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始点


午前三時のコンビニは、存在していることだけが仕事だった。


この時間帯は客なんてほとんど来ないし、相方が能登っていう時点で実質フリータイムだ。俺はカウンターの裏でビール箱をちょうどいい高さに積みながら、人生のクレジットについて考えていた。


座り心地の悪さも気にならない。今の俺は妙に寛大で、変に高尚なテーマが頭に浮かんでくる。


俺は能登に向かって、妙に威厳のある声で言ってやった。


「なあ、人生のクレジットって何枚まで切れると思う?」


カウンター越しにガラの悪い金髪に話しかけると、彼は雑誌をめくりながら応じた。完全にサボっている。


「は? また朝から壊れてんのか、お前」


「昨日、親にこれで最後だからなって言われたんだよ。五回目だけど」


「それ最後じゃないだろ」


「だよな。俺も思った。クレジットって無限に切れる錬金術じゃね?」


「お前はブラックリストだよ、すでにな」


「俺が消費してるのではなく、親が俺の成長性に投資してるの。わかるか? 借金ではなく、信用と期待からうまれる利害の一致だ」


能登はあからさまにため息をつきながら「じゃあインベストだろ。ていうか借金の踏み倒しだろ」なんてつまらないツッコミを入れてきた。


俺は人生を浪費していた。


みんなは忙しく、やれ恋愛だの青春だの、虚像を追い求めている。


だが、俺のような賢者は人生についてもう悟りきっていた。


そんなことを考えているうちに、シフトの終わりが近づいてきた。さて、中野さんが来る前にコーヒーの補充でも済ませるか。おっと、ビール箱も片付けないといけない。


楽な仕事だ。全く。


---


夜道は人影もなく、まるで街全体が深い眠りについているかのようだった。


遠くで新聞配達のバイクのエンジン音が一度だけ切り裂くように響いて消えて、また元の静けさが戻る。世界に取り残された気分だった。……いや、俺が世界を置いてきたのかもしれない。


おまけにチャリも盗まれているしな。徒歩生活、これが深夜バイトあるあるってやつだ。


「まあ、運動不足の解消にはなるか」


帰ったらアニメでも見ながら一杯やるかなんて考えていたら、ふと、路地の奥──暗がりに何かが倒れているのが見えた。


人だった。


男は三十代くらい。スーツ姿で、腹部から血を流している。


……はいはい。どうせドラマか映画の撮影だろう。こんな時間までご苦労なことだ。余計なトラブルは御免だし、さっさと退散するか。君子は危うきに近寄らずである。


だがタイミング悪く、男は目を開けてこちらを見た。


──目が合ってしまった以上、スルーはできない。


内心パニックだった、多分顔にも出ていたと思う。数秒間フリーズした。夜道の静けさが、余計に怖さを際立たせていた。


「大丈夫ですか!? い、今すぐ救急車──」


慌ててスマホを取り出しかけたとき、男の口が、かすかに動いた。


「かわいそうな奴だな……」


………は?


見ず知らずの──しかも今にも死にそうなやつに、なぜか同情された。


一瞬困惑したが、男の腹から流れる血が──俺を冷静にさせた。


免許講習を思い出せ……まずは安全確認、意識確認、そして救急──


そう考えてスマホを操作しかけた、その時。


男が、俺の手首を掴んだ。


うわっ──


---


男の言葉は異様だった。


「だめだ……奴らが……」


……奴ら?


「これから…この国に…混乱と無秩序の時代が来る…」


どうやらスピリチュアル系の方らしい。こんな状況でも国の行く末を占うとは……。


男の声は次第に弱くなっていく。


「君は…違う…君には選べるはずだ…が…」


男はもう限界が近いらしい。はっと我にかえる。ぼうっとしている場合じゃない。今すぐ救急車を……


だが、男はもう答えなかった。息が止まり、手の力が抜けた。


おそらく、死んだ。人が死ぬ瞬間は、思っていたより静かで、そしてどこか滑稽だった。猫の体が死ぬ直前に小さく跳ねるあの光景と、どこか重なる。生命の終わりは、ドラマチックではなかった。


