猪頭様降臨
想定外の事態という訳ではなかったが、如何せんタイミングが悪い。
何せ今手越は着替えている真っ最中なのだ。
ましてや俺がいる状態では確実に猪頭の餌食となり、手越には考えうる限り最悪の被害が及ぶことは言うまでもない。
「取り敢えず手越に説明し、試着室にいて貰うか……」
いや猪頭と愉快な仲間たちがいつ退店するかなど予想がつかない、そうなれば店員も心配して手越に声を掛ける可能性も……。
「こうなったら俺も試着室に……」
などと。
我ながら余裕がないのか、随分と哀れな思考が働き始めていたが――
「――ん」
ふと目の前にマネキンがあることに気づいた俺は、店員に気づかれないようカツラとサングラスを外すと、それらを試着室の中に突っ込んだ。
「うわあぁぁ!!!?」
「おい、静かにしろ」
「し、静かにって――お前が驚かせたんだろ変態!」
「悪い、だが猪頭達と鉢合わせてしまってな」
「え、そ、それは……」
「まだこちらには気づいていないが時間の問題だ。だから手越は今渡したモノを身に付けたら、他人のフリをして試着室から出ろ」
「……あ、ああ、わ、分かった」
もう少し抵抗をされるかと思ったが、思いの外素直に応じた手越は俺の手からカツラとサングラスを取ったので俺は試着室から手を引き抜く。
「さて……」
これで手越に及ぶ被害はほぼ無くなったと言っていいか。
とはいえ俺に気づかず帰ってくれればそれに越したことはないのだが――
「――は? 何でキワモノがこんな所にいんの」
しかしそんな淡い希望は秒で打ち砕かれる。
愉快な仲間たちの内の一人、溝口が俺の存在に気づいてしまい、一瞬にして猪頭様のお耳へと入ってしまうのであった。
「え、なになにどういうこと? ――うわマジで足達いるじゃん。ヤバ過ぎるでしょ、ここレディースの店なんだけど」
「いやキワモノだからに決まってるでしょ」
「あ、そういうこと、つまり変態じゃん、キモ」
分かってはいたことだが、完全に女装趣味な男だと思われてしまった俺は溝口と山口に侮蔑的な視線を向けられてしまう。
別に女装の癖はない、しかし人の趣味など自由だと思うが――
いや、仮に彼女達がそれを許容していたとしても、キワモノの俺であるという時点で格好の餌でしかないだろう。
ましてや猪頭様の御前となれば、自然とトーンも強まるに違いない。
「ふんふんふーん……」
だが当の猪頭は確実に気づいている筈だというのに、我関せずといった態度で鼻歌でも唄いながら秋冬物の服を漁っていた。
……気に食わん女だ。何処までも自分の手は汚さんか。
「おい、性癖歪み野郎」
「おい、せめてキワモノと言え」
「は? 何? もしかして私達にも手をあげるつもり?」
「キワモノだし歪んでるし野蛮とか終わってるでしょ」
「…………」
……心底面倒臭いなコイツら、誰がこんな場所で手あげる奴がいるか。第一俺は女には手は出さん。
しかしそうだとしても、俺は強く抵抗することも出来ない。
無論それは、こんな状況では圧倒的不利に決まっているからである。
つまり俺はこの愉快な仲間たちのサンドバックになるしかないのだが……鼻山を迎撃しても尚この高圧的な態度――
猪頭め、案外俺のことを分かっているのかもしれんな。
「つうかさ、丁度今萌香いるから謝ったほうが良くない?」
「だよね、わざわざこんなこと言ってあげる機会もう二度とないよ?」
「謝る? 一体何をだ」
「ウザ、この後に及んでとぼけるとか何様?」
「お前の気持ち悪い性癖バラされたくなかったら、モエに傷つけたことを謝れっていってんの。あ、モチロン土下座で」
「悪いことしたら謝るくらい小学生で習うことだと思うけど」
「確かにそうだな。しかし虚実に対し理不尽に謝罪させることを小学生で習った覚えはないだが」
「! お前いい加減に――!」
「まあまあ、それくらいにしときなよ、ここお店の中だよ」
すると。
僅かにヒートアップの匂いが立ち込めだした所で、ついに猪頭萌香様が俺の目の前に現れた。
全く、ようやく出てきたか――まあだからと言ってこいつが自ら手を下すような真似は死んでもしないと思っているが。
「えーと、初めましてだっけ、一応同じクラスだけど」
「まあそうだな、会話は一度もしたことがない」
「そうなんだよねマジでさ。なのに皆が凄い足達が私の悪口を言いまくってるって言うもんだから、何か変だよねえ」
「全くだな、俺もそのせいで随分と困っている」
案の定自分は何もしていないというスタンスを見せながら、しかし核心には触れた発言をし始める。
まあウチの愚息がごめんなさいという態度は取っておかないとな、陰湿などという印象を持たれるのはお前も本意ではないだろう。
「だいたい直接聞いた訳じゃないから事実かも分かんないしさぁ、正直私も結構困ってるんだよね」
「そりゃそうだろう。思い通り動かない輩は扱いが面倒だからな」
「……言ってる意味がよく分かんないけど、まあいいや。だからこの際だし聞いておきたいんだけど――足達って本当に私の悪口言ったの?」
「いや、言っていないな」
僅かに広角を上げ、しかし一切笑っている様子の無い瞳を俺に向けながら口にした猪頭に対し、俺はそう返答する。
「ふーんそう。じゃあなんでこんなことになってるんだろ」
「さあな。ただ又聞きというのは事実と違うことが往々にしてあるものだ。変な解釈をして伝えた人間いたのかもしれ――」
「ん? てことは何か言ったのは事実ってこと?」
まるでついに尻尾を出したなと言わんばかりに、俺の発言に対し猪頭は平静を装いつつも食い気味に質問をしてくる。
なんだ。これで正式に俺をフルボッコに出来るとでも思ったのだろうか、だとしたら勘違いもいい所なのだが……。
まあいい、これでお前をリングに引きずり出せるなら好都合である。
故に、俺ははっきりとこう口にした。
「ああ、皆が言う程猪頭は可愛くないと言ったのは事実だ」