8章18話(浜千鳥)
「戦ってる……」
開いた口が塞がらないっていうのはこういうことか。ニキロ近く先だから杳然としか見て取れないけれども、アレだけ叩かれた後で、我が楽団は演奏を再開していた。否、それだけじゃない。一度は逃げ散ったメンバーが続々と戻ってきている。僕は好奇心のままに望遠鏡を使った。お手玉しそうになりながら伸縮する。観察した。信じられなかった。出戻りのメンバーたちの多くは逃げた先まで楽器を抱えていったらしい。捨てた方が速く逃げられるというのに。(現実に潰走した部隊の将兵はまず銃を捨てる)
ファゴットを抱えたお下げの少女がいた。彼女は楽団からニ〇〇メートル以上も離れたところまでピューと走っていったところでいきなり立ち止まった。背後で演奏が再開されたのを聴いたからのようだった。震える。俯く。地面を蹴り飛ばす。天を仰ぐ。顔を手で抑える。勢いよく振り向く。下唇を噛む。更に振り向いて楽団に背を向ける。何事かを叫ぶ。もういちど楽団から数歩、遠のく。そして踵を返す。泣きながら楽団へ戻る。
何がそこまで。何が彼女たちを。何をそんなに。何のために。
印象的だったのは逃げ切ってしまったメンバーたちだった。彼らは安全圏まで落ち延びると足早にログ・アウトした。ただし、彼らの表情は屈折していた。ホッと安堵している者など誰一人としていなかった。ある者は楽団に――どういうことなんだろう?――羨望の眼差しを向けた。ある者は楽団に手を振った。ある者は楽団に何かを叫んだ。ある者は自分の顔面を殴った。否、僕の見間違いか観察の不足かもしれない。どこかに何人かぐらいはやってられないっていう顔で去った人もいるんじゃないかな。
それでも僕は興奮していた。
一本の傑作映画を観た後の虚脱感にも似た、座席から立ち上がりたくないような、胸の中で熱っぽいものが渦巻くような、憧れにも似た、嫉妬にも似た、それは初めて感じるわけではない、これまで感じても無視してきた、つまりは人間らしい感情という奴だった。『――――アツい生き方なんて僕には似合わないからさ、ハハハ』
「浜千鳥さん!」僕の腰が強烈に叩かれた。漆原君だ。僕はふらりとしかけた。なんとか踏み止まった。なんで踏み留まれたんだろうか。っていうか、僕、さっき倒れかけてなかったか。いつの間に背筋を伸ばしていたんだろう。
「アンタがそんな腑抜けてると戦列が持ちませんじゃあないですか。シャキっとしてください。――オイ、なにを見てんだ、お前ら。お前らは前だけ見ちょればいいんだ」
漆原君は数人の兵を叱り飛ばした。「で、次の方策は決まりましたか?」
「うん。決まったよ」僕は怖さからではなく浮かんできた涙を拭った。怖さから浮かぶ涙を拭うつもりはなかった。なにしろ、そっちの方はあんまりひっきりなしなもんで、どれだけ拭っても意味がないからね。
「でしょうな」漆原君は達観した風だった。
「仕方ない。こうなったら、どうです、いっそ自分たちも第一戦列と一緒に敵にとっこんじまうっていう――は?」
漆原君が空飛ぶ円盤を発見した人のように硬直した。「なんです? 決まった? アンタ、この土壇場で何かキマっちまってるんじゃないでしょうね。そういうことじゃありませんよな?」
「違う」僕はあんまり使ったことのないこの言葉を使った。
「そうですか」漆原君はそれ以上の無駄口を効かなかった。
「漆原君、頼みがあるんだ」
「いつでもどこでもなんでも」
「大隊長を集合させて」
「無茶な」漆原君は数秒で前言を翻した。彼は僕の耳元で周囲を窺いながら囁いた。「敵があと何分で来るかもわからない状態です。もし配置を離れてるところに突撃を掛けられた日にゃあ、アンタ。しかも士気はご覧の有様だ。大隊長たちを集めたりしたら兵たちがもっと不安がりますよ。逃げ支度か裏切りかと。それとも自分たちを置いて逃げるのかもとか」
「平気だよ」僕はこの会話の中でもう二度も舌を噛んでいた。歯が勝手に踊るからだった。「どうか頼む、漆原君」
「承りました」漆原君は納得していた。常識論を提示するのも下士官の仕事だ。指揮官の判断がトチ狂ったものである場合は殊に。命令の背景に正当な理由があるならば従う。背景のあるのが変な思いつきならば思い直させる。
