『浅い夢だから』
「全部ぜんぶ、無駄にも思えてくる」
バニーガールの格好をした少女――【待ち焦がれる兎】は、白い床にへたり込んで、視界に入るウサ耳を撫でながら、果ての無い“部屋”を見上げていた。網タイツ越しの白い床はヒンヤリ温かかった。
「快楽の海に浸かる感覚は如何だったかな? 【待ち焦がれる兎】よ」
[兎]の部屋に設置されていたベッドに、柔和に歪んだ笑みを張り付けた職員が腰掛けていた。姿が変化すれど、【神】の存在感は変化しないものだ。
「そんなものより、心が痛かった」
顕れた【神】の問いに、【兎】はそう即答した。
「私が[兎]になることも、私がされたことも、私が死ぬことも、全部あなたが決めたの?」
「いかにも」
「よくもまぁ、こんな厭な“物語”を書いたもんだわ」
呆れた声で【調律師】はそう言ってのけた。
「殺害以外で最も人を痛めつけるのは魂の殺人。それをテーマにした悲劇を我々の手によって書いてみただけのことだ」
「違った、悪趣味の間違いだった……」
「そんなことで……? そんなことのために、私達をぐっちゃぐちゃにしたって言うの?」
「順序が逆だ。その悲劇の為だけにお前が創られ、今やお前は悲劇のヒロインとして未だ此処に存在して居るのだ。感謝して欲しいところだな」
厭な笑顔のまま、【神】は【兎】の耳へ、“世界”の真実を突き込む。
【兎】は、撫でていたウサ耳をグシャリと握り、離した。
「私は、あなたを許さない」
「と、【兎】は言った……そうやってお前が怒ることも、我々が書き出している事象にすぎない」
「全部ムダよ……黒い文字が白い“部屋”を埋めて、それがアタシらを動かすの。……それでも、アタシはアナタに訊きたい」
そう言って、【調律師】は黒いピンヒールを鳴らして【兎】に歩み寄り、しゃがみこんで目を合わせた。
「アナタは、このあとどうしたい?」
「あの子を、幼馴染を……あの人を、待っていたい」
【兎】は、思い出すように手首をさすった。
「まだ、一緒に居たいから」
「そう」
差し伸べられた手を取って、【兎】は立ち上がる。
「直ちにお前達を“蝶”にして飛ばしてしまっても良いのだがな」
教壇に立つ教師が、3人に言い放つ。
「それでも、この想いを忘れて、約束を破るなんて、できません」
【兎】は、光を宿した目で【神】を見据えた。
「ですってよ」
【調律師】は【神】へ振り向きざまに視線を流した。
「離れない、離したくない思いってもんは、ソコにあるかしら?」
『初恋』
村下孝蔵の楽曲。1983年リリース。