89・喋ったり喋らなかったりしろ
今回から唐突に新しい話が始まります。でも基本的にはダテっています。
滓宝は互いに導き合う。ルシャの持つシャペシュの腕は常に他の滓宝と交信のようなことをしており、触れた所持者に微かな存在感を伝えている。範囲は無限というわけではなく、それぞれが唯一の”認知距離”を持っていることが明らかになっていて、近づくほど強く反応する。
そしてその距離は、どうやら滓宝の状態によって変化するようだ。というのは、明らかに近くにあるのに反応が微弱ということがあるからだ―
―今のように。
ルシャは早朝4時半に目を覚ました。何故なら、突然家のドアに何かが激しくぶつかって大きな音をたてたからだ。この時間にはトイレ以外に目を覚ますことのないルシャはまず、風に転がされた樽かなにかが当たったのだと思った。しかしいつもは静かに寝床の傍に斜めになって眠っているシャペシュの腕がぼんやりと光っていることに気付いてから、近くに滓宝があると知って外を見る気を起こした。
滓宝はヴァイドの言うように著しい力の不平等を起こすものだから、自分の管理していない滓宝が近くにあるということは、何かしらの『良からぬこと』が自分の身に迫っているということを意味する。それが何か明確にするために、ルシャには自分の目で見るという作業が必要なのだ。
「なんだ…?」
リオンに刺激を受けてから少し強度を上げたランニングによって、翌日にも疲れが残ることがある。筋肉の痛みのために素早く動けないルシャは、壁に凭れながらドアを開けてみた。徐々に見えてくる道はいつも通りだが、いつも通りでないものがあった。
それはドアだ。ドアがいつもより明らかに重い。左腕の力だけで思い通りに開けられないほど重いのは、蝶番の錆が摩擦を生んでいるからなのか、いや、先日取り替えたばかりだから、何かが隙間に挟まっていない限りは非常に滑らかに動く。ではドアに何かが貼り付いているのか。
「貼り付いてた…?」
ルシャはドアに縋り付くように身体を預けて倒れている人を見つけた。どうやらこの人がドアにぶつかったようだが、この街で行き倒れとはなんとも珍しいものである。ルシャが灰色の衣に覆われた人を起こすと、とても美しい顔をした少女だと判った。
世にも珍しい銀色の髪をループして束ね、フード付きの外套の中のおさまりの良い場所にしまっていて、前髪は眉の高さで揃っている。身長や顔の輪郭、頬の肉付きからしてルシャより年下の少女は痩せ細っているわけでも傷ついているわけでもない。そんな人がここで倒れているのは、自分に関連していることだとルシャに予感させた。だから彼女は魔力で怪力になって少女を抱え、自分の布団の中で寝かせてやった。そのときルシャは少女の背中に何かが貼り付いているのに気付いたが、寝ている子の服を脱がせるべきではないと思ってそのままにした。
シャペシュの腕はまだ光っている。この近くに滓宝があることはまだ解決していない。しかしルシャはこの少女を疑ってそれ以上外を探ることをしなかった。
「んー…」
まだ眠い中での出来事だったため、ルシャは朝になるまで眠ることにした。しかし布団がないため、冬に着る分厚いコートをカーペットの上に敷いてそこで眠った。目を覚ましたときに少女がいなければこれは夢で、ルシャはそれが楽だからそうであってほしいと願った。
しかし約2時間後、ルシャは何者かに揺り起こされた。両手でそっと左右に揺らすのは、相変わらずフードを被ったままの少女だった。夢ではなかったと嘆くより先に、ルシャはこの少女の深紅の目に惹かれた。
「おはよう…?」
「うん」
ルシャは起き上がってこの少女と背を比べた。自分より背の低い人で頻繁に見るのはミーナくらいだが、少女はミーナよりもさらに小柄だ。10歳にもなっていないかもしれない。
「あなたはだぁれ?」
「……」
「お名前は?」
「……」
少女は口を閉ざしたまま頷いている。名前を知らないのか、教えたくないのか。ルシャは話の通じない可能性を考えて言葉を選んだ。
「私はルシャ」
「るしゃ…」
「そう。お腹空いた?」
「……」
どうやら言語能力が同世代の子と比べて遥かに低いようだ。そういう子もいることを理解しているルシャは言葉より行動で意思表示をすべきと判断して朝食を作ってやった。簡単なスープを少女の前に置くと、少女はスプーンですくって…
「あぁ」
口に入れる前にこぼしてしまった。顔を近づけるのではなくスプーンしか動かしていないし、そのスプーンが途中で傾いてしまったのなら、こぼれるのも道理だ。見た目より幼い行動をする少女を見て母性のようなものを芽生えさせたルシャが手伝うことによって、少女はスープを完食することができたのだった。
