8章12話(浜千鳥)
僕はどうしてここにいるんだろう? たった数十メートル先では味方の第一戦列と敵左翼が死闘を繰り広げている。なんだか他人事のように感じられた。コッチはそれほど執拗に砲で叩かれなかったからだろうか。そういえばなんで砲弾がそんなに飛んでこなかったんだろう。あ、第一戦列が崩れれば、彼らの潰走に僕らも芋蔓式に巻き込まれるからか。巻き込まれなかったとしても当分は戦場が渋滞して前進できなくなるもんな。ははあ。
――――浜千鳥家は裕福ではない。かといって貧乏でもない。現代、消滅したといわれる中間所得層だ。だから生活苦なるものを感じたことはない。とりあえず日々の糧と貯蓄などに困ってはいない。ウチの両親が優しくて誠実な裏切り者でなければそのはずだ。
勉強は、それはできない。難しいから。嫌いだから。自分で何もせずにできなくなってるんだから、おい、この低学歴野郎と、そう揶揄されても反論できないんじゃないかな。僕はそう考えている。両親はそんな僕に呆れる。叱ることもある。でも、一度たりとも暴力を振るったり見捨てようとしたことはない。
僕は両親の愛情たっぷりに育った。そのせいでこんな風になったという勇気はないけれど、人格形成に影響はあったとは感じている。
両親だけではない。嫌なヤツもいるよ。とても酷いことも目にしてきたよ。虐められもしたさ。でも、僕は、世の中には良いヤツだって素晴らしい出来事だって、数多いことを知っている。程度の差なのかもしれない。僕の知っている最高に嫌なヤツより、僕の知っている最低に酷いことより、もっとずっとアレなアレと接してきた人たちからすれば、この世は掃き溜めなのかもしれない。そうして、そういう人が、いまのご時世、四方山に、それこそ掃いて捨てるほどいるってことなのかもしれない。僕の考えなんて恵まれた人間の戯言なのかもしれない。
だとしてもだ。
僕はこのゲームをお金のためでない、反骨心故でもない、目立ちたいからでもない、みんながやっているからという理由で始めた。才能もない。大隊長になれたのは奇跡だ。いま、一瞬だけど経験がないわけではないからとかいう理由で連隊長を押し付けられているのは何かの冗談だろう。
そういう、こんなところまでさ、周りが行くからってホイホイ着いてきた僕がこんなことを言うのは恐縮なんだけどさ、世の中ってそんなに愚かなの? なんでみんなそんなに高学歴がとか低学歴がとか啀み合うんだ。悪い面にばかり着目するんだ。否、悪い面にも着目しなければならないのはわかるよ。でもそればかりに目が行くのってさ。どうなんだろうね。もっと他に建設的な生き方があるっていうかさ。わからない。僕にわかるのは――
「連隊長」士官不足から副官を兼ねる漆原君が僕の耳元で言った。どすの利いた声だった。僕は頓珍漢な悲鳴をあげた。
「なにを惚けとるんです」漆原君は人前でなければ肩を落としそうだった。「第一戦列の奴らがあれだけ頑張ってんですよ。自分たちも仕事をせにゃ。どら、音楽が聴こえていますか? たったいま演目が変わったところですよ」
「あ――ああ、あぁ、ああ……。ごめん。ええと」
それにしても左右来宮さんは凄いことを思い付いたものだ。オーケストラだよ。ホンモノのそれを連れてきたんだ。野外にピアノまで持ち出すのはどうかと思うけれど、五五人の演奏は最大ニキロほど届く便利な簡易伝令だ。(空気がいまより乾燥していて、地形が谷に近くて、夜に近ければ近いほど、この距離は伸びるそうだ。凄いね)
尤も、いまその音量は低下しつつある。砲で撃たれたんだから演奏中止になりそうなものなのに、続いているだけ御の字というべきかな。第一戦列と敵との戦場音楽――蛮声や銃声や相手の鼓笛――のためにかなり聴き取り難いけれど、耳を澄まして、瓶と紙と布でそれらしく造った集音器を使えば、なんとなく、聴こえないわけではない。
オーケストラの演奏は僕のお母さんの世代に流行したサイバーでテクノな曲に移行していた。演奏ペースは通常より些か速い。結構な演奏技術だ。これでコンクールとかどこにも引っかからなかったって、音楽の世界って厳しいんだな?
