172・どうしようもないこと
アイはすっかりアイという名前を受け入れているが、これはピエールによってつけられた名前であって実の父につけられた名前ではない。
「本当の名前は思い出した?」
「まだ…欠片が集まってきたらわかるかもしれないけど、アイでいいと思う」
「そう?めちゃめちゃ可愛い名前かもしれないよ?」
「もし記憶を取り戻したとしても聞き慣れない名前で呼ばれるよりはすっかり慣れたアイのほうがいいと思う…それともアレかな、愛称ってことになるのかな」
「どっちでも呼べるならそれでもいいよね…さて、帰らないと。お母さんたちが探しに来てしまう」
手遅れな気もしなくはないが、光りながら帰れば追跡に無事を知らせることができる。滓宝の魔力を留めるのに体力を殆ど使ってしまった2人だが、登下校に飛行の経験値を積んだことで感覚的に飛べるようになっていた。
お腹を空かせた2人を迎えたフランたちは衝動的な行動を咎めながらも、衝動的になった2人はいかなる手段でも止められないのだから仕方なかったとした。
「そっちが意識的に控えてくれない限りどうしようもないわけよ」
「怒られると覚悟してたよ。けどアイに必要なことをやりに来たのに、それをやる機会を逃すのってどうなのかと思ったんだよ」
多くの滓宝が解放されたため、計画は大幅に進んだ。できるだけ短い期間で終わらせて王都に帰るというのが意図せずして叶いそうだ。
「凄まじい数を解放したから、これまで以上に滓宝が集まってくると思う。たぶんもう解放しなくていいくらい」
「じゃあ集まってきた滓宝を回収することに徹するべきか?」
「はい。もはやこれ以上の解放は、管理しなければならない滓宝を増やすだけです」
ルシャはアイのために滓宝を解放したい気持ちと、ミロシュやメイライトに特別な許可を得たのだから、できる限り乱さずに計画を終えたいという気持ちとを併せ持っている。私欲を咎められてションボリしたときには後者に傾く。
「まあじゃあこの先はルシャよりアイの負担が大きいかな」
「そういうこと。ここまで解放した数を思うとよくやったと言うほかないね」
「移動の疲れもあるでしょう。ゆっくり休んでください」
「はい。回収のほうはお任せします」
子供はこれから計画終了まで基本的にはホテルで過ごすことになる。しかし魔力が足りずに滓宝が思うように集まらない場合は再びアーゲンソンにて滓宝を解放するため、王都に帰ることはできない。
「まあ…いいんじゃね?ノンビリしてれば」
滓宝を解放しないなら観光気分に切り替えてもよいため、3人は明日からの観光の計画を立て始めた。子供とは本来こうあるべきなのだと一致した大人は、政府の人間として滓宝を正しく管理しなければならない責任を感じて気合を入れ直した。
「上出来という言葉でも足りないくらいよくやったと思います」
「ええ。これほどの数の滓宝を解放してしまうとは思いませんでした。しかし無事に目的を果たせそうでよかったです」
バラガンは稀代の魔法使いの実力を見ただけでも満足で、思わず仕事であることを忘れて高揚してしまっていたと反省した。
「多くの特強には警戒を強いておいて、私はこんなに間近で魔法を見て無傷で終えられるのですから、いい役を担いましたよ」
「間違いない。私としては教え子のことを知ることができて嬉しい。相談を受けたとき、個人的にとても強く意識したことです」
ミロシュは先生の仕事をしながらメイライトとヴァンフィールドを繋ぐ権利者としてこの計画の準備を進めてきた。こうしてルシャやアイの希望を叶えたことで強い満足が生まれたという。
「…まあ、緊張感は減りましたね。アイが何を知るかによっては、気を引き締めねばなりませんが」
新章の始まりに繋がる事実が判明した場合は忙しくなる。かなり特殊な存在である彼女がこの大きな世界の重要なことを左右しているというのは壮大だろうが、博士の研究はもしかすると彼特有のものかもしれない。
☆
腹を満たしたルシャはいつものようにアイと一緒に風呂に入って背中を洗ってもらい、アイの背中を洗ってあげる。毎日見ている背中の欠片は身体と癒着していて、欠片の表面の半分は皮膚と繋がっている。剥がすには手術をするしかなさそうだ。
「本来馴染まないものを博士はどうやってくっつけたんだろう?」
「私の身体を削って無理矢理つけたのかな?」
「そんなひどいことする?でもそうか、そうしないとくっつかないなぁ…」
記憶が蘇ったならその瞬間の光景で苦痛までもが蘇りそうだから、これは正確に知らなくてもよい。魔法の力で接着したというのが最も気を楽にさせそうだ。
「お父さんはアイと欠片との相性みたいなのを考えてたのかな。欠片が力を与えてるとしてもアイの魔力は異常に高い。だからもともと素質があったんだと思う。特強になるくらいの」
「それを見抜いてた上で私に欠片を使ったの?でも私がもともとすごい魔法使いなら、発想を与えるだけで私が理想を叶えられると思う」
