8章16話(壱式)/Show Must...
オーケストラはね、演奏中、ユーフォ担当が爆死することを想定していないの。
ねえ、だって、大砲に撃たれたりとか銃弾の飛んでくる演奏会ってあると思う? ないでしょ?
「!」咳が酷い。周囲を包んでいる黒煙をモロに吸い込んだからだと思う。喉がチクチク痛い。気管がズキズキする。息をする度に肺の中でプチプチと音がする。口の端から垂れている生暖かい液体はどうも血らしい。腔内に血の味がするから多分そうだ。人差し指で拭う。粘っこい。唇から指まで赤い糸が引かれた。
とりあえず手足はちゃんと着いているらしい。内臓も無事だ。無事でなければオシッコは漏らさないでしょうし。なんなの。なんでこんなところまで作り込むの。なにがそんなに開発者の方を駆り立てちゃったの。ああ、もう、ああ、もう、ああ、――。
自分が俯せに倒れていることにそこでようやく気が付いた。体を起こそうにも大儀で仕方ない。上半身に力が入らない。意思とは関係なしに涙が流れた。目がショボショボする。どれだけ瞬きをしても改善されない。汚れた指で瞼を擦るのは憚られた。涙の色は黒だった。赤と交じると紫っぽくはならなかった。ただの汚れた赤になった。
奥歯を噛み締めた。下顎に力を入れる。苦労して姿勢を四つん這いに変えた。もしかすると胸骨にヒビが入っているかもしれない。動かす度に息が詰まる。刺すような激痛が肋骨を沿って走る。プルプルと震える腕と下半身のバネを使ってなんとか跳ね起きた。その衝撃でまた息が詰まった。額から汗が飛んだ。
みんなは。私は四方を見回した。どうしているのか。なにも見えない。聴こえるのは何かがパチパチとかいって燃えている音だけだ。鼻をふと異臭が突いた。追って、生唾が頬の粘膜中から噴き出した。吐きそうになった。この煙の壁の先で何が起きているか遅れ馳せながら理解した。
あの耳障りな、音楽的素養の欠片もない砲弾、榴弾だっけ? アレがみんなを吹き飛ばしちゃったわけね。吹き飛ばされなかったメンバーもどこかへ逃げ出したと。
悲しいとか辛いとかそういう感情は全く涌いてこなかった。観念するべきだわねという考えだけが頭を占めた。どうせこんなことだろうと予想はしていたのだ。素晴らしい演奏だの素敵な友情だのなんていうものはそうそうあるものではない。そして、自分はそのそうそうあるものを得られるほど大した女ではない。卑下している訳でもない。厳然たる事実を再確認しているだけ。というか、最初から期待せず、事実を事実として認めておけば、必要以上のダメージを受けることはない。ただそれだけ。
とにかく私も逃げねばならない。宛もなく歩いてみる。二歩目で何かを踏みつけた。私の指揮棒だった。ええい、こんなものと踏み折ってやろうと決意した。
ところが私は、どういうことなのか、その棒を拾い上げた。またあのピューとかいうふざけた音が頭上を過ぎ去っていった。なんだか無性にムカついた。
『おい、あの演奏をした奴らがなんか言ってるぜ。悔しかったらもういちどやってみろっての』と、去年のコンクールで言われた言葉がお腹の底から脳天を突き上げた。
やらせなさいよ。私は怒鳴ろうとした。咳だけが出た。できるもんならやらせてみなさいよ。しっかりとコンディションを整えた上で挑戦させてみなさいよ。卑怯者め。何が間違えた――よ。嘘のスケジュールとプログラムと課題曲を伝えてきて間違いで済むと思うの? コッチは科の将来がかかってたっていうのに。そりゃあね、“正規の音楽学校様”からすれば七導館々々の音楽科なんてクズ同然でしょうけどね、ええ。私らにだってあそこしかなかったのよ。
ファック野郎どもめ。あれ以来、何回、もう音楽になんて関わりたくないと思いながら頭の中で指揮の練習を続けてきたと思う? それがこんな風に終わっていいの? 異常な状況だからって? ラストチャンスなのに?
続けてやる。意味がなくても続けてやる。音量が足りて無くても続けてやる。ああ、この野郎、だから耳障りだって言ってるでしょ!
どうせ万雷みたいに鳴るなら砲撃じゃなくて拍手ならいいのに。――私はその場で指揮棒を振り回した。我武者羅に振り回そうとすればするだけ洗練された指揮ができるのが不思議だった。
もう何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返して聴いた曲だからか、私以外、居ないはずなのに頭の中でメロディが流れだした。やっぱり良い曲よねと感じた。実際、良い曲だった。新世界とはどこにある世界のことなんだろうか。その世界を脳内に描き出すべく私は目を瞑った。キツく。二度と開かれなくてもいいと。
しかし、夢の新世界はついに一筆も描かれることなく崩壊した。なにしろ脳内再生されている音楽に異常が生じたのだった。
ズレてる。音がズレてる。半音高い。アッチは低い。どういうこと。私は眉間に縦一文字を刻んだ。
指揮棒を振ってみる。少しだけ音のズレがマシになる。また指揮棒を振ってみる。やはり少しだけマシになる。試しにコンサート・マスターが座っていた方向へ合図をする。またまたマシになる。総体としては火曜日に出されるゴミ、即ち生ゴミも同然な演奏だけれど、情熱だけは籠もっている。その情熱を評価してくれるタイプの聞き手にはたまらない出色の出来栄えだ。で、こんな演奏ができるのは、
「逃げてなかったの?」薄れつつある煙の中に十数人のメンバーが残っていた。私は愕然とした。思わず指揮の手を止めた。律儀にもオーケストラは演奏を停止した。トランペットなどはマウスピースから口を離した。弦の切れかかっているヴァイオリンを手にしたコンサート・マスターがどうしたんだおいという表情を浮かべた。
頭に来た。心とか自己評価とかいうものが痛く傷つきもした。現実的な痛みについては忘れることにした。私は指揮棒を振り上げた。
オーケストラの中心には三〇人の男性から続けざまに暴行を受けたとしか思われない桜子がいた。彼女が頷いた。私は頷き返した。演奏を再開した。やはり音量は足りなかった。これでは前線に音を届けることはできない。それでも我々は演奏を止めなかった。司令部から演奏曲を変えてくれ――主力を援護するための砲撃がどうとかこうとか――と伝令が来たのは数分後だった。この期に及んで左右来宮さんたちはまだ私たちに何かを期待しているらしい。
それって凄くいいな。前のときは誰も期待なんてしてくれなかったし。奴らは最初から批難するつもりで私達の演奏を待ち受けていた訳だし。
ここは独壇場だ。私たちだけのコンサート・ホールだ。やれるだけはやろう。それでもし駄目ならそのときはそのときだ。
期待はしない。結果も欲しくない。やりたいからやろう。せめて悔いのない演奏をしよう。





