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8章17話(大八分咲)/Go On !


 息をすれば白かった。太陽光線の中でチリチリと煌めく埃の形までくっきりとわかった。みんなで資金を出し合って新調したスーツの黒がその大気の中で鮮やかだった。美しい朝だった。毎晩、眠気と寒さと格闘しながらドラッグ・ストアで『ッセェー』を繰り返したり、通行人の数をカチカチと数えたりした甲斐があったというものだった。


 しかし、昼にはこの世の全てが醜く思えた。団地(うち)に帰ると両親がこう尋ねた。『桜子、巧くやれたの? そうでしょうね。あれだけ練習したんだものね』


『もちろん』私は人生で初めて両親に嘘を吐いた。善良な彼らはまんまと騙された。彼らは音楽科が廃止になるとき、私が制止するのも聞かずに学校まで抗議にでかけた。彼らはそれでもまだ真実を知らない。


 思い出すのは爆笑の渦に包まれた講堂だ。急遽、順番を二番も繰り上げられた。調律すらさせて貰えずに舞台に引っ張り上げられた。冷えた楽器はまともな音を出さなかった。演奏せねばならない曲は事前に教えられていたものと違っていた。ホーム・ページには書いてあったというが、野郎、ホーム・ページなんて何処にもなかったぞ。


 わかるか。想像できるか。


 ガタガタのコンディションながらもなんとか全員が配置についたとき、それでも頑張れるだけ頑張ろうと思っていた矢先、事前に設置されていた譜面台にさっぱり知らない楽譜を見出したときの気分を。怒るとか悲しむとか苦しむとかよりも先にポカンとした。直ぐに焦りだした。幕の向こうの観客席にアナウンスが響いたからだ。『七導館々々高校の演奏曲は我が高の講師が半年前、新たに作曲した――』


『出番まで五分だけ時間を作ったから』恩着せがましく奴らは宣った。


『それで頑張って。ごめんね。ごめんね。ごめんね。手違いがあるとは思ってなくて。ごめんね。まさか本当に手違いがあるだなんて』


 言いたいなら言えばいい。やっぱり頭の悪くて貧乏な人たちとは演奏なんてしたくないわ、って。お前らから誘ってきた癖に。それとも最初からこうするつもりだったのか。


言いたいなら言えばいい。頭の悪くて貧乏な人たちってなんてチョロいんでしょう、って。


言いたいなら言えばいい。頭の悪くて貧乏な人たちだから手違いがあるのも仕方ないわよね、って。言え。言うんだ。そうすれば口実ができる。


 よっぽどぶちのめしてやろうかと思った。私の手はドラムを叩くために鍛えられている。人を殴るためではない。手は音楽家の魂だ。ワガママで、傍若無人で、気分屋の、ときによると包丁でぶつりと切断してからフライパンでジュージューに焼いてコンガリした表面を犬歯で抉ってやりたくなる、それでも掛け替えのない恋人である。手がなければ演奏はできない。


 だが、コイツらをどうにかできるなら長く連れ添ったこの恋人を質に入れてもよい。そう思った。


 指揮者がそれを許さなかった。


 才能に溢れていながら家庭の、主に経済的な事情からエリート街道を走るわけにはいかなかった壱式つかさは、とにかく与えられた時間を有効に活用しようと発議した。メンバーは素直にそれに従った。音楽科はそれだけ団結していた。つかさの情熱と実力が以前はどうしようもなかった彼らの技術を、まず、人に聴かせられる演奏をするだけのレベルに引き上げた過去があるからだった。(音楽科を名乗っておきながら七導館々々には専門的なことを教えられる講師がほとんどいなかった)


 まあ、無駄な努力だった。五分で弾けるようになるなら音楽なんて楽なものだ。そんな楽なものに夢中になる者もいないだろう。――無駄な努力と化したのは何もあの五分間のことには限らない。コンクールに向けて基礎からやり直したあの地獄の数ヶ月間、学校に泊まり込んで音をあわせた日々、運動部も顔負けの走り込みと筋トレ、そういった全てが活かされることもなく無駄になった。『まさかあんな有名な学校が招待してくれるなんてね。世の中、捨てたもんじゃないね!』


 帰りのバスの中では誰も泣かなかった。静かだった。全員が死体のように押し黙っていた。全員が窓の外か天井かを無気力に眺めていた。窓の外は高級住宅地だった。どの家の屋根も綺麗に赤く塗装されていた。庭では大きな犬が飼われていた。


 不思議と床を見詰める者はいなかった。我々は感情を使い果たしていた。涙を流していたのはむしろ演奏中だった。泣いている男女を笑うのはさぞ気持ちよかったろうな。


 知り合って以来――私と彼女は中学で知り合った――、音楽以外に興味を示さなかったつかさは、あのコンクール以来、少なくとも表立って音楽理論がなんだ将来はベルリンフィルだなんだと騒がなくなった。伽藍堂な人になってしまった。よく笑うようにはなった。私にはそれが、一番、辛かった。


 いつかきっと見返してやる。そう決意して吹奏楽を立ち上げた。ところが、知っての通り、それも上手く行かなかった。かつての仲間たちはすっかり及び腰になってしまっていた。参加してくれたメンバーも半数は幽霊部員となった。残りの半数も愛想と人情で活動をしてくれるだけで、あの頃のガッツを失っていた。


