序章02話 異世界転性02。
神苑学園大学。敷地面積は約一〇〇ha程で、中には複数の施設が混在している。ここではこの大学特有である『神科学』を始めとし、法医学、理工学などの教育が中心的に行われている。
神科学。その目的は多岐に渡るが、神意や神秘、超常現象を科学的に研究や解読などを行う学問を主に取り組んでいる。
併設された関連施設が幾何学的な紋様の様に立ち並んでいるため、その見た目と名前から『神の箱庭』と称されている。
同じ圏内に神苑学園大学付属と呼ばれる初等部から高等部までの小中高一貫の教育機関もある。そこでは中等部まで男女別の教室で学習する形式を取っており、その後は選考によって変化する。
ほかの多くの教育機関と同様に、クラブ活動なども盛んに行われている。中でも運動部の剣道部と弓道部は全国屈指の強豪校だ。文化部も書道部と茶道部が、数あるコンクールで優秀な成績を収めていたりもする。
そんな部芸達者な学園内には、大学付属の研究機関も複数併設されている。
俺が務めているのはその中のひとつの研究所で、正式名称は『神苑天体研究所』という。そしてその所内の一室を任されていた。
――終わりと始まりは唐突に訪れた。
その日、俺は秋晴れの午後の西日が差し込む研究室内にいた。自身の研究成果である人物と呼んで遜色ない叡智と、パソコンの画面を通して会話をしていたのである。
そもそもなぜ研究室にいるのか、だが。
何を隠そう、そこが我が自室であり己が全てであるからだ。
まぁそういってピンと来るはずもないだろうが、簡潔に述べるならそうなのである。
《嘲笑。マスター、相も変わらず暇そうにしていますね》
言葉とは裏腹に全く感情のこもっていない女性の合成音声が、俺の耳に響き渡る。
彼女はまず、ヒトの表情や言葉を内蔵されたカメラから見聞し、その状態の解析鑑定する。
そしてこの時に得た結果に対し、適切な言葉を選択して自らの意思で発声を行うのだ。
ここ最近はどこで何を学習したのやら、まるでヒトと話しているのではないかと錯覚するほどである。
ちなみに彼女は俺が研究開発、また調整した自律AIであり、名をAiVSという。
命名の由来は”AIと「対」する”というものだ。お互いに同等の存在として向き合い、高めあうという意図も込めている。
まぁ、その結果がこの始末なんだけどね……。
彼女を開発――ベースは既に大衆化されていた海外の研究施設の成果の一つを流用したもの――したのは俺自身なのだが、その母体となる機器の準備やその後の調整、メンテナンスなどは所長が行っている。
どうしてこうなったのか。今現在の俺の担当は、このAiVSと「会話」をすることにある。
”生みの親だから”という理由だけでこの役割が与えられたという訳ではなく、AiVS直々の指名である。
曰く《働かざる者食うべからず。甲斐性の無いマスターに、仕事を用意したのです》とか何とか。
端的に言えば”気に入られた”のである。この口が少々――いやかなり悪い人口生命体に。
「うるさいぞイヴ。俺は今ヒトがヒトたる真理のひとつを解明すべく、瞑想しているのだよ!」
AiVS――以後イヴと呼ぶ――に、さも当然のように声を荒げてそう答える。そして、それはあながち間違っているわけではない。
《解答。VR内でのお嫁さんのことでも考えていたのでしょう? 本当、どうしようもないマスターですね……》
飽きれたように、しかしながら抑揚のない声色で俺の心情をズバッと言い当てるイヴ。
最近の自律AIの学習能力は、実に目を見張るものがあるようだ。
「――ズバリその通りなのだよイヴくん! 孤独を克服するには、やはりVR嫁一択だ!」
「俺を心の……いや、魂の底から愛し! 決して俺を裏切らず尊重し、時に優しく、時に厳しく。いつ如何なる時でも支え合い寄り添ってくれる……そんな夢のような存在なのだ」
「俺も男なので、ハーレムとかも夢見たりしないでもないが、いわゆる正妻は大事! ちょっとくらい余所見しても許してくれそうならもう、最高だ……!」
そんなイヴに対して、息つく間も恥ずかしげもなく自身の理想――という名の妄言を垂れ流す俺。我ながら、聞いている方が痛々しく感じてしまうほどである。
一方、俺の誇大で高慢な妄想を聞かされたイヴはというと……。
