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8章11話(冬景色)/『話そうとは思ったんだよ。でも』と、彼女は言った。

 夏川旅団長の顔から――元から濃くない――血の気が引いた。


「耐えた?」と彼女は呟いた。


「耐えましたね」と私はそれが質問でないことを承知していながらも答えた。それが作戦参謀としての職責のひとつであると自任していたからである。戦場において何が最も不幸なことか。主体と立場によって異なるが、それが参謀である場合、自失した司令官に奉仕せねばならないことであるのは経験上、疑いない。


「計算では――」


 急拵えのため大して広くない司令部テント内である。我々の直ぐ傍で仕事をしていた砲兵課長(といっても砲兵課の構成員は四人である)が可搬式の椅子から腰をあげた。弁解がましく呻く。「――榴散弾に耐えられたとしてもとても榴弾には。そのはずでした。まさかあそこまで士気が高いとは。想定外です」


 私は咳払いをした。夏川旅団長の表情が曇っていることに気が付いたからだった。砲兵課長も私の咳払いでそれに気が付いた。彼はそっと自分の席へ戻った。旅団長はおよそこの手の言訳を嫌う人であった。左右来宮師団長と似ている。『最終的にそれでいいと計画にゴーを出したのは私です。失敗しても責任を取るのは私ですよ、冬景色さん』


「旅団長」私はあの人にであれば殺されても文句は言えないと考えながら進言した。「左翼は怯えています。このまま戦闘が続けば」


「諒解しているわ」夏川旅団長は既に自分を取り戻していた。彼女が取り乱せば司令部内全体が取り乱す。なるほど彼女は馬鹿ではない。


「主席副官。騎兵宛に伝令分を作成。内容。貴大隊は即座に出撃。攻撃目標は敵右翼第ニ戦列。攻撃角度や配置などは作戦案イの六号を参照すること。第一戦列についてはコレを無視して構わない。敵砲に注意。なお、敵騎兵によるカウンター・チャージはまずないものと推定されるが、これも注意は怠らないこと。以上」


 敵の第一戦列を攻撃させないのは流石であった。無能であればそうする。有能でも焦っていればそうするだろう。


 現在、敵の第一戦列は我が左翼と射撃戦を展開している。塹壕戦でもないからにはその決着は直ぐに着く。恐らくは我が左翼の敗北という形で。そうなれば後は銃剣による白兵だ。乱戦になる。その乱戦でも多分、我が軍は敗北する。左翼が突破される。突破されれば? 敵はこの司令部を目指して突撃をしかけてくる。会戦全体で負ける。


 ただし、我が左翼戦列との戦闘を終えた敵第一戦列もまた無傷では済まない。そのはずだ。それに、いまでこそ混乱しているが、我が左翼も直ぐに立ち直るだろう。立ち直れば憤る。低学歴にやられるものかと。そして激しく抵抗する。第ニ戦列さえ潰しておけば敵は左翼を潰したところで攻勢の限界点を迎える。で、なくともかなりの時間が稼げる。その間に我が軍の右翼で敵右翼を突破してしまえばいい。(またそもそも、敵味方が入り乱れている乱戦下に騎兵を突っ込ませることはできない)


 ――そう見積もっていた。甘かった。敵左翼第一戦列で動きがあったのは主席副官が伝令文を書き終えたのとほぼ同時であった。


 敵の第一戦列を構成する連隊横列、その中央に陣取っていた大隊の各所からチョコマカと、何十人かの兵が躍り出た。否、それはあくまでも第一陣だった。また別の大隊から別の何十人かが躍り出た。また別の。更に別の。最終的に中隊程度の敵が敵味方の間に挟まれる形となった。


 戦慄した。そう来たか。その可能性は考えていなかった。私は柄にもなく声を失った。夏川旅団長が伝令に「急げ」と怒鳴った。


 散兵である。


 原理は単純だ。兵を数名ずつ、多くとも十数人ごとの小集団に分散させて敵戦列に相対させる。小集団は敵戦列の弱点――指揮官を狙うわけにはいかないから指揮官のいそうな辺り――を集中して攻撃する。いちど攻撃するごとに移動する。その際、集団は図体が小さいので、戦列に比べて遥かに素早く移動できる。どのぐらい速いか。端的に述べるのであれば彼らは走れる。


 マスケット銃は引き金を引いてから弾が出るまで、火薬が燃え始めるまでに掛かる時間と銃そのものの構造の関係上、数秒のタイムラグがある。走っている目標にはまず当たらない。しかも、我が戦列は散兵と戦う訓練などしたことがない。兵も下士官も将校も散らばる敵を相手にどう戦えばいいか分からずにいる。火力を一点に集中できない戦列の攻撃力は驚くほど低い。


