5・研究室という名の天国
3時間目の魔法実技の時間の担当はミロシュ先生だ。彼は教師をしながらファッションモデルとしても活動していて、店に売られている雑誌に稀に掲載されているらしいが、ルシャは見たことがない。新入生にとってかなりインパクトのある人だから警戒している人が多いようだが、今のところは大丈夫そうだ。
「…あの奇抜な服を除けばだけど」
ミロシュはビビッドなピンク色の羽織を着ているのだが、そのフリンジの数が尋常ではない。まるで秘境にだけ生息している鳥類のようだ。彼は腕組みをして生徒の様子を見守っていて、有名人のルシャにはあまり注目していない。特別な試練を与えられることもないから、ルシャは退屈していた。他の生徒の倍以上の距離をとって的に魔法を当てているのだが、この距離でも簡単すぎてつまらなさそうだ。
そんな彼女を快く思わない人がいる。圧倒的敗北を喫して屈辱に沈んでいたルートだ。彼は余裕を見せるルシャに対抗して同じ距離で的当てをしているのだが、執念が集中を削ぐのか殆ど当たっていない。負け嫌いの彼はルシャより少し後ろに立って距離が違うことを言い訳にしようとしている。ルシャは彼に興味がないため放置している。少しずつ彼が焦りを見せると、ミロシュが的の前にウルシュを出した。夢中で魔法を当てるルートに対し、ルシャはその場を離れてミーナやリオンの的当てを見守った。
「暇そうだね」
「私にもウルシュ出してくれたらいいのに」
ミロシュはルートの傍に移動して彼の奮闘を近くで見ていたのだが、彼が劣勢に陥ると自分の魔法でウルシュを消した。
「体力と集中力が課題かな。もっと上へ行きたいのなら放課後に自主練をするといいね。暇そうな先生なら付き合ってくれるかもしれないわよ?みんな優秀な戦士になってほしいと願ってるからね」
「俺はもっと強くならないといけないんです。こんなウルシュ程度に苦戦している場合じゃないんだ…」
「うん、その情熱は素晴らしい。それさえ持っていて毎日特訓をしていれば強くなれるわ」
しかしルートは疲労のためにその場に座り込んでしまった。ミロシュは頑張り屋のルートと対照的なルシャを見て長い息を吐いた。
「ふーん…」
「ルシャ・ルヴァンジュには勝てないと思っているのですか」
「いいえ?彼女も鍛えているし、経験をしているのだから、怠けたら差を広げられるということだよ」
「分かっています。あいつに勝つまで俺は卒業しないつもりです。及第点じゃ満足できないので」
「フフフ…彼女にはノーラン先生がついたようだね。じゃあ僕はキミにつこうかな?」
「本当ですか」
「うん、僕は下位魔法が苦手だけど上位魔法は得意っていう希有な存在なんだ。面倒な基礎をすっ飛ばして手っ取り早く強力な上級魔法を身につけたいのなら、僕の言うことに従えばいい」
その笑みに誘われたルートはミロシュの手を取って立ち上がった。彼はこれまでとは違う情熱を身体に宿したように見えた―ミーナはそう言った。
ルシャは放課後になるとノーランの作った研究室に行った。まだ設備も足りない小屋だが、だからこそ広くて快適だ。流し台もコンセントもある。
「先生いないし…」
研究所は校舎の裏手の庭の一角にある。何にも活用されていなかったところに土日のうちに作らせていたらしい。耐久性が心配だが、建て付けはしっかりしている。新品のソファに座って待っていると、ドアが開いてノーランが入ってきた。
「あ、すまん。待たせた」
「何してたんですか」
「タバコ吸ってた。校舎のほうでは吸えないから、喫煙所で」
「喫煙所?」
そんなものまで作らせていたようだ。確かに彼にはタバコの臭いが纏わり付いている。彼は自分の机の上にある瓶を開けて液体を身体に塗り、愛弟子に今日の活動内容を伝えた。
「今日は研究はしない。なにせ設備がないからな。台も道具も。そして魔族もない」
「必要な物を運び入れるんですか?」
「そういうことだ。力仕事だが、お前には最初から最後まで関わってほしくてな。そろそろ買った物が運ばれる予定だ。しかし部屋の中を知られたくないから外に置くように頼んである。つまりお前が運ぶのはこの短い距離だ」
ノーランは説明を終えると部屋を出ようとした。ここに1人でいることを嫌うルシャが行き先を尋ねると、食べ物を持ってくると答えられた。
「職員室に弁当を忘れたから取りに行くだけだ。暗いのが嫌なら電気をつけていい。暇なら俺の机でも探ってればいい」
