序章09話 魔の森に住まうもの03。
――初めてだった。まるで陽だまりに包まれているような暖かい気持ちになれたのは。
――初めてだった。ヒトの感情がこんなにも心地よく、笑顔がドキドキするものだと理解したのは。
――初めてだった。自分の感情が制御できず、それでもなお悪い気分では無かったことは。
……初めて、だった。別れというものが、身体を中心点から引き裂かれたような痛みを伴うものなのだと知ったのは。
運命とは何と素敵で、何と残酷なのだろう。我が身を不幸だと嘆いたことなど無かったが、それは幸せを知らなかっただけだったのだ。
繰り返される生。その輪廻から逃れるすべを、私は知らない。
それが私に与えられた役割であり、それそのものこそが存在する理由でもあったからだ。
その役目こそが”人柱”。世界に災厄が訪れんとする際に女神の導きより産み落とされ、それを防ぐためだけに生誕する。ただそれだけの為の存在だった。
ヒトは須らく私の事を、災いを退ける女神の御使い――”救世の巫女”と呼んだ。産んだものは皆から祝福を受け、口々にやれ英雄だやれ救世主だと囃し立てた。
皆が皆、恐れ敬い祈りを捧げる。産んだ両親ですら例外では無い。誰もが皆、女神の御威光を私の影に感じていたのだ。
にこやかに笑いこれで安泰だと宣い、私の死の後に訪れるであろう一時の安寧を分かち合う。実に愚かで浅ましい。
アイシュ教徒。そして、女神アイシュタル。それが私を取り巻く全てであり、たった一つの現実だった。
時に滝壺へと放り込まれ、時に魔物の血肉となり、時に火に炙られ、時に地面に埋められた。
生きているのは前提条件で、心身ともに清いとされる十の年に、例外なく”生贄”として女神の元へと召されてきたのだ。
それを誰一人として異常だと感じない異常。
私自身がそう感じなかったのだから、両親や他人になど分かるはずも無い。
そんな”当たり前”はある日、当たり前ではなくなった。そう。原因こそ未だ不明だが、何故か私はアヴィスフィアではない別の世界――日本で生誕したのである。
「ラヴちゃぁぁぁん、まだ着かないの~? 疲れたよ、休みたいよぉ~」
「もうすぐですよ。だからしゃんとして下さい。駄々をこねる姿も可愛いですが、休んでばかりいたら日が暮れてしまいます」
「えぇ~! でももう三時間は歩いてるよ~? ね? ちょっとだけ、先っちょだけでいいから!」
「はぁ。またおバカなこつ言うて。そもそも休憩んしゃきっちょって何ばいアイちゃん」
ぐぬぬ。体力お化けな二人と違ってこちとら幼気な少女なんだぞ! 何処の世界に山道を休みなしにぶっ続けで三時間も探索する女の子がいるんだよ!
しかも現代日本と違って舗装されてないし、魔物だっているんだよ? 戦闘になっても先日の影響か過剰なまでに護られててすることが無いから、言うほど消耗してないのは確かなんだけどね?
……あれ? もしかして我が儘なこと言ってるのかな? 自分では結構正論だと思ってたんだけども。
い、いや。いやいやそんな事はない。車の運転だって二時間に一回は休憩するのが一般的に正しいわけだし、俺は絶対に間違ってないはずだ。
「ふぅ。しょうがありませんね。では半刻程休憩しましょうか」
「え、いいの? やった~! いやぁ、言ってみるもんだねぇ」
「……はぁぁ。全く、ラヴィニスは本当にアイちゃんに甘すぎるばい」
何だかんだ言って二人とも優しいから、余程無茶な要求じゃ無ければ聞いてくれるんだよね。
可愛くて優秀で、その上従順な女の子が二人も俺の傍に居てくれるなんて。いやぁ、ホントに皇女様様だね!