欠片が完全に戻ってゆくにつれてアイは記憶を取り戻し、言語能力も増してゆく。アイの背中に埋め込まれた欠片は1つなのにどうして他の欠片にアイの記憶が入っているのかということは魔法のことでしか説明されていないが、アイが欠片から記憶を受け取っているのは事実だ。
「引き合うということは他の欠片や滓宝とやり取りみたいなことをするもので、記憶すらやり取りしてるのかもしれないね。滓宝についてはまだまだ知らないことが多くて、魔王のことも知り尽くさないといけないから、もはやすべてを知るのはムリになっちゃったね」
魔王を殺してしまったことが理由だが、どうせ魔王は尋問をしたところで教えてくれないだろう。滓宝には謎が残る。その謎の部分について説が出たのだから、これでよかったのだ。
「お父さんはこの欠片が魔力を持っているってことは知ってたけど、パラディムシュヴァルヴェの欠片だってことはきっと知らない。だから他の欠片を集めることはたぶんしてない。けど伝えられたなら、罪滅ぼしとして欠片の収集を手伝ってくれるはず」
「そうだね。解決方法があるなら、それをすることでアイの記憶を戻せるもんね」
「来てくれるよね…きっと」
この思いが父に届いていることを願う。
欠片を合わせることでパラディムシュヴァルヴェの姿に戻りつつあるが、粉砕されてしまった部分がどうしても欠けている。その細かな部分の集まりにこそアイの重要な情報が隠されているとしたならば、もはや諦めるしかない。
「けどまだ欠片は集まってきてる。知れることは全部知るんだ」
今日もまたアイは記憶を取り戻した。これは父の居場所特定に大きな進捗を生むものだ。「お父さんと私の住んでた家だ…」
「家…!」
「それはどこにあるの?」
「どこかはわからない…森の中にぽつんと建ってる家で、庭があって、お父さんが丸太を積んでる」
「そんな場所がこのヴァンフィールドのどこかにある…」
「いや、ヴァンフィールドかどうかわかんないぞ」
「アイ、できる限りでいいから絵にしてみて」
「うん…」
記憶が戻ればそこに新たに書き加えられるだろう。場所が特定されれば、そこへ行って父の痕跡を調べることができる。アイの記憶を基にした絵には現代風の建築の一軒家と囲いのない庭、その隅に小屋と積まれた丸太が。ルシャの推理では、アイの父は研究室に籠もりっぱなしではなかったようだ。
「丸太に何を使うのかは知らないけど、そういう人って薪を暖炉にくべて暖房にするんじゃない?地下でそれは死んじゃうよ」
密閉された部屋で薪を燃やせばすぐに一酸化炭素中毒で死んでしまう。地下から管を通して外へ逃がすにしても、なんとも閉塞的だ。
「丸太を違う用途に使うってことについては記憶が戻ってないの?」
「戻ってない…」
「お父さんの本業なんじゃないの?研究者として食ってくのは難しいぞ」
魔法を解析しようとする動きは王国にて非常に盛んだが、その解析や研究に金を払おうとする人はいない。魔法のことも知っていて金もあるとなると誰も止められないからだ。アイの父はアイを養う金をどうやって稼いでいたのか。その記憶が戻ると良いが、アイは父の本業について1度も聞いたことがないかもしれない。
「少なくとも必要だから地上部分があるんだろう。秘密の研究をするなら地下だけにしてしまえばいいんだから」
「お父さんはもともと魔法の研究者なのか、本業で金を稼いで家を建てたのか…そこらへんも戻るといいね」
「まだまだいろんなことを忘れたままだなぁ」
根気よく付き合うことは最初から決めていたことだ。アイの記憶がハッキリして、過去を背負って生きてゆけるようになるまで支援し続ける。
今のところ博士について知りたいことは以下の通り。
・アイと過ごしていた住所
・本職
・なんでアイを行かせたのか
・欠片が滓宝ということに気付いているかどうか
そして懸念は以下の通り。
・アイが住所を思い出せない(周りの環境を含めて)
・博士が死んでいる
・微塵になったパラディムシュヴァルヴェにもアイの記憶が入っている
今はとにかく欠片が集まってアイの記憶が戻るのを待つしかない。博士に会うための突破口としては住所を特定することで、ルシャたちもそれを強く希望している。
さて、探偵もどきに息を詰まらせたなら解放の時だ。これ以上の滓宝解放について消極的になることで一致した6人のうちルシャ、アイ、ルートの子供組はヘルムソンや飛行して他の地域を観光することを許可されているため、考えることに詰まったり事実に心を揺らすのが苦しくなったなら、思う存分に心を癒やすことができる。
「飛ぼうか。解放する前に緊張してても飛んでるときは風が気持ちよかった」
「よし、緊張で縮こまった羽を伸ばそうじゃないか」
「今日は緩もう」