妙な感慨にふけっていたその時、一台の車が目の前に止まった。よかった。これで彼を病院に運べる――もっとも、もう手遅れだろうけど。


「すみませ──」


「発見者はあなた一人ですか?」


いつの間に車から降りたのだろうか。声は、車の向こう側の暗がりから響いてきた。


「ご安心ください。我々が対応します」


ギョッとした。いつの間にか、背後にも人が立っていた。


「……いや、謝罪が先か。巻き込んでしまって申し訳ない。我々はこういうものです」


男は無造作にポケットから何かを取り出した。


──警察手帳。見慣れないが、"それらしい"ものだった。


若干の胡散臭さを覚えつつも、一応ここで起きたことは報告しておくべきだろうと思い、簡単に経緯を説明した。自分が"ただの通行人"であることも、しっかり強調して。


「バイトの帰り道で、偶然この人が倒れているのを見かけたんです。救急を呼ぼうとしたら止められまして……これです」


袖についた血の手形を示す。目印のように、くっきりと残っていた。


男たちは俺の話を黙って聞いていた。まるで、すでに知っている話を確認しているかのように。


「ご協力ありがとうございます。……それ、預かっても?」


ひとりが、袖の血を示した。俺は素直に差し出した上着を脱ぎ、渡す。後で返してもらえるんだろうか? どうせなら買い取ってほしかった、もう使いたくないし。


「あの……今の状況がさっぱりわからなくて、ここで何が起きたんですか?」


好奇心半分、あとは無害な一般人を装うために聞いてみた。実際、何もしていないが、疑われて長時間拘束されるのはごめんだ。


瞳を潤ませ、上目遣いで見つめてやる(かわいい)。男性に要求をのませる高等テクニック──今をときめくカリスマキャバ嬢Youtuber"梅子"御用達だ。信頼性は抜群。


巻き込まれたうえにジャケットまで没収されたんだ聞く権利くらいあるだろう。大学で会話のネタになるかもしれない。


男は一瞬、こちらを見据えた。その視線は冷たいガラス玉のようで、人間味のない無機質な目だった。


「この件は特定省庁の管轄です」


低く、よく通る声だった。無駄な抑揚は一切ない。


「詳細は機密のため、お伝えできません。ご協力いただければ、これ以上関与されることはありません」


「……あ、はあ」


納得したような、していないような声が漏れる。


「ご連絡先をお聞きしたい。後日調査のために伺うかもしれません」


差し出されたのは、タッチパッド……のようなものだった。パッドにしては薄すぎる。まるで、紙だ。電子機器に見せかけた、何か別のものかもしれない。


住所と電話番号を書いている間、男たちは一歩も動かなかった。あまりにも静かで、鼓動の音がやけに大きく聞こえた。


なぜ彼らは倒れている男より自分に関心を示すのだろうか。


疑問を口に出すことはしなかった。だって彼らはプロフェッショナルだし、パンピーの自分に介入の余地などないと思った。


「では、改めて感謝を。お気をつけてお帰りください」


つい口走ってしまったのだ。


「まだ救急、呼んでないんですけど……倒れてた方は大丈夫なんですか?」


「──問題ありません。我々が、適切に対処します」


対処? 助けるじゃなくて?


しかし、別の男がすぐに言葉をかぶせてくる。


「この件について、あなたが何か心配する必要はありません。あなたは"通報しようとした"立派な市民です。今夜はよく眠ってください」


口調も、態度も、妙に整っていて、それがかえって冷血さを際立たせていた。


「それでは──」


よくよく考えれば、そもそも通報していないのになぜ彼らはここに現れた?


……いや、考えるな。


この世には、考えなくていいことがある。というか、考えたらダメなことってやつが、確かに存在する。


しかも俺はバイト明けだ。疲れている。眠い。今日のノルマは達成だ!


「じゃあ後はお願いします」


俺は軽く頭を下げ、そそくさとその場を離れた。


足早に夜道を歩く。背後に視線を感じるような気がして、何度も振り返ったのは内緒の話だ。


当然何もいやしなかった。


あの人たちは本当に警察だったのか?