よし! お礼にとびっきり美味しいお茶と最新作のお菓子を提供してあげようじゃあないか。
「――はい。どうぞ、召し上がれ」
「――っ! お、美味しいです」
「……また上手になっとーばい」
「ふふっ。伊達に後宮に出入りしてないからね。流行りのお茶菓子は任せてよ!」
目をキラキラさせながらお菓子を頬張るラヴィニスに、お茶を飲んで何故か愕然としているシュア。
ラヴちゃんは兎も角として、シュアはメイドとして衝撃を受けたのかな? にんまりする程には嬉しいけど、まだまだ全然及ばないから気にすることなんて無いのに。
いつも俺に完璧なタイミングで濃さも温度管理も絶妙な紅茶を提供してくれる彼女をリスペクトして、他のメイドたちに聞いて好みを下調べしてみただけなんだよね。
早い話、好きそうな茶葉を俺のさじ加減で淹れただけなので、完璧とは程遠い出来上がりなのである。
ちなみにラヴちゃんは俺の作るものは大抵美味しいと言ってくれるので、正直参考にはならないというのが本音だ。
「ねぇお兄ちゃん。私の分がまだなんだけど……」
「え、嘘。ごめんごめん。はい、これでいいかな?」
「ありがとう! でもこれ、お兄ちゃんの分なんじゃないの?」
「問題ないよ。リンネが喜んでくれるならそれだけで兄ちゃんは嬉しいか、ら……えっ?」
え、えぇぇっ!? だ、誰この娘? 全く知らない子なんだけど! も、もしかして隠し子? はぁ? お、俺。妹、居たの?
い、いやいや。お兄ちゃん何て言うからついリンネって呼んじゃったけど、俺も妹も既に故人なはずだよね?
へ……ぇ? それになんでこの子は俺をお兄ちゃん――男だって分かったの? や、気持ち的にはあってるけども。
「やっぱり覚えててくれたんだ! お兄ちゃん好き、だぁい好き!!」
「え、え? 何、どういうこと!? 近い! 顔が近い! 何か見知らぬプリティな黒髪幼女が抱きついてくるんですけど!」
「「…………」」
ラヴちゃんとシュアの視線が痛い! そ、そんなに睨まれても事案じゃ無いよ! 俺だって何が何だか分からないんだってば。
あ、睨んでるのに口元もごもごしてるラヴちゃん可愛い。……何時までも見てられるな、コレ。
――ハッ!? って今はそれどころじゃ無い! とりあえずこの子は何処の何方で、なんでこんな魔の森の奥に居るのか聞き出さないと!
「え、えーっと。……お嬢さん。キミは、どうしてこんなとこに? それに、その……ご両親は何処に居るのかな?」
「…………私、お嬢さんじゃない」
「ん? 何か言ったかな?」
「私、リンネ! リンネだよ、お兄ちゃん! 会いたかった。会いたかったよぉ」
おぉっとぉ? これは、その。どういうことだ~? 話を聞いたままに整理するとするならばだな?
要するにたまたま運良く美少女に転生出来て、その先でたまたま運良く可愛い後輩と遠い親戚になって、一人前になって最初に受けた遠征のクエストでたまたま運良く俺同様に転生したであろう最愛の妹に出会ったのだと言うのかね?
そ、そんな馬鹿な。ラヴちゃ――椿沙ちゃんと出会えたのだって運命的だなんて思っていたのに。こんな偶然あるものなの?
ここまでくると作為的なものすら感じざる負えないんだが、だとしたら一体どこのどいつがなんの目的を以て絵を描いたのだろう。
ていうか、ほっぺが柔らかいんだがっ⁉ どこか懐かしい匂いがするし、心の底からくる安心感もある。……もしかして本当に、本当にあのリンネなのか?
「……ふむ。それじゃあリンネ。リンネはなんでこんな危ない森の中にいるの?」
「えっとね。リンネ、ここに住んでるの!」
「……お父さんとお母さんは?」
「神国にいるよ? ここから遠い遠い国なんだけど、すっごく綺麗な所なんだよ!」
「……うぅっ。そ、それで? 普段はどうやって生活してるのかな?」
「この森ね? 野菜も果物もお肉もたぁくさんあるんだよ! だからリンネ、ここで一人で暮らしてるの!」
「……リンネ。良かったら、兄ちゃんと一緒に暮らさないか? ここじゃなくて、もっと安全な所で、ね?」
「良いの? やった~! お兄ちゃん好き、だぁい好き!」
だばぁぁ。け、健気すぎるぅ。ご両親が他界して行く所がなく、こんな山の奥で暮らしているだなんて。
良し! お兄ちゃんは決めました。この子――リンネは俺が責任を以て連れ帰ります。
なぜ魔の森という危ない土地で無事なのかとか、確かに疑う要素なんていくらでも浮かんでくる。
でも無理だよ無理! このまま放ってなんて置けないよ! リンネは誰が何と言おうと俺の妹です! だってそう感じちゃったのだから、しょうがないよね?
