夜はまだ終わらない
め違ぇて連載にしてしまったが短編です。
『夜はまだ終わらない』
第一章 湿った壁と鳴らない時計
雨が降っていた。
ここではいつも雨が降っている気がする。
実際はそうじゃない。晴れた日も、曇りの日も、雪の日すらある。
けれどジークにとっては、マイケルと暮らし始めてからずっと、雨の音しか記憶に残っていなかった。
壁紙がわずかに剥がれたリビング。時計はとっくに止まっている。
時間が死んで久しい。
それでも二人は朝に起き、食事を作り、時折言葉を交わす。
「雨の音、好きだったっけ?」
マイケルが不意に訊ねた。
「好きだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない」
「じゃあ、今は?」
「お前がいると、うるさいと思う」
マイケルは笑わなかった。けれど怒りもしなかった。
その目には、長い夜を越えてきた者だけが持つ、耐えるような色があった。
「ごめんね」
その言葉は、空気よりも軽かった。
濡れた床に落ちても、音を立てずに染みこんで消えていく。
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第二章 冷蔵庫の奥
その日の朝食は、マイケルが作った。
薄いスープと焼きすぎたパン、それに焼きすぎていないマッシュルームの炒め物。
ジークは何も言わずに皿を見つめる。マイケルは黙って座る。
「最近、肉を買ってない」
ジークが口を開いたのは、それが気になったからではない。
ただ、何かを言わなければ、沈黙に沈みきってしまいそうだった。
「冷凍庫に少し、残ってたから」
マイケルはごく自然に答える。だがジークは、あの夜を思い出さずにはいられなかった。
“これは、エレノアじゃないよ”
そう言って、彼は皿を差し出した。
嘘は滑らかだった。味もそうだった。あの夜から、ずっとそうだ。
ジークはフォークを置いた。
「まだ、許してない」
「知ってる」
「だったら、なぜ隣にいる?」
「君が一人にならないように」
「俺の望みは、そうじゃない」
「でも、僕の望みはそうなんだ」
マイケルは穏やかに微笑んだ。ジークは視線を逸らした。
壁のしみが、少し大きくなっていた。
第三章 外の空気
家の外は、思ったよりも冷たい空気だった。
ジークはマフラーも巻かずに出て、静かな林道を歩いた。
誰もいない道。鳥の声も、風の音もない。
それなのに、背後からついてくる足音だけが聞こえた。
「マイケル。ついてくるな」
「一人にしないって、約束したから」
「それは、約束じゃない。呪いだ」
「……そうかもしれない。でも、君も呪ってるように見えるよ。僕を、ここに縛ってる」
ジークは振り返らなかった。だがその言葉が、妙に胸に残った。
彼が望んだのは「マイケルと二人で暮らすこと」だった。だが、望んだ形ではなかった。
エレノアの声が、時折耳に残る。
笑っていた声。泣いていた声。
けれど何よりも強く残るのは――
「ジーク、マイケルが好き」
あの、淡く、まっすぐな告白の声だった。
その瞬間、ジークの中で何かがひび割れたのだ。
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第四章 湿気と火
夜。ストーブの火は弱く、部屋はどこかぬるい。
湿気が壁から床へ、そして空気へと這いまわっていた。
マイケルがスープを煮ている音だけが、空間をかすかに揺らしていた。
「ジーク、最近よく眠れてる?」
「眠ると、エレノアが出てくる」
「怒ってる?」
「……笑ってる」
「よかった」
ジークは顔を上げた。
マイケルは本当に、心の底から“よかった”と思っていた。
――この男は、本当に壊れている。
そう思った。そう思って、少しだけ救われた気がした。
「俺は、あの時からずっと眠れてない」
「……知ってるよ。だから、僕がいる」
「俺を見張ってるんだろ」
「ううん。守ってる」
ジークはスプーンを置き、立ち上がった。
マイケルの後ろにまわる。そして、そっと言った。
「お前が死ねば、きっと眠れると思う」
マイケルは火を止めた。
「君が望むなら、そうするよ」
返ってきたのは、躊躇のない言葉だった。
それがあまりにも自然で、ジークは背中に力が入らなかった。
「……それじゃ、意味がない」
「じゃあ、何をすれば、許してもらえる?」
ジークは答えなかった。
答えなどなかった。ただ一つだけ確かなのは――
彼は、マイケルを愛していなかった。
第五章 骨と記憶
押し入れの奥に、箱がある。
木箱。古びた鉄の留め金。
鍵はかかっていない。かけたことがない。
ジークは時折、その箱を開ける。
中には何も入っていない。そう思い込もうとする。
けれど実際には、何本かの骨が入っている。
指の骨。肋骨。たぶん、顎。
マイケルが捨てきれなかったもの。
ジークが燃やせなかったもの。
それを見て、何度も考える。
これを警察に持って行けば、すべて終わる。
だけど、終わらせたいわけじゃないのだ。
マイケルと、ここで暮らすこと――
それはジークにとって罰であり、支配であり、復讐でもあった。
そして何より、エレノアの残した感情を
“永遠に殺させないため”の方法だった。
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第六章 崩れない二人
夜中、ふと目が覚めた。
隣の部屋から、かすかな音がした。
マイケルの声。誰かと話している。
「……うん、うん。大丈夫。ジークは……まだ僕を見てるよ」
ジークは静かに立ち上がる。
扉の前に立ち、耳を寄せる。
「うん、エレノア。君はもういないけど……僕たちは一緒にいる」
一緒に?
誰と、誰が?
ジークは扉を開けた。
マイケルは小さな箱を抱えていた。骨が入っていた箱。
彼は、骨と会話していた。
まるで、そこにエレノアがいるかのように。
マイケルの視線が、ジークをとらえた。
「……ねえ、エレノアが、笑ってるよ」
ジークは、マイケルの顔を見た。
その目は、どこまでも純粋だった。
――気が遠くなりそうだった。
第七章 夜はまだ終わらない
春が近づいていた。
けれど、この家には季節がなかった。
雨も風も、いつだって閉じ込められている。
ジークはソファで眠っていたマイケルの隣に座る。
マイケルは目を開け、微笑んだ。
「……おはよう」
「俺たち、これからどうなるんだろうな」
「ずっとこうだよ。君がいいって言うなら」
ジークは窓の外を見た。
あの林道、あの静けさ。
自分の世界の中に、もう逃げ道はなかった。
「お前を許すことは、一生ない」
「わかってる。でも、それでもいい。君の隣にいられるなら」
「……気持ち悪いな」
「うん。でも、君も少しだけ笑ってくれる時がある。だから、僕はそれでいい」
ジークは、ふっと笑った。
その笑みは、どこにも届かない。
許していない、信じていない、けれど失いたくない――
そんな矛盾が沈殿した、濁った笑みだった。
外はまた、雨が降っていた。
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【終幕】
エレノアは死んだ。愛され、憎まれ、喰われて、忘れられない。
ジークもマイケルも、生きたままそれを抱え続ける。
夜は、まだ終わらない。
終わらせるつもりもない。
二人の家に朝は来ない。
そのまま、ずっと。
雨と湿気と、狂気の中で。
⸻
完。