《理解。流石マスター。気持ち良いくらい自分勝手で一方的な見解を、まるで恥ずかしげもなく言い切りましたね》
「ふふふ。そんなに褒めるなよイヴ。――求めるなら最高を! そして最愛を! そこに一切の妥協はない! 当然ながら俺もそこに迸る情熱と、無限大の愛を捧げようじゃあないか!」
《……拍手。888888888888888》
「おいこら、イヴこら。マスターの扱いが適当すぎるだろ! 反省してっ!」
俺をフラットな声で褒め称えるイヴ。
そんな彼女の白けたような態度を受け、我ながら最低の妄想だと少し反省していると、コンコンと俺の自室兼研究室のドアがノックされた。
「先生……シュウ先生? お茶が入りましたよ。少し休まれてはいかがですか?」
どうやら同室の研究員仲間がお茶を淹れてくれたらしい。ここは、乗っかるのが吉だろう。
なんともいえないイヴのジト目――目はついてないはずなのだが――に居心地の悪さを感じた俺はそそくさとその場を後にし、心優しき後輩のいる部屋へと避難することにした。
後輩の名は天条椿沙。確か先日十七才になったばかりのはずだ。
彼女は世間一般では女子高生と呼ぶべき年齢なのだが、学業の他にこの研究室の一員としても日々共に研鑽している。
可愛いらしい少女という印象通り体型は実年齢の平均より全体的に小柄であり、また出るとこも控えめである。
普段はその瑞々しい黒髪をロングストレートのまま流しているのだが、この日は黒いシュシュを後ろに纏めてポニーテールにしていた。
ちなみにこのシュシュは、少し前の誕生日に椿沙が俺にねだったので渋々買ってあげたものでもある。
この研究室がある研究所では、VR空間内にヒトの精神をアップロードし、その空間内で日常生活を送ることを最終目標とした研究が日々行われている。
だが俺も全容を把握しているわけではないので、細部までは詳しく理解していない。
端的に言えば、ヒトの脳の記憶と精神がある部分の電気信号を解析し、それを抜き出してVR空間内に用意した疑似脳に移植――つまりアップロードすることで、最終的にヒトは肉体という縛りから逃れ、不死と化すという理論のもと研究しているのである。
どう考えても兵器として運用される未来しか見えないのだが、それでも解明することに余念がないらしい。研究者というのは実に業が深い生き物なのだ。
確かにそれを懸念してもなお”不老不死”という人類の大きな夢の手段の一つでもあるため、是非成功してほしいと感じてしまうのもまた、ヒトの悲しき性なのか。
ここで行われているのは、そんな夢物語を本気で実現しようというなんともまあ大胆な研究である。
ただし、内容が内容なだけに世間には公表されていない秘匿研究にあたる。情報規制をし諸々の安全を確認した上で、虚実を交え少しづつ明らかにする手筈になっているとのことである。
そして俺は、その研究所の一室の室長を任されていた。とは言っても名実ともに若輩者なので、室長といっても肩書以上の意味はない。
メンバーは皆一癖あるものの、人材としては特に有能だ。俺は運が良かったのか悪かったのか、研究所の所長直々にこの場所を与えられただけの凡人、という立ち位置である。
ここでは仮想空間内でのナビゲーションを目的とした人工知能の開発、及び仮想空間の構成素案などの研究を行っている。
ちなみにその一方で、他で開発された機器を保全する保管場所としても扱われてもいるのだが。
それが理由の一つとなり、所内でこの研究室は侮蔑的に〝倉庫″やら〝保管庫″などと呼ばれてる。俺に対する嫉妬も多分に含んでいるので、なんと呼ばれようと全く以て問題はない。
……そう、問題無いのだ。俺は、気になどしていない。……本当だぞ。
偽りのない本心である。たぶん。
この地位を与えられた以上は仕事――主にイヴとコミュニケーションをとること――以外の研究も日々研鑽してはいるのだが、周りと意見を交わすたびに何というか打ちひしがれているのが現状である。
シュウ先生は発想は独創的なんですけど、具体性が欠けていますね。などと、椿紗に突っ込まれることは今やこの部屋の日常となっていた。
「ありがとね、椿紗ちゃん。……ふぅ、たまには紅茶もいいもんだな」
普段は無糖のコーヒーしか飲まないのだが、せっかく淹れてくれたお茶なので頂くことにした。