倒れていた男は、結局どうなったのか。


気づけば、指先が微かに震えていた。


帰宅しても、毎晩の習慣だった酒には手を伸ばさなかった。飲まないと眠れないはずなのに。俺はそのままベッドに倒れ込んだ。


---


妙に鮮明な、奇妙な夢だった。


俺の腕に鈍い痒みが走る。見ると──皮膚の下で、何かが蠢いていた。


次の瞬間、銀色の糸が肌を押し破り、ヌルリと這い出す。それは生き物のように、ゆっくりと動きながら、空間を縫い合わせていく。


何かを縫うたびに、何かがこぼれ落ちていく……そんな感覚があった。


目が覚めて手のひらを見る。微かに銀色の光が──


目を擦ると、そこにはいつもの手があった。


「寝不足かな」


時計を見るともうギリギリの時間帯だった。いつも通りの朝だ。


大学に行く準備をしなくては。


大きくあくびをした後、瞼をこすりながら着替える。駅に着くころにはちょうど朝の通勤ラッシュも落ち着いているだろう。


---


駅に向かって歩いていると、すれ違いざまに誰かの肩がぶつかった。


「あっ、すいません──」


反射的に振り返ると、女がいた。まっすぐな瞳、知っている人間を見るような、あるいは、何かを確かめるような目だった。


何も言わずに俺を見つめ、踵を返し去っていった。


「……なんだ今の?」


ぶつかりおじさんの亜種かな? 世の中物騒になったものだ。


まずい、電車に遅れる!


---


「ハーバート・ハートは『法の概念』の中でこう述べています。ルールと道徳は不可分だが、同一ではないと」


法学部の講義は相変わらず退屈だった。こういった時間をいかに有効活用できるかで生活の質が変わってくる。


教授から見えないよう、参考書を盾にしてスマホで時事ニュースを見る。くだらないゴシップから世界情勢まで、暇つぶしにちょうどいい。


アイドルの不倫、食料品の価格高騰、全世界で広がる謎の疫病──お、今ならワクチンを打てばポイントが貰えるらしい。


「私たちはこの視点から、次に問わなければなりません。もし法律が道徳から逸脱したとき、それでもなお従うべきか?」


教授の声が、雑音のように耳に届く。もう終わるようだった。


全く、今日も世の中平和だ。俺はさも真面目な学生のようにノートをとるふりをして教授の好感度を稼ぐことにした。


---


学食はいつも以上に混雑している。


政府が学生向け食堂への支援金政策を施行してからというもの、長蛇の列が当たり前になった。学生限定のはずが、どこからともなく一般人やホームレスまで紛れ込み、学長も取り締まる気はないらしい。事実上の無法地帯だ。どうやら日本は不況らしい。


食券には品名と席番号が記されていて、料理を受け取るとそのまま指定席に案内される。このシステムが理解できず学食を避けていたが、友人に勧められてからは毎日のように利用している。


コンベアから雑に置かれたアジフライ定食を受け取り、指定された席に腰を下ろす。周囲の喧騒をよそに、衣が剥がれかけたアジフライを箸でつまむ。ソースはやたら甘かったがコスパを考慮すれば許容範囲内だ。