漆原君は胴間声と逓伝を駆使して数分の内に大隊長らを集めた。その間に演奏音のボリュームはいや増した。楽器の損傷からか音の割れが凄まじい。しかし、迫力はこの上ない。僕は初めて自分の狙いが的中した喜びを(勝手に歯が動くから)噛み締めた。
このとき、軍楽隊は便利な伝令装置としてよりも、本来の役割、士気高揚に役立っていた。あんな姿になっても自分たちの藝術に、言い方は悪いよ、でも、しがみついている彼女たちの姿に我が連隊を構成する全てのプレイヤーが励まされている。彼らは先程までのお通夜ムードはどこへやら大隊長たちの抜けた分まで兵を盛んに督励していた。
コレっていうのはアレなのかな。僕は考えを巡らせた。いわゆるヒノモト国民の嫌な国民性ってことになるのかな。『ホラ、あの人たちはこんなに頑張ってる! 自分たちも頑張らなきゃ! ついでに関係ないお前も頑張らなきゃ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 死ぬまで頑張れ! 頑張れない奴はたわけた奴だ!』
それでもいい。いまはそれでもいい。それに頼らねばならないこともある。何時もこれならばそれは確かに健全ではない。しかし、場合によってはこういうものですら役に立つということを認めないわけにはいかない。どんなものにでも利点がある。大事なのは使い時を間違えないことなのだ。(多分)
「お願いがある」
僕は集めた大隊長たちと共に戦列から抜け出した。兵の前で輪になって話す。戦列背後であればせっかく持ち場を守り続けている兵に要らない不安を与える。
「知恵を貸して欲しい」僕の声は自分でもプッと吹き出しそうになるぐらい震えていた。
「本当なら頭を下げて依頼したいぐらいだよ。でも、兵が見ているから出来ない。敵は間もなくやってくる。騎兵だ。規模はわからない。大隊以上だろう。右側面をこのままだと取られる。僕がモタモタしていたせいで、恐らく、いまから方陣を組むのは間に合わない。組んでいる途中で突撃をお見舞いされる」
露骨な反感を表した大隊長がいた。独断で方陣を組もうとしていた彼だった。野蛮という形容詞がこれほど似合う同年輩を僕は他に知らない。僕は彼に目線を合わせた。格好良くしようとしたけれど無理だった。愛想笑いをしてみた。大隊長は溜息を吐きながら頭を振った。破れそうなほど高鳴っている僕の心臓が締め付けられるように痛んだ。
「申し訳ない」僕は指揮官が発するべきではないとされている言葉を用いた。用いたといっても反射的に口を突いて出たのがコレだっただけだ。「でもこれが只今の現実だ。僕には何も思いつかない。頼む。力を貸してくれ」
腰が自動的にリクライニングしかけた。お辞儀をするのは流石に不味い。僕は必死の努力で頭を下げなかった。――頭を下げるべき場面で下げない努力を求められるのってなんか変だな。本当に変だな。戦争って変だよ。
「連隊長殿」と、挙手したのは例の野蛮な彼だった。
「なんだろうか」と、僕は手足を無様に震わせながら尋ねた。
「貴様は腰抜けだ」と、彼は出し抜けに決めつけた。
「僕は腰抜けだ」と、僕は吐きそうになりながら認めた。
しかし、腰抜けでも思い立ってしまった。軍楽隊のあんな子たちでも戦っているんだからとかなんとか。勇気とかいうものを振り絞ってしまった。それに付き合わされる将兵は哀れだ。本音を言えば既に後悔してる。あのとき膝から崩れれば良かった。そうすれば将兵たちの犠牲は少なくて済んだ。僕もこんな胃腸に悪いシチュエーションに直面せずに済んだろう。
本当にそうかな。そうしていたら僕の無能が世間に知れ渡ったな。嫌だな。家庭以外のあらゆる場所で後ろ指を差されて生きていくのってどんな気分だろう。
どっちの方が嫌だろう。臆病者と呼ばれるのと無能者と呼ばれるのと。
ええい、普段なら無能でも臆病でもどっちでもいいんだ。生きていられればそれいいじゃないかとか嘯いたに違いない。
いまは駄目だった。いまだけは駄目だった。無能でもいい。臆病と謗られるのだけは、いまだけは我慢できない。
「そういうことならば」と、あの大隊長が破顔した。
「小生に良い考えがある!」