「ふう、キミはアレだね、私をさらにだらしなくしたみたいだね」
「…うん」
今のところ肯定か否定しかできないのに、何を肯定すべきか分かっていないようだ。しかし言葉が通じなくても、食事と睡眠さえできれば大きな問題はない。ルシャは満足そうな様子の少女の汚れてしまった外套を洗うべく脱がせた。少女は嫌がる素振りをせずに素直に渡してくれた。
中に着ているのは白のブラウスとハイウエストのサスつきミニスカート、脚にはニーソックス。靴は履いていなかった。
「かわいい服…」
欲しくなるような可憐なスカートはよく見ると錨の形をした小さな刺繍が等間隔に入っていた。マリンスタイルということだろうか。
「うん」
ルシャが洗い場に外套を持っていこうとすると、少女はついてきてルシャの前で服を脱ぎ始めた。驚くべきことに下着をつけておらず、ルシャは驚いて外套を落としてしまった。
「パンツも穿いてないの?こんな短いスカートなのに…だからこれを厳重に着てたのか」
少女の外套には多くのボタンがあって前を完全に閉じられるようになっている。折角可愛い服を着ているのだからそれを見せれば良いのにと思ったルシャはいっそ少女の身体まで洗ってしまおうと閃いて湯を張った。
「すごい肌きれい」
「うん」
「お風呂って知ってる?いま入れるようになるから一緒に入ろっか」
少女は徐々にかさを増す浴槽に怯えている。防御策として濡れている服を必死に着ようとしたが、上手に袖を通すことができない。
「大丈夫だよ。ほら」
ルシャが手本となることで危険のないことを証明し、少女を向かいに座らせることができた。口のあたりまで浸かってしまったので桶で湯を掻き出す。
「るしゃ」
「なに?」
「……?」
自分の状態や気持ちを伝える言葉を持たない少女は呼んだっきりで続けない。それでもルシャは少女を安心させるために笑顔を保った。
背中を洗えない少女のためにルシャが泡をつけてやろうと後ろに回ったとき、ルシャは少女の背に硬いものが貼り付いている―癒着していることに気付いた。
「なにこれ?」
爪で軽く叩いてみても少女は痛がらない。角度によって輝きや色を変えるその破片は、まるで滓宝のような美しさを持つ。
「過去を知る必要があるね…」
「?」
「今は分かんなくていいよ」
風呂からあがるとルシャはくたくたになって穿かなくなったパンツとジャージ上下を少女に着せて洗濯物を庭の竿に干した。少女は上がってきた陽の光を浴びて心地よさそうに横になる。猫のような仕草に萌えたルシャはこの子にできることを考えて次の行動を決めた。
「服とか生活用品、そっか、布団…そうだ!」
少女がひなたぼっこをしている間にルシャは信号弾を打ち上げた。これは弟子には分かる合図だ。程なくしてドアが強めにノックされた。
「呼んだな?来るまでの時間は合格ラインか?」
「ああ。よく気付いてくれた。さすが弟子だ…さて、ちょっと手伝ってほしいことがありまして…」
低姿勢な師匠に驚いたルートがただことでないと思ったとき、家の中でルシャではない人が動いた。
「誰か来てる?」
「来てるっていうか、なんか…とにかく、説明するから入って」
もはや何の遠慮もなく入ったルートは小さな少女を見て唖然とした。
「ルシャ、お前…」
「なんか倒れ
「子供がいたのか!?」
「んなわけねぇだろ!」
ルートは絶望せずに済んだ。少女はルシャの娘ではなく家の前で倒れていたという説明を受けた彼は揺れる心を落ち着かせて本題に入った。呼ばれたのは布団を買って来てほしいという理由で、快諾した彼は金を受け取ってすぐに出発した。
「ん?あいつはルート。私の弟子」
「ルート…」
「すぐ帰ってくるよ。そしたらキミはお布団を手に入れる」
こちらの言語の構成は理解できているようで、何が固有名詞かを判別しているからルシャやルートといった名前を言える。壁を感じて悲観する必要はなさそうだ。
「お布団が来たら、私と一緒に服を買いに行こうね。それは私のだからすこし大きいでしょ?」
「ん」
着て来た服以外で違和感を持たずにいられないのは当然のことだから、すぐにでも服を買ってやりたい。そしてそのお礼に彼女の服を着させてほしい―ルシャはそう思った。
ルートは用事を終えたので家に帰った。彼は少女のほうには興味を持たなかったようで、ルシャの命令に従ってお礼の品を持って帰った。
「さて、服を買いに行くよ」
「うん」
はぐれないように手を繋いで歩くと姉妹のように感じたルシャが幸せな気分になった。
「いいなぁ…たのしい」
念願の妹ができた嬉しさのあまり多めに持ってきてしまったルシャは少女が頷くことしかしないのを良いことに好き放題に服を買いまくって4万セリカも払った。しかし服も下着も買えたので当分は不足しない。帰り際に食材まで買うと2人の両手がいっぱいになった。