「まーた同じもん食べてよく飽きないな。アジフライマニアなのか? ほらたまには違うもん食えよ」


隣の席からメンマが投げ込まれた。俺を気遣ってのものではない、こいつが食えないからだ。


「……いらねえよ。お前の食い残しなんか」


そういいつつも勝手に手が動いて食べてしまう。体は変化を欲していたようだ。隣の不審者は俺の内心を見透かしていたかのように満足そうに嫌味な笑みを浮かべた。


「ってかさ、お前ニュース見た? ワクチンでポイント貰えるとか、意味わかんなくない?」


「ああ、講義中に見た。もうメディアやら同調圧力で自発的に受けさせるのが難しくなったんだろうな」


「本当は伝染病なんて嘘っぱちで国民使って人体実験してるらしいぜ」


「そんなわけない。だったら回りくどい事せずにもっとコストの安い国に外注すればいいだろ」


学食で友人同士隣合うことなんてめったにない事なので新鮮な気分だった。他愛もない話をしながら昼食をとる。


「そういえば昨日さ……」


突然、桐生の座席から時間超過のアラートが鳴った。学食の座席には時間センサーがついていて、混雑時に一定時間を超えるとアラートが鳴る仕組みになっている。


桐生は「もうかよ!」と悪態をつきつつも、手元の食器をさっとまとめ、備え付けの布巾でテーブルを拭いていった。


普段は乱暴な性格でも、こういう細かい気遣いが無自覚に人心を掴むのだろう。女が離れない理由が分かる気がする……けどこいつに騙される奴はやっぱり馬鹿だと思う。


そんな物思いにふけっているうちにアラートが鳴った。急いで飯をかき込んでさっさと席を離れる。


飯ぐらいゆっくり食わせてくれよ、どうせ忙しくしたってGDPは上がらないんだから。


---


放課後、教授に出されたレポートの資料を探すため、図書室へ足を運んだ。


この場所の空気が、昔から好きだ。誰かと話す必要もなく、誰もこちらに興味を持たない──そういう適度な距離感が、ここにはある。


整然とした空間のなか、誰もが小さな光源の下で黙々と自分のタスクに向かっている。


どこか修道院にも似た、この厳かな雰囲気が心地よい。宗教には縁がないが、自分のなかの祈りの場って、こんな静けさのことだと思う。


日常と、この間には、うっすらと結界のような境界がある気がして、いつもそれを跨ぐたびに少しだけ気が引き締まる……そんなことを思ったのもつかの間、そこにプロがいるではないか。


プロ……別名大島、過剰文系とも呼ばれ主に図書室に生息している。選択してもいないゼミに出席し、暇な時間は図書室で参考書を読み漁って暇をつぶす……ミスタークソ真面目だ。


彼がいればレポートの作成時間もさほどかからないだろう。俺が手を挙げて挨拶すると、彼は静かにうなずいて応えた。


大島の隣に腰を下ろす、手元のプリントを出して彼に要点を伝えた。


「というわけで……ハートとデヴリン論争について分かり易く、かみ砕いて教えて欲しい」


「どういうわけかは知らないが教えてやるよ、貸し一つでな」


二人で場所を変えることにした。静かな話し合いには、図書館の外にあるテラス席のほうがちょうどいい。


夕方の光が、校舎の影を長く引き伸ばしていた。レンガ敷きの道に、それが穏やかに重なっている。


講義棟のドアが開き、学生たちがまばらに流れ出てくる。駅へと急ぐやつ、スマホを見ながら歩くやつ、友人と笑い合うやつ。


自分もその一部なのか、ただそこに混じっているだけなのか。


夕方という時間帯は、どうも湿っぽくなるから苦手だ。


そう思っていたところに、大島が図書館から出てきた。本の返却を終えたらしい。声をかけ、さっそく教えてもらうことにする。


俺はプリントを取り出して、ちらりと見せた。


「ふんふん。ざっくり言うと、"法律は道徳とどこまで関わるべきか"って話だよ」


「……ほう」


「ハートは『法律と道徳は別』って考え。つまり他人に害がないなら、不道徳でも法律で罰するべきじゃないってスタンス。一方でデヴリンは『道徳を守らないと社会が壊れる』って主張している。だから、みんなが不快に思う行為は、法律で止めるべき"って立場だな」


「なるほど、自由か秩序かってやつか」


「そう。ハートは個人の自由優先、デヴリンは社会の常識優先。同性愛とか売春とか──"害はないけど嫌悪感を持つ人が多い行為"が焦点だった」


人はしばしば自由を求めるが、不思議なことに得た後については関心がない。


秩序はたしかに、人を縛る足枷となることがある。だが、制限なき自由は、しばしば精神を蝕む毒となる。


デヴリンが危惧したのは、まさにこうした誰にも迷惑をかけていない自由が、社会の道徳的土台そのものをじわじわと侵食していくという構造だったのではないか。自由は無条件で価値あるものではなく、ときにそれは毒薬として社会に作用する。


大島が話し終える前に結論を出してしまった。先走って行動する悪い癖だ。


「……この論争、答えはないけど、今もずっと続いている。……まぁ、レポートに使うなら『法と道徳の境界は常に揺れている』ってオチでまとめとけば、減点はされないよ」


「なるほど……つまり、自由って感じるだけで十分で、ほんとは多少制限されてたほうが、社会としては安定するんだよな。じゃあさ……みんなが気づかないように、うまくルールを組めば……平和って成立するんじゃない?」