「騎兵が来る。僕らの右側面を取るつもりらしい」懐から取り出した戦術書と音楽を徴して僕は戦慄した。一秒前までのどこか楽観的な傍観者気分は地の果てに消えていた。
「便利な発明です」漆原君は周囲に首を巡らせた。戦列のどこにも綻びはなかった。それだけ下士官の数が多いのだった。サトー時代から一貫してアメリア大陸の軍隊は連隊横列による戦闘を続けてきた。大隊ごとに行動させるにはその監督者が量的にも質的にも不十分だったからだ。しかし、今後は事情が変わってくるかもしれない。より機動力が物を言う時代が始まろうとしているのだろうか。
「敵騎兵が何処から来るか。それがわからないばかりに奇襲を受けて殲滅された戦列歩兵の、過去、どれぐらいあることでしょうかね。前線からでは見えない敵も後方の司令部が見つけてくれる。その大雑把な位置を教えてくれる。対処方針もね。浜千鳥さん、アンタ、落ち着いてその命令に従えばいいんだ。そんなにブルってると兵が不安がりますから」
「対処方針があったとてさ、それを実施するのはまた別の困難だからね。僕には難しいことはわからないし。中隊長になれたのも君と芝村君が引き立ててくれたからじゃないか」
言いながら僕はコレが僕の限界だなと悟っている。僕には人前でそれらしい演技をすることがどうしてもできない。赤面して震えてしまってという時代は流石にもう通り越した。けれども、キリッとして、ズバッとして、シャンとしているのは不可能だ。
漆原君は僕の背を叩いた。気合を入れてくれたつもりらしい。せめてこれには応えなければ。僕は頭の中で僕のしなければいけないことを整理した。
騎兵に対して歩兵が取れる唯一の有効的防御策、それが方陣だ。部隊を四角く配置する。どの方向から攻撃を受けても安心で安全だ。おっと砲撃は勘弁ね。
馬は本能的に尖ったもの、自分よりも大きいもの、そういうものを怖がる。銃剣を装着したマスケット銃は銃というよりも長槍であるから、方陣を組んだとき、兵は必然的に槍衾を構築することになり、それで騎兵突撃を阻止できる――という寸法であった。
無論、騎馬突撃に対して方陣を組むというのは典型的なセオリー、敵も敵で何らかの対策を練ってきているだろう。
ただ、昨日の夜ぐらいまでだろうか、兵站状態がとんでもなかった敵軍の馬は兵尠からず疲弊している。一日や二日の飽食で強行軍の疲れはチャラにできない。ので、僕の指揮するガバガバな方陣でも、多分、きっと、恐らく、そうであって欲しい、敵の攻撃にも耐えきれるはずだ。もし手に余れば? そのときは音楽で与えれた指示に唯々諾々と従えればよろしい。うん。そのはずだ。
問題になるのは方陣を組むタイミングだ。敵騎兵はまだ姿を見せない。隊形変更は早過ぎても遅過ぎてもいけない。早過ぎれば敵が別の手を打ってくる。遅過ぎれば敵の攻撃に対応できない。でも平気だ。そのタイミングについても司令部からの音楽伝令が――
僕は敵司令部の方をキッと睨んだ。我ながら素早かった。柄にもない。敵司令部の後方で白煙が立ち籠めている。一拍子、遅れてあの間抜けで恐ろしい音が僕らの方へやってきた。まさか。夏川さんほどの人が味方に当たるかもしれない砲撃を?
違っていた。その砲撃は僕らの頭上を悠々と通り越して後方へ落ちていった。後方へ。楽団のところへ。音楽が酷く乱れた。
榴弾だった。そこまでするかと思った。爆発が起きた。オーケストラの居たところに黒煙が立ち籠めた。その黒煙を突き破って高々と人の手足や楽器の破片が打ち上げられた。炎を纏ったそれらは自らもまた黒い煙の尾を空に描きながらどこかへ吹っ飛んでいった。
音楽が途絶えた。僕は唖然とした。なにをどこでどうすればいいのかコレでわからなくなった。