ノーランが去るとすぐにルシャは机を探った。先程ノーランが使ったのは香水で、タバコの臭いを消すためのものだと判明した。その辺りが雑だと思っていたルシャは彼への評価を修正した。引き出しには毛抜きと拭き取り紙が入っていた。それだけだ。ノーランはすぐに戻ってきた。
「お前は昼食どうするんだ?」
「もう食べました。部活行く前のミーナとリオンと一緒に」
「仲良いな。まあ2人とも優秀だから付き合っていいことばかりだろうな。じゃあ、俺はメシを食わせてもらう。3分で作った焼肉丼だ」
タレの匂いがルシャまで届いて彼女は腹を空かせた。ノーランはあっという間に食べ終えると、弁当とともに持って来た包みを開いた。
「実験に使えそうな道具を化学室から持ち出した。ピンセット、包帯、ビーカーにシャーレだ。これだけあれば血液をどうにかできる」
全然足りていないのだが、ノーランは自慢気だ。ネタの尽きた彼が椅子に座って鼻歌を歌っていると、ルシャは眠くなって鞄を枕にしてソファに横になった。
「おいおい、ベッドまで必要なのかよ。この建物に金を使いすぎてマットレスしか買えないぞ」
ノーランは頭を抱えて出て行った。今度はルシャは行き先を尋ねなかった。
しばらく寝たあと、外の音に起こされた。ドアを開けるとノーランと業者がいて、荷車にいろいろなものが載っていた。それを降ろすとノーランはルシャを呼んだ。彼女は軽い本棚や道具箱を運び、ノーランは重い棚や台を運んだ。彼は怪力だということがわかった。
「そうか、長袖だから分かんなかったけど、その中はマッチョなんだ!」
「何を言ってるんだ?」
ノーランは設備の設置を終えると疲れてカーペットに横になった。ルシャは今日の活動は終わりだと判断して帰ろうとしたが、ノーランは転がったまま彼女を呼び止めた。
「やはり魔族がいないと退屈だったな…だがそう簡単に手に入るものではない。実験が始まるまでの間、ここはお前と友達の遊び場にすればいい。魔族は俺が旧校舎から持ってこよう」
「え、危険じゃないですか?」
「第1層までしか行かないなら俺だけでも足りる。言っておくがアレが俺の本気だと思うなよ?本当はもう少し大きく目を開けるんだ」
「……また明日」
「明日は休日だ、俺はな」
少しイラッとしたルシャはそれ以上何も言わずにノーランに手を振って小屋を出た。まだ研究室とは呼べない。
翌日、ルシャはミーナとリオンに研究所のことを話した。すると2人はノーランのいない間に好き放題に改造してやろうと嬉々として企画を始めた。シンプルなソファを女の子らしいレースやリボン付きのカバーで彩ったり、ドレスを着せたトルソーを置いたり、ピンク色のカーテンをつけたりすると言ったので、ルシャはノーランの反応が楽しみだからその誘いに乗った。
というわけでルシャは部活動を休んだミーナとリオンを連れて雑貨屋に行った。その気になれば自分で作ることのできるルシャだが、ここは買い手の楽しみを味わうことにした。
「紫にしてちょっとエッチにする~?」
「あ、いいかも!ノーラン先生の反応がさらに面白いことになりそう」
「やりすぎたら怒るのかな?」
「わかんない。でも敵に回したくないタイプだよねー」
過剰な弄りに対しては慎重な姿勢を示したルシャは今後のノーランとの関係を考慮して控えめな可愛さの雑貨を買った。ちなみに彼女は服にお金を使ったため、金欠状態である。そのせいでカーテンとソファのカバーをミーナが買うことになった。
「このくらいなら先生は怒らないだろうね」
「いちおうお詫びとして美味しい紅茶でも置いとけばいいんじゃね?」
それは有効な案だとして3人は紅茶の専門店でストロベリーフレーバーの紅茶を買ってから研究所を改装した。机以外がかなりファンシーになって女子の居心地が良くなったので、紅茶を飲みながらお話をして夕方まで居座った。明日ここに来たノーランはカップの数が増えていることに首を傾げるだろう。
日暮れと鞄を背に帰り道を歩く3人は前方に知った姿を見た。歩きは上品ではなく、時折よろけるような動きも見せている。かなり疲れている様子だ。
「ルートじゃん」
「なんか疲れてる?部活で張り切りすぎたのかな」
やはりルシャは興味がないようで、冷めた目で彼を見ていた。そのまま彼を追い越したのだが、直後に彼が倒れると脚を止めた。
「ルート、おいルート」
リオンがルートを揺らして気を確かめる。しかしルートは憔悴しきっていて、立ち上がることすらできずにいる。肩を貸すかに思われていたルシャは再び歩き出してこう言った。
「借りを作ったとあればまた大きな屈辱になる。私は先に帰るよ」