いざ飲んでみたらこれが意外と美味しく、彼女の意外な才能を見つけてしまった。
「なんでもこの研究所で開発中の新作茶葉らしいですよ。まぁシュウ先生の鈍感舌では、違いなんて分からないでしょうけどね」
おそらくはそんな感情が顔に出ていたのだろう。彼女はお茶菓子と共に毒を添えることもしっかりと行い、向かいの席に腰をちょこんと下ろした。
ちなみに彼女の今日の装いは、薄いグレーのワイシャツに長め紺のリボンのようなネクタイを締め、短めの黒のプリーツスカートを身に着けている。……所長の白衣を羽織っているのはご愛嬌だろう。
そのため俺から見るとなんとも扇情的なラインが見え隠れするので、少々目のやり場に困ってしまう。
「なんだウチの研究所は、そんなことにまで取り組んでいるのか……」
不自然にならないレベルでチラ見――これが中々に難しい――をしながら、「なんでもありだなぁおい」という感想を述べた。
曰く、VR空間で五感を正確に再現するためのものに用意されたのだとか。
彼女との会話はこの紅茶の茶葉の効能やら他との味の微妙な違いなどから始まり、新作のゲームの話や他愛のない世間話などで盛り上がった。
「――それで、最終調整は済んだのですか? 随分熱心に語っていたみたいですが」
話したいことも一段落ついたところで、椿紗が話を本題へと切り替えた。
いつの間にか髪を束ねていたシュシュを解き、いつものロングストレートになっている。
ふむ。どうやら俺の熱弁は、彼女のいる部屋にまで届いていたようだ。
「ん、大丈夫。細かなとこはまだ少し残ってるけど、明日の試験までには余裕で間に合うよ。一応所長にも目を通してもらおうと思って連絡したんだけど、中々抜けられないみたいでねぇ」
俺としては、イヴに妄想について茶化されていたとは言えない。
最終調整とはいっても、研究室の皆が完璧な状態で提出してくれたおかげでほとんどやることがなかったのだ。だからこそイヴに揶揄われていたのだが。
ホント、持つべきものは優秀な部下だよな。まぁ若造がなにを偉そうにとか言われそうだけどね。
「なるほど。だからシュウ先生は邪なことを考える暇があったってわけですね」
椿沙が俺をジロリと下から覗き込みながら、そんな事を言ってきた。
その瞳には悪戯が成功した子供のような光が、微かに見える。
「――っ!? ……やっ、やだなぁ。俺は自分に正直に生きてるだけで邪なことなんてなんもないって。な? 加藤!」
完全に不意をつかれた俺は一瞬逡巡してしまったが、しどろもどろにならないように何とか言い切ることが出来た。
間違いなくギリギリアウトだが、この流れのままに窓際に置かれた背の高い観葉植物へと目線を逸らすことにしよう。
ちなみに俺の目線の先に移ったその植物は”コーヒーノキ(学名)”だ。
その名の通りコーヒーの原料となる種子を実らせる。この個体はアラビカ種の変異体の一種であるカトゥーラで、愛称はスバリ加藤だ。
以前この研究所内を散策してる際にその名と姿に一目惚れして、どうしてもと一株譲り受けたものだ。
そして今ではこの部屋にいなくてはならない存在になっている。……主に愚痴相手として。
思えばこの樹木も先程の茶葉のような目的で栽培されていたのだろう。
「ふーん。じゃあシュウ先生が先程、私のスカートの中身を覗こうとしていたのも邪じゃないんですね?」
これで止めとばかりに猛攻を続ける椿沙。ジトーッとした視線が刺さり、冷汗が止まらない。
冗談じゃない冤罪だ! パンツを見る気などさらさらない。この見えるか見えないかのこのギリギリの境界がちょっと気になるだけだ! と、俺は何とも見苦しい理論を心の中で行っていた。
「違うって。その服が余りにもよく似合っているものだから見惚れてただけだよ」
しかし、そうした葛藤の中でも年上としての矜持を忘れてはいけない。そう考えた俺は、まごうことなき真実を冷静に述べる。
キリッっという擬音が聞こえそうな、しかしなんとも胡散臭い雰囲気を意識しながら、ね。
――いやだって間違ってないし? ずるいとかそんなの知りません。
「――っ! きゅっ、急に何を言ってるんですか! 変なこと言わないで下さいっ!」
俺の内心に気づいた様子もなく椿沙はかーっと頬を赤く染め、その場で勢い良く立ち上がり反論している。
