トイレの攻防
その日の朝、SHR後。
震える感触が腿に走った俺はポケットからスマートフォンを取り出すと、トークアプリを介して首藤からこんな連絡が入っていた。
『田口くん、また何かやるみたいでーす』
依然白い目が降り注いでいるものの、比較的穏やかな朝を過ごしていたというのに、どうやら田口という男は相当俺のことが好きらしい。
冗談はさておき、流石に俺も上履きを捨てられる程度で終わるとは思ってなどはいない。
(寧ろ問題は田口が何を仕掛けてくるか、傾向的に陰湿な行為を好む男だとは思っているが……)
そう考えていると、またブブッと通知を知らせる振動が起きる。
『あとお前が猪頭さんをディスった件、鼻山先輩の耳に曲解して入ったってよ。悪いが俺は長い物に巻かれることにする、さらば裕貴』
『別にディスってなどおらん、あと鼻山先輩っていうのは誰だ』
妙な新情報だけ送りつけ別れを告げようとする首藤に俺は即座に返信をするが、一向に既読がつく気配はない。
仕方なく顔を上げ黒板側の出入り口付近に視線を向けると、そこには俺になど目もくれずにご友人達と雑談をする首藤くんの姿があるのだった。
成程、どうやら奴は人でなしだったらしい。
(とはいえ、足達丸という名の泥舟に喜んで乗船する輩がいる筈もない)
そういう意味では首藤の態度も理解出来なくはない、寧ろ手切れとして情報を貰っただけでも感謝しておくべきか。
「……ん」
すると首藤がいる場所とは真逆の位置から視線を感じた俺は、視線をそちら側に移すと手越が俺を見ていることに気づく。
ふむ、今日も手越は学校一可愛いな。
「…………ふん」
しかし向けられていた視線は残念ながら軽蔑の類であり、俺と視線の合った手越は途端にそっぽを向いてしまう。
……まあ、自業自得だな。ただでさえ印象が悪いというのに、怒らせてはあんな顔になるのも致し方がない、だとしても可愛いのだが。
いずれにせよ、謝罪は必要だろう、詫びの品はそうだな――
「手持ちは今いくらだったか……ん? 待てよ、財布か……」
◯
「人の財布で飯を買わなかったことだけは褒めてやろう」
昼休み、B棟3階男子トイレにて。
俺は教室を出てすぐにあるトイレに向かうフリをしてある3人の男子生徒達の後を付けると、上記の場所に入った所で声を掛けていた。
その内の一人は言うまでもなく田口である。
「はっ?」
肩をビクっと震わせた田口は一瞬焦った様子を見せたが、声の正体が俺だと分かったからか、急にヘラヘラとした表情になるとこんなことを言い始める。
「な、なんだ、足達じゃねえかよ、お前如きがビックリさせんな」
「驚くのに如きも糞もないと思うが、取り敢えず財布を返して貰おうか」
「財布? ああ……こ、これのことか――何だよお前の財布だったのかよ、落ちてたから拾って職員室に届ける所だったんだが」
ほう。つまらん開き直りでもするかと思っていたが。どうやら安い嘘をつくぐらいの機転は働かせられるらしい。
いや寧ろこれこそが田口という男なのか。
(落ちていた……か)
無論実際はそんな筈はない。
何故なら俺はワザと見えるように鞄の中に財布を置いていったのである。つまり財布が独り歩きしない限りは田口が持ち去った以外に考えられない。
何なら気が緩んでいるのか俺の財布を隠しもせず教室から出てくる姿を確認した上で追跡している為、本来言い訳など不能なのだが――
「そうか、因みに財布は一体何処に落ちていた?」
「は? んなもん……教室から一番近くの男子トイレだよ」
トイレが好き過ぎるだろこいつら。
咄嗟に思いつかずつい今いる場所を言ってしまったのだろうがあまりに稚拙が過ぎる、嫌がらせをするならもう少し捻ってはくれないものか。
「なんだ、まさかお前達トイレをはしごしてるのか。悪いがキワモノと呼ばれる俺でもそんな趣味を持ち合わせていないぞ」
「……そ、それは」
「さっきからゴチャゴチャうるせえよ! まさか疑ってんのか!?」