ここで別れたくなかった2人は近くの男子生徒にルートを任せるとルシャに追いついて分かれ道まで一緒に帰った。
「いつも気品ある奴を目指しているようなルートがあんなになってるなんてねぇ」
良くも悪くも目に入る男のことをミーナとリオンは少しだけ見ているらしく、彼の普段の振る舞いを知っていた。2人はルートより成績が悪いと思っているため、彼から学ぶことがあるという態度のようだ。
「中間の手応えが芳しくないと思ったんじゃない?」
「なるほどね。結果が出て首席じゃなかったら期末で確実にとっとかないといけないからね」
「まあ、魔法実技で1位をとれなくても総合は1位だと思うよ。本当に実力があるのならね…」
「まぁ、ルシャはルートが嫌いなの?」
「謙虚さを欠片も持たない奴は人として認めない。井の中の蛙だということを嫌になるまで知ってほしい」
ルシャは自分がそうであると知っているからノーランに対してリスペクトをもって接しているつもりだ。中間試験の結果次第では彼の態度が変わるだろうが、ルシャのやることは変わらない。魔法実技で1位をとるだけだ。
翌日の放課後に3人が揃って研究室に行くと、ノーランがドレスを着たトルソーをまじまじと見ていた。
「先生、ドレス好きなんですか?」
「休日は家で寝てるから、街でこういうのを着ているオシャレ娘に会うことはない。平日は家とここだけだから、制服の奴ばかり見る。俺にとってドレスは貴重だ…」
「ところでこの部屋どうです?可愛くしてみたんですけど」
ギャルがニヤニヤしながらノーランに尋ねると、彼は椅子に座って3人を見つめた。
「…いいね」
「よかったぁ。自分の空間を荒らされたって怒り狂うかと心配してたんですよぉ」
「…ここにいるってことは俺の研究に協力するってことでいいんだよな?残念だがそのオシャレでカワイイ装飾に血が飛ぶかもしれんぞ」
ノーランは眠たげだ。ミーナが紅茶を淹れてあげると、彼はそれを飲んで一息ついた。
「まあ、仕切りを作ることはできる。ここは広いから、お前らはそちらで休憩していればいい。俺は黙々とやるほうが好きだからな…どこの紅茶だ?メイン…マイン、ファーミング?」
「マインファーミングです。フレーバーが強い名店ですよ」
「…知ったところで行くことはないんだがな。なにせ独身男性だからな」
「結婚しないんですか?」
「いろいろなことに付き合わされるのは疲れる。ただでさえ学校のことで精一杯だというのに…」
ノーランは基本的には無気力らしい。どうして先生をやっているのか問うと、意外な答えが返ってきた。
「俺は青春時代を楽しめなかった。だから誰かが楽しんでいるのを見たい。それが理由だ。俺はそれを支援するためにいる。授業なんて二の次だ。だからお前らが楽しめるのなら改造について黙認する」
「そうだったんですか…でももうノーラン先生は私たちの青春の一部でしょ。私に興味を持ったんですから、そのつもりじゃないとダメですよ?」
ノーランは柔らかく笑んで立ち上がった。
「ああ、俺は救われたんだな。目が覚めてきた…このメンバーで研究室を正式に発足する」
「って言っても私とリオンは部活があるので来るのは稀ですけどね」
「あ、そう…」
早速消沈しかけたノーランであった。
魔族を持ってくると言ったノーランは今日のうちに魔族の死骸を回収するつもりらしいが、魔法を使うとたいていは敵がグチャグチャに損傷してしまうため、繊細な扱いを要求されるとあって少し不安げだ。ルシャが手伝いを申し出ると、ナイスな笑顔で承諾した。
「助かる。俺は繊細な作業が苦手なんだ…じゃあなんで研究しようと思ったんだって問われると…回答に窮するんだが…」
「最近先生がちょっとズレてるって思い始めました」
「かもしれないな。人っていうのは1本道を進んでいるわけじゃないからな」
ノーランはルシャを連れて旧校舎へ向かった。ルシャは探索のことを思い出して怪現象を怖がった。プリムラがいないのでトイレに行くときはドアの向こうにノーランが立つ。
「ふぅ、何事もなくて良かった…」
「わぁ!」
「きゃぁ!」
「わははは!お前こういうときは可愛い…あ、待て、魔法を先生に使ってはいけない…ぐっ!」
ルシャは柄にもなく可愛い声を出してしまった恥ずかしさを紛らそうとしてノーランに魔法を放った。ノーランは超高密度の盾を展開してそれを防いだが、少しだけ後ろに退いた。廊下にはっきりと跡がついている。
「次はないと思ってくださいね…っ」
「ごめんなさい…」
