らの意思を裏切り、背後の瓦礫から巨大な石柱を影の力で引き抜いた。それを、正面に立つエルセラへと向かって、容赦なく叩きつける。
「避けて! 左へ……!」
エルセラもまた、激痛に顔を歪めながら叫んだ。
彼女の手は勝手に聖銀の短剣を振り上げ、アビスの眉間を狙って光の刃を飛ばす。しかし、彼女は自らの首を不自然な角度に曲げることで、アビスの影の追撃を間一髪で躱しながら、彼に攻撃の軌道を伝えた。
「くそっ、止まれ……止まれと言っているんだ……!」
アビスの足が床を蹴り、弾丸のような速度でエルセラへ肉薄する。
神の意志は、彼に「最短距離で彼女の心臓を貫け」と命じている。アビスは抗おうと指先を震わせるが、影の刃は無情にも彼女の胸元へと突き進む。
「アビス、屈んで……! 光の雨が降りますわ!」
エルセラは、涙を流しながら叫んだ。
彼女の周囲に、数千、数万という光の針が形成される。それは無慈悲な全方位攻撃だ。彼女の意志とは無関係に、神はその超越的な力で、目の前の不浄を殲滅しようとしていた。
アビスは、彼女の警告を信じて床に身を投げた。
頭上を光の針が、大気を焼きながら通過していく。
「……次は、右だ! 影が、お前の足元から……這い上がる……!」
アビスの警告を受け、エルセラは白鳥のような跳躍で宙を舞った。その直後、彼女がいた場所から漆黒の棘が幾本も突き出し、虚空を貫く。
それは、世にも奇妙で残酷な、そして美しい「殺し合い」だった。
肉体は神に操られ、互いを殺すための最適な解を叩き出し続ける。だが、魂は絶望の淵で手を繋ぎ、死を回避するための言葉を交わし続ける。
「殺せ」という神の声と、「生きて」という二人の叫びが、夜の寺院で激しく火花を散らす。
「はぁ、……はぁ……アビス……殺したくない……貴方を、汚したくないのに……っ」
エルセラの法衣がアビスの影に裂かれ、その白い肩に紅い血が滲む。
「……俺もだ。お前を……その喉を、こんな形で裂かせるもんか……」
アビスの頬を、光の刃が掠め、皮膚が焼ける嫌な匂いが立ち込める。
極限の戦いの中、二人の距離は再び、そいて決定的に縮まろうとしていた。
神の支配が強まれば強まるほど、それに対する二人の反逆心もまた、灼熱の熱量を持って膨れ上がっていく。
「もう……限界ですわ」
エルセラが絶望的な声を出す。
天に集まった光が、彼女の体を媒介にして、すべてを灰にする究極の裁きを下そうとしていた。アビスの深淵もまた、寺院ごと彼女を飲み込もうと渦を巻き始める。
その破壊の嵐の直前、二人の視線が重なった。
神の道具として死ぬか。それとも、すべてを捨てて「人」として墜ちるか。
答えは、言葉を介さずとも決まっていた。
第五章:結論――最悪という名の希望
寺院が震えていた。
天から降り注ぐ白光の奔流と、地から噴き出す深淵の闇。二つの神性が正面から衝突し、境界の地の理が崩壊していく。その中心で、エルセラとアビスは、互いの指が砕けんばかりの力で手を取り合っていた。
「アビス、聞いて……。もし、私の浄化が貴方の魂まで焼き尽くしてしまったら……」
エルセラが、暴風の中で叫んだ。彼女の瞳は白光に灼かれながらも、真っ直ぐに男を見つめている。
「その時は、俺の影がお前を道連れにするだけだ。恨みっこなしだぜ、聖女様」
アビスは、皮肉げに口角を上げた。だが、その瞳には、初めて会ったあの石段の時から、彼女という存在に魂を奪われていた者の情熱が宿っていた。それは一目惚れというにはあまりに鋭利で、信仰というにはあまりに背徳的な、むき出しの執着。
「お前を、あんな高い場所に一人で帰しはしない。……地獄まで、俺が連れて行く」
「ふふ、素敵……。なら、信じて差し上げますわ」
二人は、同時に自らの内側にある「神」を解き放った。
それは救済でも破壊でもない。互いの力を互いの封印へと流し込み、中和し、消滅させる――神への反逆。
光が闇を喰らい、闇が光を塗り潰す。
肉体が焼き切れるような激痛が二人を襲い、意識が真っ白な空白へと飲み込まれていく。その極限の苦悶の中で、二人は確かに感じていた。神というノイズが消え去り、ただの「男」と「女」として、魂が一つに溶け合っていく感覚を。
――そして、静寂が訪れた。
天変地異は嘘のように消え去り、夜空にはただ静かな月が残された。
崩れ落ちた聖堂の床。
法衣は裂け、影の衣も霧散した。そこにあるのは、傷だらけで、けれど何物にも縛られていない二人の裸体。
アビスは、肩で荒い息を繰り返していた。
視界を遮る神の光が消えた今、眼前に曝け出された聖女の白く柔らかな肢体が、彼の理性を容赦なく焼き払う。震える手で彼女の頬をなぞり、その熱を確かめる。