「……たとえば?」


「うーん……例えば、メディアの使い方とか。情報をコントロールして、選ばされている自由を自然に感じさせるとか。あとは……民主主義って建前だけ残して、実際はインテリが意思決定している社会。そういう形って、案外安定する気がする」


少し間を置いて、ぽつりと付け加える。


「後は、自浄作用さえあれば完璧なんだけど。……どうすれば形にできるんだろうな」


……本気で言ったつもりはなかった。でも、言葉にしてみると、案外しっくりきてしまった。


「……それ、気づいている? 君が言っているの、けっこう怖いことだよ」


「怖さも……感じなくなるよ。そもそも、それが怖いって、認識できなければ。みんなが自由だって思っていれば……それで済んじゃう。案外、平和なんじゃないかな」


大島は目を見開き、しばし沈黙したあと、声を上げて笑った。ウケを狙ったわけじゃないんだけど。


「凪らしい面白い発想だとは思う。その内容で提出してくれよ、教授の反応が見てみたい」


まさか、レポートとして出すにはいささか過激な内容だ。主張がしたいならSNSにでも書き込めばいい、わざわざ教授に訴えることはない。


「冗談だよ、思考実験ってやつ。……ま、レポートにはAIと政治の境界管理でも書くよ。現実味もあるし、今の流行りだしな」


大島はそうかとつぶやいた。レポートの方向性も決まったし有意義な放課後だった。


---


帰り道、大島に誘われてファミレスに付き合うことになった。


「借りは即返済。それが俺の流儀だ」


……らしい。どうやらこの男には、踏み倒し戦術は一切効かないようだ。


まあ、ちょうどいい。俺も昨夜のことを誰かに話したくてしょうがなかった。大島なら特定省庁とやらについて何か知っているかもしれない。


「いや、知らないけど」


テーブル越しにストローをくわえたまま、大島は素っ気なく言い放った。博識みたいな扱いされても困るんだよな、と軽く笑って肩をすくめる。


……クソ、夕食代返せよ。


「警察って、その手帳とか見せてきた?」


「一応それっぽいの出してきたけど、咄嗟だったし、細かいとこまでは……」


「服装は?」


「黒いスーツ。普通に見えたけど、どこか事務的な感じはあったかな」


「車は?」


「車には詳しくないけど見たことのない車種だった。ナンバーまでは見てない。ってか……深夜だったのに、ライトも点けずに止まってた」


大島はわざとらしく顎を撫でる仕草をして答えた。ちょっと様になっていてむかつく。


「……それ、たぶん公安か、それに準ずる特務機関の人間だと思う」


大島はそう言って、ジュースのストローをくるくると指先でいじる。


「反社ではなくて?」俺が疑問を挟むと、彼は一瞬だけ目線を上に向けて考え込んだ。


「うーん……いや、まずライトを点けずに深夜走るっていうのは、普通に考えたら道交法違反。だけど、反社ならむしろ目立たないように無灯火で動くメリットないんだよな。そういう人達は見つかることに慎重になるから、そういう不用意な行動は取らない」


「つまり?」


「つまり、見つかっても構わないか、そもそも摘発対象にならない立場っていうこと。で、手帳だけ出して、詳細を一切語らないっていうのも──まあ、公安の典型的なムーブだよな。身分を明かす必要がないくらい、法の内側でギリギリのことしている連中」


「それって、逆に目立つだろ。現に俺がこうやって怪しんでいるし」


「怪しいよ。でも君が今警察か反社か迷っていること自体が、彼らの戦略の内かもしれない。公安、内調、防衛省、内閣情報調査室……名前なんていくらでもある。たぶん、そのどれかか、それらの下部組織。少なくとも、反社が警察手帳もどきを持って堂々と人の前に立つとか、考えづらい。国家の名前を背負っているけど、その分どこにも名前が載らない人たち──そういう類いだと思うよ、君が見たのは」