「よーし。早速着るんだ!」
ルヴァンジュダンジョンでやるようなことがここでも行われて少女はいろんな服に身を包んだ。違う趣向であってもすべてが似合う美貌の持ち主はルシャの頼みを快諾して乾いたばかりの服を渡してお礼とした。
「どう?」
ブラウスはサイズが違ったので自分のを着て、スカートはサスの長さを調節してなんとか着られた。それを見た少女は目を大きく開けて感動すると、ルシャに抱きついて感情を伝えようとした。
「これ、私にくれるの?」
「うん!」
「じゃあ貰うね。やったぁ」
ルシャはこれまでに見たどの服よりも魅力的な服を手に入れて大喜びだ。少女も嬉しくなったのか、2人は抱き合って踊った。短い時間で仲良くなった2人にはもしかしたら新しい布団は要らなかったかもしれない。
これから楽しい暮らしをするにあたって、ルシャは少女に名前を与えることにした。何が良いか考えたとき、賢者の知恵を借りようと思い立った。そこでルシャは妹とともに”お馴染みの場所”へ向かった。
「キミはいつの間に子供を授かっていたんだい」
「ルートと同じこと言うな!」
「あらまぁ…ボケが被ったか。ごめんよ。さて、キミにもうまく説明できないのなら時間をかけてゆっくり真実を知ることになるね。それは構わないんだが、キミが学校に行っている間誰がこの子の世話をするんだい?」
「うーん、どうしようかねぇ…家にいて欲しいから誰か雇って…」
「そこでこのミーナさんに相談するんでしょうよ。ウチにはお手伝いさんがいるんだぜ?弟たちと一緒に遊べば楽しく過ごせるだろうし、1人がいいって言うんでも構わない。お前の部屋で本でも読ませてやるよ」
「いいのかい?まだ素性の知れない子だけど…」
「いいさ。キルシュに不可能はない。事件性が弱いならお手伝いさんがどうにかしてくれる」
ミーナの極めて力強い支援を得られると知ったルシャは大船に乗ったつもりで名前のアイディアについて助言を求めた。ミーナは長く唸ってから、ピエールを呼んできた。ちょうど仕事に区切りのついた時だったようで、彼は快く新たな客を迎えた。
「名前がまだない?それはどういう経緯でここまで来たのかを調べる必要があるね…でも心配は要らない。キミが誰であろうと私は安全な場所を提供することができる」
ピエールは知らない場所に連れて来られて少し焦っている少女の頭を軽く撫でて安心させようとした。頼れる大人の分厚い手から伝わった温もりやピエールの気持ちは、少女に所属意識を持たせるに至った。先程より少し深くソファに腰掛けた少女はピエールも加えた会議の結果、アイという名前を与えられた。
「アイシーンという異国の女神はとても美しい姿をしている。人々を幸せにするために知恵や技術を齎し、雨を降らせて土地を豊かにするという言い伝えがある。どこの国が発祥かは分からないけど、複数の国でアイシーンを信仰していると聞くよ」
「ほー…確かに女神様みたいに綺麗だし、どこから来たのか分からないのも言い伝えっぽいかも。いい名前じゃん」
「アイシーンっていうとちょっと長くて覚えられないとか発音できないとかありそうだから、短くしてアイだ。アイなら言えるだろ?」
「アイ?」
「そう。キミの名前だ」
「うん!」
アイという名前を気に入った少女は呼ばれているのが自分なのか違うのか判別できるようになった。
「よし、ルシャが学校に行っている間はここにいるといい。安全だし、料理も娯楽もある。本を読んでいろいろなことを学んでもいいだろう」
「ピエールさん、ありがとうございます。1人暮らしの私にとって、とてもありがたいことです」
「キミの頼みなら喜んで聞くよ。ミーナの蛮行のお詫びってわけじゃないけどね」
「パパ、私なんも悪いことしてないよ」
「お尻を触っていたとクリスから聞いたけど?」
「あの野郎!」
ミーナは憤慨してピエールは訝しむ。娘が悪事をしたならしっかりと叱らねばならない。
「ピエールさん、私は悪いと思ってませんよ。ミーナならいいんです」
「えへへ…」
「程々にね…」
あまり効果のなさそうな咎めの言葉だけ残してピエールは部屋へと戻っていった。明日からアイをここに預けてから学校に行くことになったので集合場所がここになった。
「よーし、アイ、私のことも弟のことも知るんだ。ミーナという名前を憶えてくれ」
「ミーナ?」
「そうだ。キミのお姉さんだぞ」
「刷り込みを…」
苦笑したルシャとは対照的にアイはもう1人姉ができたことを喜んでいた。ミーナが早速姉らしさを発揮するために2人に料理を作ってやったので、ルシャは姉らしく振る舞いたい気持ちを利用して毎回ここで食ってやろうと思った。