それに今の俺は皇女だし、幼気な少女一人くらいなら食わせていける甲斐性も持ってる。ふむ、つまり問題は無いということだ。
「――シュウ先生の妹さんっ!? ……リンネちゃん。私の事は、”お義姉ちゃん”って呼んで欲しいな」
「――ら、ラヴィニスッ!? え、ちょっと二人して何言いよーと? こげん怪ししゃしかなか少女ば連れて帰ろうなんておかしかたい!」
相変わらず俺に対して全肯定なラヴィニスは、どう考えてもおかしいはずのリンネを既に受け入れる態勢らしい。
現実的なシュアは懸念している何者かの作為、あるいは状況的な不適合を警戒して強めに反対を表明している。
やはりこの二人、相性がいい。俺にとっても異なる二つの見解を客観的に見れるので、実にありがたい。
「……? お兄ちゃん、この人達だぁれ?」
「ん? あぁ。こっちの可愛い金髪のお姉さんが俺の嫁で、こっちの可愛い白狐さんが……愛玩動物――所謂ペット、かな?」
「ふーん。へぇ、そうなんだぁ~」
突然二人に詰め寄られたリンネが、俺に向かって首を傾げている。うん、可愛いね。
推定年齢十才、それも現代日本から転生した少女に騎士やら従者って言っても分からないだろう。
故に分かり易くそう答えたのだが、ふむ。我ながら誤解を呼んでしまう表現だったかも知れないな。
「ちょ、ちょっとシュウ先生っ! そ、そんな。私が先生の、お嫁さんだなんて……う、嬉しくてどうにかなってしまいますぅ」
「――あ、愛玩動物って、そんな。も、もしかしてアイちゃん。うちにそげなこと、して欲しかと?」
案の定差異が生まれてしまったようだな。しかしラヴちゃんは兎も角として、なんでシュアもちょっと嬉しそうなの?
リンネはリンネで俺と二人を交互に見たと思ったら俺を見て半眼になってるし、何このカオスな状況。
しかし魔の森に住まう者が俺の妹であるリンネだったなんてな。この子、こう見えて凄く強いのかも知れないね。
ともあれ。信じると決めた以上は情報を集めないとだな。何が起こっても対応出来るように努力するのが保護者の義務だしね。
まずはそうだな。リンネがここに住んでいる以上その生活基盤があるはずだろうから、まずはそこに案内して貰おうか。
「リンネ。兄ちゃんさ、リンネが何処で暮らしてたか知りたいな。良ければ、案内してくれない?」
「いいよ! こっちこっち! 着いてきてお兄ちゃん! それに、お義姉ちゃんにシロちゃんも!」
「――リ、リンネちゃんが、私のことを、お義姉ちゃんって呼んでくれました……っ!」
「――し、シロちゃん? もしかして、うちん事かな? いや、まぁよかばってんね?」
ニコニコと笑うリンネ。やはりこの笑顔、かつてよく見た妹とのそれとそっくりだ。話し言葉や俺を呼ぶ所作もどこか覚えがあるし、やはりこの子は俺の知るリンネと見てまず間違いないだろう。
俺の脳がそうあって欲しいがために補正を入れてるのかも知れないが、既にこの子の事を他人とは思えなくなってしまっているのも確かだ。
リンネにまさか、また会える日が来るなんて。俺、ますますこの世界の事を好きになってしまったよ。
後は両親と鈴音さんさえ居れば完璧なんだが、この場所が死んだ先に来るところならば叶わない願いであって欲しいとも思う。
友達? 嫌だなぁ、そんなの。要るわけないじゃないか。いや、正確には要るよ? でも死んでまで会いたい人なんて、ねぇ。
「お兄ちゃん、何してるの? 置いてっちゃうよ~」
「アイ」
「アイちゃん」
「あ、ごめんごめん直ぐ行く~!」
三人振り返り、俺の名を呼ぶ。夕闇に照らされた彼女達のその姿はどんな絵画よりも美しく、ずっと見ていたいほど幻想的だったのは言うまでもないことである。