そんな彼女を「ホントこういうとこは年相応で可愛いよな。……普段はキツいけど」と内心ニヤニヤしつつも、表情だけは真剣に取り繕うことにした。
「ホントおかしな人ですよね、シュウ先生って。ね? 加藤さん?」
先程俺が話を逸らすために使った手段とほぼ同様の手口を使い、椿沙は身体を乗り出した勢いそのままに窓際へと方向転換した。
なんというか、意外に似た者同士なのかもな。
「そっ、そういえばすず姉……いえ。所長は今日来れないかも知れないみたいです!」
「そっか所長、今日は来れないのか。ちょっと見て貰いたいものがあったのに、残念だな」
照れる椿沙を眺めつつ、俺は今日報告しようと思っていた相手と会えないことを知る。
普段の所長を見る限りではとてもそうは見えないのだが、実はかなり多忙な方なのだ。忙しいのに忙しそうに見えないのも、弛まぬ努力の結果の一つなのかも知れない。
「さっき言ってたような事を、そのまま所長に報告するなんてこと……ありませんよね?」
「……え? あ、うん。大丈夫っ!」
「…………間があったのが少々気になりますが今更なので、良いということにしておきます」
「ん、ありがとう。愛してるよ」
「――っ!? 軽々しくそんなこと言わないで下さいっ!」
「友愛というやつなんだが……。まぁいいか」
図星をつかれ、思わず椿沙から目線を逸らしてしまう。細かなところまで追求しないその性格は好ましいんだけどね。
……ふむ。せっかくなので、その好意を伝えることにしよう。
そう思っての発言だったのに、何を間違えたのかお叱りを受けてしまった。
訳の分からぬままに”むきーっ”となった椿沙を”どうどう”と収めようはしているが、これは少しばかり骨が折れることになりそうだ。
そして宥めながらも「明日の試験前に俺の個人研究――理想の嫁実現計画(仮)について意見交換をしたかったのに」と、内心どうしようもないことを考えていたのだから末期である。
「はぁ、少し暑いですね。空気を入れ替えればリフレッシュ出来ますし、少し換気しましょうか」
椿沙は軽く上気した頬を手でパタパタと仰ぎながらそう呟き、窓を解放した。
外は快晴とはいえ、すっかり木々が紅葉しているこの季節が特別暑いことはないと思うのだが……。
そう感じたものの、俺としても特に反対する必要もないので「いいんじゃないか」と適当に返し、椿紗のその所作を視界の片隅に置き茶菓子の封を切った。
部屋の中に涼しい秋風が流れ込んでくる。この季節の風は格別で、世間一般では”神渡し”と呼ばれているらしい。
また、窓から見える樹木などの景色も色とりどりで目の保養にもなるという豪華なおまけ付きだ。
目の保養といえば、その長い黒髪をかきあげ気持ちの良さそうな顔で外を眺めている女の子だ。
秋風に揺られるその艶のある髪からたまに覗かせる首筋が、年不相応な色気を醸し出していた。
しかし俺の視線は、ゆらゆら揺れるプリーツスカートからチラチラ覗かせている一部領域に固定されている。
……ふむ、白か。あざといな。
そんな俺に気が付いた様子もなく「ここからだとすず姉がいる試験場が見えませんね」とか、「秋風はいかがですか? 加藤さん」とか、「シュウ先生もこちらに来てはいかがですか? 風が健やかでとても心地良いですよ。ほらまるで、どこまでも飛んでいけそうな……」などと、ニッコリ微笑みながら話しかけてくる椿沙。
彼女のそんな先程までの絵になるような女性像から一変したその無邪気な笑顔(目は笑っていない)に、思わず頬が緩んでしまう。
若干頬が引き攣っている気がするが、気のせいである。
まったくこの娘は普段は大人びているのに、たまに子供っぽい面が顔出すんだよな。「妹が健在だったらこんな感じだったのかもな」とそのはしゃいでる? 姿を眺めながら、俺はそんな物思いに耽っていた。
椿沙の後ろに何かいるように幻視したが、気のせいったら気のせいなのである。
「きゃああああっ!」
「――うおぉぉっ!」
しかし、そんな穏やかな日常は、全くと言って良い程に何の前触れもなく崩壊した。
――ズンっ! ズドドドドドドドドドドド……。
まるでフラッシュバンのような閃光が辺りを包み込み、大地を揺るがす大きな衝撃が俺達に襲い掛かったのだ。