ノーランはその後真面目に目的達成のために奮闘して無事に損傷の少ない飛行型魔族を回収した。それでもまだルシャはプリプリ怒っていたので、彼はケーキを奢ると約束してしまった。
「じゃあこいつを解剖するのは明日だ…お前ら、ケーキ屋行くぞ…俺は場所を知らないから連れて行ってくれ」
「なんでそんなにゲンナリしてるんですか?」
「それは、いいだろ…」
ケーキ屋の席に着いた4人は仲良くケーキを食べたのだが、1ホールを分けたためそこそこ高くついた。しかしそれがお詫びとして受け入れられ、ルシャは機嫌を戻した。
「正直なところそんなに怒ってなかったです。落ち込む先生を見たらからかいたくなっちゃって」
「もお…大人をからかうもんじゃないって教わらなかったの?俺は教えてないけど…」
「へへへ…」
からかえる仲になれたということが嬉しかったのでルシャは明日も研究室に顔を出すと約束してから帰った。ミーナとリオンは気怠そうなノーランの心を緩めに緩めているルシャのことをもっと知りたくなったので部活動を変えようかと思い始めた。
ルシャはすっかり研究室のことが気になってしまって授業の内容がさらに透過するようになっていた。しかし今日は中間試験の結果発表の日で、多くの生徒がそれだけに気を向けていた。
結果は廊下に貼り出されるため評判のために誰もが頑張ったのだが、思うようにいかなかった人は必ず出てしまうものだ。ルシャは筆記試験の自信がなかったのだが、当てずっぽうの調子がよかったのでビリを免れていた。体育も自信がなかった。しかしこれもビリではなかった。世の中には想像を絶する運動神経の悪さを持つ人がいるらしい。ルシャはまだマシなほうだったということだ。
そして魔法実技。これに関しては問答無用で1位だった。もはや彼女に及ぶ者はこの学校には現れなさそうだ。総合の順位はちょうど真ん中あたりだった。悪くない結果だと満足していると、その近くで歯ぎしりをしている人がいた。
「なんで2位なんだ…誰だこのジェイク・ロードという奴は…!」
総合1位はジェイクという名前の生徒だ。彼は筆記1位、体育2位、魔法実技3位と非常に優れた成績を収めている。ルシャはそのジェイクという男が気になり、彼のクラスを覗いてみた。すると黒髪短髪をオールバックにしたイケメンがいた。才色兼備な奴は文武両道なのだと知った。天は二物を与えるし、一物も与えないときもある。ルシャの訪れに気付いたジェイクは立ち上がって挨拶をしてきた。
「やあ、ルシャだよね」
「あ、はい…1位の人…」
「ジェイクだ。君のことは聞いている。魔法の扱いに長けた特定強化対象者だとね」
「まあ、そうですね…いや、ここに来たのは1位の人がどんな人なのか気になっただけで…うちのクラスのルートって奴がメチャメチャ嫉妬してたので…」
「ルート?知らないなぁ。でも僕をライバル視しているのなら勝負をしようかな。互いに学びになるだろうからね」
ルシャはそのことを聞いて自分の代わりにジェイクがルートを叩きのめしてくれると期待した。観戦を申し出ると、彼を連れて教室に戻った。ジェイクを見たルートは敵意剥き出しにして勝負を受け、すぐに校庭に出た。ルシャはベンチに腰掛けて対峙の様子を見守りながらジュースを飲んだ。
勝負の内容はキャピシュ・ダウンだ。これはルシャvsルベンと同じもので、今回は完全に中立の先生が審判と計数を担当する。先攻はジェイクだ。
「がんばれー」
棒読みで応援をするルシャの両隣にはお馴染みのミーナとリオンがいて、同じようにジュースを飲んでいる。2人はどちらが勝ってもいいらしい。
「開始!」
ジェイクはスマートをアイデンティティとする人のようで、上品な動きを乱さずに華麗にキャピシュを倒してゆく。もちろんルベンやルシャほどではないが、魔法実技学年3位の実力にはなかなかに驚かされる。
「やるねぇ」
「あんなにキャピシュ倒すほど精度高いのを維持できるのに3位なんだね…」
「ルートは総合2位なんでしょ?魔法実技は何位なんだろうね?」
「2位じゃない?1位が私、3位がジェイクなら…」
それが正しいならこの勝負はルートが有利だ。彼の表情を見ると余裕とも畏れとも異なる感情が伝わった。まるで相手のスコアには興味がないようだ。彼は静かに自分の番を待っている。不気味な感じだ、とリオンが言った。
ジェイクのスコアは49体。これを上回ればルートの勝ちだ。彼はゆっくり立ち上がり、息を整えて開始を待った。
ここでルシャも異様な雰囲気を感じた。