すると田口の隣で黙って聞いていた男子生徒が堰を切ったように俺に突っかかってくる。名は確か、堀口だったと思うが。
「田口がトイレで拾ったって言ってんだろ! それをわざわざ職員室に届けてやろうとしてんのに、俺達が盗んだとでも思ってんのか!?」
「当たり前だろ、抜けたことを言うな」
「え?」
「俺は自分の財布をついさっき鞄の中に仕舞って教室を出たのだ。なのにそれをお前達が持って外に出ていく姿が見えた、後を追いかけてみれば職員室ではなくこんな辺鄙なトイレと来ている、疑わない方が無理だと思うが」
「そんなのお前の見間違いだろ! それに俺達はトイレに行った後に届けるつもりだったんだよ!」
「用を足すならその落ちていたトイレですればいいだろう。大体教室から離れたトイレで用を足していいのは一人で大の時だけだ」
「それは偏見だろ!」
「それはそうか」
いや納得してどうする。というか完全に本線から外れてトイレ議論になりかけているではないか。
取り敢えず話を戻さなければ、こんな苦しい言い訳通る訳ないだろうと思っていると、まさかの形勢が逆転出来ると思ったのか、田口が自信あり気にこんなことを言い始めた。
「大体証拠はあんのかよ! 俺達が財布を盗んだのを見たって言ってるけどよ、お前が嘘をついてる可能性だってあるじゃねえか!」
「そうだ! ちゃんと証拠があって言ってるんだろうな!」
「そもそも猪頭さんを陰湿に叩く奴の言う事を誰が信用するんだっての!」
刹那、口々に捲し立て始める田口ご一行に俺は少々呆気にとられる。
まるで多数決ならお前など敵ではないと言わんばかりの口調だが、まさか本気で罠だと気づいていないのだろうか。
まあそれなら猪頭に利用されても頷ける話だが。
「もし証拠もねえのに因縁をつけてるなら――」
「分かった分かった。今お前達が俺の財布を盗んだ証拠写真を見せてやるから少し待ってくれ」
「絶対許さな……は?」
「何だ呆けた顔をして、証拠を見せろと言ったではないか」
「い、いや、そ、そうだけど」
「まさか証拠が無いとタカを括っていたのか? 悪いがこんな便利極まりない時代に証拠を残さない方が無理な話だと思うが」
「「「…………」」」
あれだけ威勢の良かった田口ご一行は、その一言で完全に言葉を失う。
そしてバツの悪そうな表情を浮かべ、互いが互いに『お前が悪いんだろ』とでも言いたげな視線をぶつけ合い始める。
その姿は、滑稽以外の何物でもなかった。
……まあこの辺でいいだろう。
己の魅力の無さを、他者を蔑むことで埋め合わせる人間を甚振る趣味はない。
「――別に財布を返し、こんな低俗な真似も止めればお前らを教師の前に突き出したりはせん、取引の条件はそれだけだ、安い話だと思うが」
「ぐ…………わ、分かっ――」
「?……手越くん?」
「何?」
すると田口の片割れ(江口だったか)が突如発した言葉に、俺は反射的に振り向くと、そこには確かにこっそり覗き見る手越の姿があった。
何故彼女が? そう思ったと同時に今度は背中に何かがぶつかる衝撃が走る。
それが俺の財布だと理解した時には田口達は俺の脇をすり抜けトイレから逃げ出していた。
「お前みたいなキワモノには手越がお似合いだクソが!」
そして見事なイタチの最後っ屁を食らうとあっという間に姿を消すのだった。
「おいおい全く……俺と手越では釣り合わんに決まっているだろう。第一無関係の人間に流れ弾を当てるなどあいつら――っと」
「あっ……い、いやその……」
気づかれてしまったからか、手越は慌てて視線を泳がせる。
ただその様子は何か言いたげではあったが、言っていいものか悩んでいる風にも見えなくなかった。
……ふむ。こうなってしまえば知らぬ存ぜぬとはいかないだろう。
故に俺は財布を拾い上げるとこう口にするのだった。
「取り敢えずここから離れるとしよう、この構図は大分勘違いされる」