8章15話(浜千鳥)
「浜千鳥さん」漆原君がどこまでも冷静に囁いた。表情もさのみ険しくない。飄々とした何時もの態度も欠片ほども損なわれていない。なのに違和感がある。理由はわかっている。それが作られた自然体であるからだ。天然ものと養殖ものってやっぱり違う。漆原君は手にビッチョリと浮かんだ汗が人目に着かないようマスケットを握り締めた。
僕は眉根を寄せた。八ヶ月前、彼と最初に組んで挑んだ戦闘を思い出した。僕の実力不足、隊の練度と装備の問題、それにアクシデントが幾つも重なって輻輳した結果、僕の中隊はあわや玉砕というところまで追い込まれた。あのときも漆原君はこんな様子だった。芝村君はどうだったかな。(芝村君は向こうで頑張っているだろうか)
「敵騎兵は直ぐに来ますよ」我が左翼第一戦列はついに敵との白兵戦に移ろうとしている。
「どう対処します。急いでください。判断さえしてくれれば後は何とでもします」
「ええと」僕は不必要にキョロキョロした。どこを向いても助けてくれる誰かが居る訳ではなかった。高学歴不足で連隊本部に配属されていて然るべき参謀たちは存在しないのだった。それは最初からわかっていた。それでもキョロキョロした。連隊横列の各所でどよめきが起きたのがわかった。戦意が落ちている。不味い。不味いよ。不味い。頗る不味い。戦列歩兵は隊列を乱せば戦闘力を発揮できない。隊列を乱すのは何も戦った果てにとは限らない。この連隊長の命令に従えば死ぬと将兵に疑われればそれまでなのだ。このまま僕が決断を下せねば彼らは逃げ出す。下士官がどれだけいてもどうしようもない。かといって、僕の下す決断で騎兵相手に勝てるとは思えない。どうすればいいのか。いますぐ方陣を組めばとりあえずいいのか。組んでしまえば敵は標的を変えないか。まず敵はいまどの辺りにいるのか。この近くか。まだ遠くなのか。『遅れるなら遅れるって連絡してよね。もう知らないから。――やっぱり好き……』
思うに、僕は割と幸運なのだ。シュラーバッハでは左右来宮師団長が助けてくれた。仮設師団に入って喧嘩を売られたときは左右来宮部長の方が助けてくれた。今度も。駄目か。僕がなんとかしないといけないのか。無理だよ。無理だって。無理なものは無理なんだから――全滅?
僕は悲鳴をあげられなかった。あげれば味方が潰走するから我慢したのではなかった。ただただ腰を抜かしてしまって悲鳴をあげることすらできなかったのだった。あげられるものならあげたかった。立ち尽くす。涙が浮かんできた。動悸がする。震えも起きた。さっきまで一滴も出ていなかった汗が全身を包んでいた。いまの僕はまるで汗のソープランドだ(?)。
将兵の不安はいよいよ高まった。ある大隊長など独断で方陣を組み始めようとしている。自分の部隊が動けば他も動かざるを得ないだろうと。
「浜千鳥さん!」漆原君が――僕に発破をかけるためだろう――強い語勢で促した。
「早くせんと戦争に負けます!」
そういえばそうだった。それを忘れていた。僕の隊が全滅して僕も殺されるとかそれだけの問題ではないんだ。僕が負けるとそのせいでとんでもない数の人々がアレでアレしてああなってアレするのか。なんてこった。そんなことってある? あるんだよね。ああああああああああああ、――――僕は一層、動けなくなってしまった。
一応、頭を過るアイデアがなくもなかった。捨て身で攻撃してしまうのはどうだ。
そう、さっきも思い付いたように、いま、僕らの軍隊は連隊単位でなくとも行動できる。これまでは大隊を行動の基本――戦場移動や隊形変更や射撃管理などの基本――としつつも、指揮官、下士官、それらの不足から、あくまでも連隊で一箇所に集まって戦闘を実施していた。(連隊横列対連隊横列がデフォルトだった)
しかし、現状でなら大隊別に、バラバラに行動しても行動できないことはない。訓練不足だから動きは遅いだろうけど、それでも、僕の指揮する第一大隊が敵騎兵を食い止めている間に第ニと第三で敵戦列を迂回して敵司令部を狙うってのは有効な策ではないか。僕も身を挺して仲間を勝利させたってことで面目が保たれるし。ああ、情けない。
否、駄目だ。そうしたところで僕らが瞬殺される。それから第ニと第三大隊が後ろから討たれる。意味がない。騎兵との機動力差を考慮に入れねば。
いっそのこと僕らも第一戦列と一緒に敵左翼に突っ込むのはどうだ。論外か。数は多ければ多いほど有利ではある。ところがこの戦場の幅は狭い。二個連隊が敵に突っ込むとアチコチで事故や混乱が起きてしまう。二個連隊という数の差を活かせない。むしろデメリットばかりを甘受しなければならない。大体、僕らの連隊も疲れ果ててしまう。突破力を失う。っていうか、僕らを無視した敵騎兵が僕らの司令部を襲うか。
どうすれば。どうすれば。どうすれば。『歩兵 騎兵 平地 勝つ方法』――って、ググらせてくれない? 駄目ですか。そうですか。司令部からの伝令とか来ないか。来ないよね。それに割ける人材すらいないからこその音楽だもんね。相手にお願いしてみようかな、もう、こうなったらさ。参謀を分けてくれませんかって。
僕は及び腰になった。一歩、後退った。後ろにいた兵とぶつかった。振り向く。NPCは精巧にできている。彼の喉仏が上に移動した。喉の皮膚が伸び縮みして突っ張る。シワの位置が変わる。かと思うと急速度で下に落ちた。彼の生唾を飲む音は大きかった。彼は崩れかける表情を危ういところで律していた。僕はハハハと乾いた笑いを浮かべた。精神のではなくて肉体の腰が抜けるのがわかった。僕はその場に崩折れそうになった。これで終わりだと思った。僕が地面に膝を突けば全ての兵の士気が消え失せる。
そのとき、僕はみた。