 ガッツか。それが私達にはあった。食べていくのすら厳しい生活、その中で巡り合った音楽、自己表現の手段、自分たちがどれだけ下手かは知り尽くしていても、プロになるのは無理でも、好きだから、ただ好きだから、せめて一度ぐらいはまともなところで学びたい。演奏をしたい。七導館々々高校音楽科とはそういう連中の集まりだった。


 そういう意味からすれば理解できなかった。なぜなんだ。夢だったはずだ。人前で。何百人の前で。自分たちで。それをトコトンまでぶち壊されてなぜ怒らない。なぜリベンジしてやろうとしない。


 直接、この質問をぶつけても、仲間だったはずの皆んなが曖昧に笑う。笑うな。笑うな。畜生、笑うな。笑って誤魔化すのはやめろ。『悪いな。楽器は売ったんだよ。もう必要ないからさ。金、ウチに入れないといけないし』


 私がおかしいのか? 私が間違っているのか? 悔しいと思ったらいけないのか? 諦めることがそんなに大人か?


 根性だ。私は根性と怒りと妬みだけでこの一年近くを過ごしてきた。毎日毎日、いつかきっと必ず来るはずのチャンスを待って、手が裂けてもドラムの練習を続けた。


 そして、――いま、やっとこの藁のようなチャンスを掴んだのではないか。お前らだっていったじゃないか。もう一度ぐらいはやってみてもいいかな、と。それは私が強情だった面もあるだろう。来てくれると言うまで目の前から動かないとか確かにやったさ。だが、どうしても嫌だという奴は無理に連れてこなかったじゃないか。最後には自分の意思でここへ来たんじゃないか。『やっぱり音楽が好きなんだよな、俺は』


 それなのになぜ逃げる。榴弾がそんなに怖いか。久しぶりにやる演奏で自分の腕が衰えているのを自覚するのがそんなに嫌か。誰かにそれを聴かれるのに耐えられないか。


 正直、戦争がどうなろうが――大恩ある左右来宮さんには悪いけれども――私の知ったことではない。大事なのは演奏し続けることだ。ここ以外、どこに私たちの望んだ、私たちを受け入れる舞台があるのか。ここ以外でどこに私達の努力を結実させられるのか。ここ以外でどこに私たちは自分たちのしたかった表現ができるのか。いっそリベンジだ見返すだなんて出来なくても良い。あの頃の夢を果たせるのはいましかないんだぞ。いまを逃せば後はもう社会に出て音楽とは関われなくなるんだぞ。『オレ、一度でいいから大勢の前で演奏したいんだよな。一度でいいから。一度でいいんだ』


 私は涙を流した。やっぱり泣くのは演奏するときばかりか。きっとまた私たちは笑われていることだろう。


 それでもいい。演奏を続ける。死んでも演奏を続けてやる。腕が折れているが知ったことか。勝手に折れてろ。腕が消し飛んだら頭をドラムに叩きつけてやる。頭が飛んでも心臓の鼓動は止めない。心臓の鼓動が止まらなければドラムの鼓動も止まらない。もし心臓が止まったとしたらドラムに生まれ変わってでも演奏を続ける。絶対にそうする。痛みがなんだ。生きていれば痛いことなんていくらでもある。本当に痛いのは体の痛みではないことを私は知っている。


『私たちはずっと仲間だよ』


 あの夏、そう言ったじゃないか。あれは嘘だったのか。


 ―――――――嘘ではなかった。一人、また一人と楽団のメンバーが戻ってきていた。涙を流しながら戻ってきた者がいる。仕方ないなあと口にしながら戻ってきた者がいる。恥ずかしげにしながら戻ってきた者がいる。全員ではない。もちろん全員ではないが戻ってきた。あの、ゲームの中ですら化粧の濃い彼女が『アタシは最初から今までずっとここにいましたけど?』みたいな澄まし顔をしている。


 一度、演奏を停止する。呼吸を整える。手はスティックで塞がっている。瞼を閉じることで涙を目の外へ追い払った。瞬間、瞼の裏側にあの日の光景がありありと蘇った。貴族の邸宅か何かと見紛うほど豪華な校舎、講堂、設備、そこで切磋琢磨するお嬢様に紳士諸君、私達に持っていない者を持っている連中、恵まれた連中、何の心配もなくただ音楽に打ち込める連中――。私たちにはない苦労もあるだろう。金持ちならではの。しかし、だからといって、同じように違う種類の苦労をしている誰かを虐げる理由にはならない。そのはずだ。


 おい、見てるか、金賞のボケども。『もういちどやってみろっての』だったな。


 ボケナスどもめ。いまからもういちどやってみせてやる。本当の演奏って奴を教育してやるぞ。お前ら皆、私たちのこれからする演奏をヘッドフォンか何かで大音量で聴いて鼓膜がぶち破れればいい。そうして、その状態のお前たちですら名演奏だとわかる演奏を私たちはするだろう。『もういちどやってみろよ』じゃない。『もういちどやってみせてください』とお前らが泣いて頼み込みに来るような奴をだ。私は、私たちはこのときを待っていた。ずっとずっと待っていた。

 


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