「……生きているのか。俺たちは」
「ええ……。ただの、欲張りな人間に戻れましたわ」
エルセラは微笑み、男の首に腕を回した。彼女の瞳は、アビスの瞳に宿る剥き出しの欲望を捉え、自らもまた期待に胸を膨らませていた。
アビスの不躾な視線が自分の体中を這い回り、その呼吸が獣のように荒くなるのを、エルセラは至近距離で楽しんでいた。
「……綺麗だ」
掠れた声で呟きながら、アビスの手が彼女の胸へと伸びる。神の所有物であったはずのその温もりを、今は自らのためだけに独占したいという狂おしい飢餓感。
エルセラはその手に自分の手を重ね、さらに深く、自らの拍動へと導いた。
「感じますわ……この熱い欲望。そして、貴方の逞しい生命力……」
彼女はもう一方の手を、アビスの股間へと忍ばせた。人間に戻ったどころか、理性の檻を壊した「獣」そのものの高まりを掌で確かめると、彼女の唇からは甘い溜息が零れた。
「聖女ではなく、一人の女として、これを……貴方の全霊を、受け止めさせてくださる?」
どちらからともなく唇が重なる。それは神への祈りよりも遥かに熱く、深く、相手の存在を渇望する口づけだった。
冷えた石畳の上で、二人の体温が混ざり合う。
アビスの荒々しい指が、エルセラの白い背に、消えない刻印を刻むように這う。彼女の柔らかな肌は、男の力強い生命力を受け入れるたびに、歓喜に震えた。
それは、神々の介入を拒絶する、閉ざされた聖域での営み。
獣のような呻きと、甘い吐息。指を絡め、肌を密着させ、互いの存在を奥深くまで埋め込んでいく。神に背き、死を越えた者たちだけに許された、命の奔流。
その悦楽が絶頂に達しようとした、その時だ。
空の彼方、不可視の領域で、神々の慟哭が響き渡った。
『ああ、神殺しが生まれてしまう』
混ざり合う光と闇。二人が貪り合う熱情の中で、新たな命の火が灯る。それは神々の支配が及ばぬ場所、因果の果てに産み落とされる、神を屠るための結晶。
余韻に浸る静寂の中、アビスは愛おしげに彼女を抱きしめ、その耳元で初めて真名を囁いた。
「……俺の名は、レトだ」
その響きを聞いたエルセラは、いたずらっぽく目を細め、彼の首筋に甘く噛み付いた。
「レト……。確かその意味は、『忘却』でしたわね? ふふ、貴方らしいけれど……それすら本当の名前ではないかもしれませんわね」
彼女は彼の胸に指で円を描きながら、くすくすと喉を鳴らして笑う。
「嘘つきな貴方にぴったり。過去も、神も、全部忘れてしまったというわけですわ。でも、今の私たちにはこれ以上なくお似合いの名前ですわね、私の王様?」
レトは苦笑し、彼女の腰を引き寄せた。
「ああ。本当の名なんて、どこかの泥にでも捨ててきた。今、お前の前で息をしている俺が、レトだ。それで文句はないだろう、聖女様」
「ええ、文句なんてありませんわ。ただ……もう一度、その『レト』という名前を私の体に刻んでくださらない?」
再び重なる熱い吐息。神々の絶望など、今の二人には心地よい子守唄に過ぎなかった。
やがて、遠く地平線から、将来の脅威を抹殺せんと放たれた神々の尖兵たちが影のように迫りくる気配がした。
「――聞こえましたわね、今の嘆き。どうやらあの方たちは、私たちの愛の結晶が怖くて仕方がないようですわ」
エルセラは、レトの腕の中でふわりと微笑んだ。先ほどまでの背徳的な情事の余韻を残しつつも、その瞳にはどこか慈愛に満ちた、気の早い「母親」としての光が宿っている。
「ところでレト……この子の名前、何にしましょうか?」
男の精を受けいれたお腹を撫でながらそんなことを口にするエルセラ。
あまりに捕食的な、あるいは無邪気なその問いかけに、レトは一瞬、目を丸くして絶句した。
「……おい。まだ尖兵どもが迫ってきてるんだぞ。まずは生き残る算段を……」
「あら、死なない覚悟をしたのでしょう? なら、未来のお話をするのは当然ですわ。ねえ、この子にはどんな名前を贈りましょうか。貴方の『忘却』よりも、もっと素敵な名前を」
彼女は期待に満ちた眼差しでじっと見つめてくる。レトは溜息をつき、降参したように彼女の肩を抱き寄せた。
「……俺にそんなセンスがあると思うか。二人で、ゆっくり考えればいいだろう。時間は……そうだな、一生分くらいはあるはずだ」
「ふふ、合格ですわ。では、じっくり話し合いましょうか。逃避行の道すがら、たっぷりと」
朝焼けが、境界の地を白く染め始める。
レトとエルセラは、寄り添いながら立ち上がった。二人の顔には、絶望など微塵もない。
これから生まれてくる、神すらも恐れる我が子のために。
二人は再び、固くその手を繋ぎ合わせ、輝くような未来へと踏み出した。
(完)