反社ならその場で口封じしそうだし、と付け加える。


なるほど。俺の目の前で行われていたのは合法的な殺人というわけだな。


「ひょっとして俺死ぬの?」


「それは凪次第なんじゃない? 相手がその気なら、今ここにいないはずだし。国家機関なら、一般人を乱暴に潰しにくるとも考えにくい」


どうしてこいつはこんなに冷静なんだろう。目の前で友人に危機が迫っているというのに、まるで他人事だ。


「もっと安心させてくれても良くない? 俺は不安だよ」


「急にメンヘラみたいなこと言いだすじゃん。取り繕っても仕方ないだろ、危ないのは事実なんだ。だから警戒しろって言ってるの」


そのあと、今後の身の振り方についていくつかアドバイスをもらったけど、正直、あまり頭に入ってこなかった。


重苦しい空気のまま、店を出た。気を遣って会計は大島が持ってくれたけど、却って事の深刻さを強調したようでますます不穏さが増した気がした。


帰り道、少し冷静になって考える。今の状況は、それほど悪くないのかもしれない。


現に俺は生きてるし、自由に動けている。誰かにつけられてる気配もない。案外、このまま何事もなく終わるんじゃないか?


なにも、悲観的になることはない。いつも通り、生活すればいいだけだ。


……全て制御可能だ。生きているなら、なんだってできるさ。


---


帰宅途中に買い込んだ酒を冷蔵庫に押し込んだ。


居間に行くと、書置きがあった。


「出張で富山に行ってきます。留守番よろしくね」母からだった。メモの下には5000円札。


父親は今日も泊まりだろう。時間帯が合わないのか、帰ってきていないのかすら判断がつかない。それほど、お互いに無関心だった。


人の生活の痕跡の中に、自分一人でいると、言いようのない不安に襲われる。


孤独や不安を感じるたびに誰かに連絡して構ってもらおうとするのは二流だ。俺のような一流は、そういう時、決まってテレビをつける。


気を紛らわせるにはちょうどいい。スマホで動画を垂れ流すより、テレビの雑音の方がなぜか安心する。なぜだろうな。思考は、はるか彼方へ飛んでいった。


「東京都内でまた一件、立てこもり事件が発生しました。容疑者は誰かに追われていると主張していたということで──」


「また、先週以降、都内各所で通報されていない火災の痕跡が複数発見されており──」


そういえば腹が減ったなと思い、冷蔵庫を漁った。お、オクラ、メカブ、納豆。今夜はねばねば尽くしだ。


夜は静かに更けていった。


---


資本主義の再開発で作られた街のくせに、風景はどこか共産主義的で、不気味なアンバランスさがあった。どの建物も同じ色、同じ高さ──まるで個性という概念を根絶した都市だった。


静かな夜だった。南与野は、どこまでも眠っているような町だ。


俺が住むこの町は、不動産屋が言うには都心に近くて閑静、それでいて教育環境も整った人気エリアらしい。通学に便利だとか、治安がいいとか、耳ざわりのいい言葉ばかり並べ立てるが、実際に暮らしてみればすぐにわかる。これはただの「過不足のない田舎」だ。というか治安も良くない、チャリは盗まれるし……人も行き倒れてるし。


公共施設やインフラが充実し、物質的にも不足のない街になぜこのような鬱屈した感情を抱くのか、突き詰めていけば自分に問題があるのだろう。都会に住んでも何かしらの不満を見つけて文句を言っている自分が容易に想像できた。


ふと目が覚めた。テレビは消えていて、部屋は静寂に沈んでいる。時計は午前1時。丑三つ時ってやつだ。


トイレに立ち、ふと玄関に目をやると、父親の靴はなかった。やはり今日も泊まり仕事らしい、可哀そうに。だが、彼にとっては仕事が生きがいなのだろう。


まあ、家庭を顧みずに仕事に没頭する姿勢には、男としてどこか憧れる部分もある。──苦労する母親がいなければ、の話だが。


トイレから戻ると、カーテンがわずかに揺れた気がした。窓を閉め忘れていたのかな?


めくってみると、見慣れた風景。少しだけ窓が開いていたようだ。外は深夜らしい静けさで、どこか不気味だ。


視線を上げる、向かいのビルが目に入った。最近できた建物で、住宅バブルの余熱に乗って突貫工事で仕上げた、拝金主義のモニュメントみたいな代物だ。


あれが建ってから、うちの陽当たりは壊滅状態。たぶん住宅価格も下がった。知らんけど。


窓とカーテンを閉め二度寝することにした、寝る子は育つのだ。

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