欠片に導かれた男性の住んでいるナルソンに行ってみた。3人にとって20キロという距離は大して離れていないようで、1時間とかからずに着いた。いい機会なのでルートへのお礼をするために街の人に尋ねて最も多く挙げられた靴屋に入ってみた。
ナルソンでいちばんの靴屋にはナルソンでいちばんの靴職人がいる。店の中で1段上に高さが盛られている四角が彼の2つとない作業場のようで、隅の小さな棚には修理する前と思しき靴が並んでいる。
「…」
客の靴と真剣に向き合う職人特有の表情から、冷やかしで来ていいような店ではないとすぐに判った。ルシャはこの店でルートの靴を選ばずして去れば殺されるとすら思っていて、隣の男に目配せをした。
(特強様がなにを恐れているんだか)
今となっては特強など大したことのない肩書きで、しかもこの状況で堂々としていられる理由には相応しくない。それこそ国王とかの有無を言わさぬものが欲しい。
「おじゃまします…」
「邪魔しに来たのか?」
渋い声の職人が挨拶のつもりでそう言ったルシャを睨み付けた。その直後、反射的に動いたルートが師匠の前に出た。
「おいおい、この人が誰か分かってるのか?魔王から世界を救ったルシャ様だぞ?」
「…知らんな。それとチビ、態度には気をつけろ。この店に限っては私が客に来てほしくて開いたのではない。人々が私の仕事への窓口として開くよう頼んだのだ」
「ほう、そりゃさぞ腕のいい職人様なんだろう」
歯軋りをしながら皮肉を言おうとしたルートに対してルシャは傷ついているわけでも、はらはらしているわけでもなく、感動していた。
「新鮮な反応だ…!」
ルシャの感動という行為を理解できなかった職人が眉間に皺を寄せた。さらに睨みの強くなった顔にはルシャではなく隣のアイが怯んだ。
「だってみんな私のことすごい魔法使いって知ってるから、素っ気なくしないんだもん!」
「……」
職人は呆れたように壁のほうを向いて作業に戻ろうとしたが、煩わしい蝿のような小さな客に気を散らされることを嫌って立ち上がった。
「邪魔しに来たのなら帰れ。用事があるならさっさと言え」
「あ、ええ、こいつの新しい靴を買おうと思って、みんなにお勧めを聞いたらここだって言うから来たんです」
「…ならば邪魔するなどと言うな。おいチビ、靴下を脱いで足を出せ」
「チビっていうの気にしてんだよなぁ」
「ふん、肉を食わんからだ」
「めっちゃ食ってる俺」
ルシャのことを知らないのだから肉食の集いのことも知るはずがない。この職人もどうやら肉が大好きのようだが、遺伝子に恵まれたという点でルートとは違う。
「…いつものように両足で立ってみろ。それがいつもの立ち方か?」
「そうだけど…?」
「体重が斜めにかかっている。足にある複数の骨がずれて、体重を筋肉で支えている状態だ。本来はこれほどに酷使しなくても体重を支えられるものだ」
「ほう?」
ルートは長い間立っているような経験に乏しいため、直立姿勢の悪さに気付かなかった。立ち方に癖がついてしまっているため足の裏の筋肉に無駄な負荷がかかっているという。立ち方を矯正することもできるが、今の立ち方での負荷を減らすのが靴職人の選択だった。
「中敷きを調節すればいい。骨がずれなければ無駄に筋肉を痛めることはない」
「やってくれるのか?」
「時間はかかるがな…意匠にこだわりがないのなら、1週間で作ってやる」
「俺が求めてるのは機能だ。これまでに靴で苦労したことはないけど、最も合うものだってなら欲しい。ここまでやってもらって遠慮するってのはよくない」
「10000レンスだ。決めたのなら細かなところを測る」
「よし」
なんだかんだで取引が成立したのでルートは職人に足のサイズを測ってもらってから金を払って控えを受け取った。
「取りに来なければ邪魔になったときに棄てる。私はそれでも構わんが」
「絶対に行く。なんていうか、睨んで悪かった…って、あれ?」
ここでルートはあることに気付いた。これまで全く問題なく話が通じていたことだ。ここはメイライトでしかも北部だからヴァンフィールドからは遠い。それなのに王国語が通じたのは、最初の時点で驚くべきだった。
「私はヴァンフィールドからの移民だからな」
「そうだったんですね…じゃあ私の最初のひとことで判断したわけだ」
「ああ。移って久しいが憶えているものだ…用事は済んだだろう?」
「ええ。では来週に」
店を出たルシャは職人が悪い人ではなかったと言ってルートの喧嘩腰を咎めた。しかしルートはルシャに対する攻撃性はすべて排除すると頑なで、チビと言われたことでその態度に対する反省を失した。
「どうしようもない弱点を突かれたときにはどうやっても勝てないものだろう?俺は負けることが嫌いなんだ」
「知ってるよ…なんていうか、低身長同士仲良くしようや」
男の低身長と女の低身長は全く別物なので何の慰めにもならないのだった。
本当の名前は特強クラスの魔力なんだから『どうせアレ絡みだろう』と思ったあなたは立派な喫煙者