 私は望遠鏡を使って左翼の敵情をつぶさに観察した。散兵戦闘を指揮している男は円筒帽を被っていなかった。代わりにその頭からはリーゼントが天を突いていた。


 そうだ。投木原か。そういえば彼らはニ〇〇名、全員がプレイヤーだったな。最初から固めておくとコチラに意図がバレるから。それで戦列の中に隠していたか。


 嫌々で徴兵された兵に比べてやる気が漲っている。逃げない。小集団に分かれても敵のどこを攻撃するべきかまずまず判断できている。判断と言えば、分散した部隊間の間隔の取り方、集合、離散、そういうタイミングも自分たちで行える。


 サトーの故事だな。私は確信した。着想をそこから得たに違いない。


 戦列歩兵は隊列を組むのにも維持するのにも厳しい上下関係を必要とする。


 で、あるからこそ、サトーは最初に七導館々々高校に――不良の巣窟と呼ばれた高校へ最初の協力を仰いだのだ。不良集団における上下関係は軍隊におけるそれとは性質を異にするものの、強固であるという点において変わりはない。また、戦列を維持するための見栄、意地、そういうものにも事欠かない。


 左右来宮師団長の場合はどうか。彼らの上下関係に加えて彼らの組織まで利用したのだ。


 ニ〇〇名からなる投木原のチームは言ってしまえば小集団の連合体であった。ある地区の中学校から進学してきたA集団、県外からやってきたB集団、そういったものを武力とカリスマによって統一していたのが投木原というだけに過ぎない。集団ごとのリーダーはあくまでも別にいる。そのリーダーたちは少なからず頭がキレる。


 だから、その集団をそのまま散兵戦のときの集団にしてしまえばいい。クレバーだ。パーフェクトだ。やられたという他にない。我が左翼は予想よりも早く崩れるかもしれない。


 とはいえ疑問であった。如何に相手が未知の戦法を使うとはいえ、その数はたかが一個中隊、左翼戦列は何を手間取って――ああ、いや、いや、待て、私も落ち着かねば。落ち着いて考えれば簡単なことだ。だから下士官だ。ここでも下士官だ。それに下級士官だ。それらが少ないからだ。昨日まで参謀だの憲兵だのをやっていた連中を、基礎を知っているからという理由で中隊長や大隊長に据えている我が軍である。狼狽の度合いが正規の編成時に比べて遥かに深刻なのであろう。


 あ、――唐突に私の脳内でパズルが組み上がった。私はその検証のため敵の様子をもういちど検めた。確証をもった。


 敵が我が軍の陣容、殊に下士官不足などの情報を得たのは我が軍がこの場に布陣を終えてからで相違ない。我が軍はずっと敵に情報を与えないように行動していたのだからこの点については間違いがない。(情報部が自分たちのメンツのために報告を偽っているのでなければ)


 で、あるからには、敵が散兵戦術の採用を決意したのはつい先程ということになる。元より直ぐ採用できるように事前計画は練ってあろうとも。しかし、情報不足である以上、その計画が正確であったとは言えないはずだ。実際、投木原らの行動は速度その他の点において決して悪くないが、効果的とはいえない。例えば指揮官の優先順位にムラがある。連隊長を狙うべき場面で大隊長を射撃したりしている。しかも、走っては止まって、止まっては走って、そういうことをしているからほとんど命中弾がでていない。


 加えて考察するに、彼らは散兵戦術だけを目的とした訓練を受けていないのではないか?


 いつかどこかで試してみるのもいいかもしれないぐらいの計画で、あくまでも左右来宮師団長の私兵、護衛部隊、そのための訓練と並行して散兵の練習を積んでいたのではないか。どうもそれらしくある。もし散兵を最初から想定して編成されたのであれば、今頃、我が左翼の指揮官は鏖殺されていておかしくない。


 ならばなんとでもなる。アレは我が戦列をただただ混乱させるためだけに繰り広げられている、いわば茶番劇なのだ。付き合わねばそれでいい。無視して敵戦列とだけ戦えばいい。一応、指揮官らは後方へ下げさせながら。


 大事なのは結果なのだ。過程ではない。いま負けていても最終的に全体で勝てばいい。そのためにはまず味方の混乱を宥めねばならない。それから戦うべき相手を明確にしてやる。それだけでいい。


 問題はここでも時間だ。私の助言が前線に届くまでに乱戦状態に入ってしまわないか。急がねばならない。


 急がねばならない? なぜ急ぐのだ、と、私はふと疑問に思った。当然だろう。急がねば負けるからだ。なぜ負けてはならないのだ。まさか夏川のためではあるまい。会長のためでもあるまい。名を上げるためでもあるまい。――〆嘉のためだ。私の能力を示せば彼女が振り向くのではないかと。


 何を馬鹿な。唾棄すべき輩ではないか、私は。


 私はたかが添え物なのだ。彼女に相応しいのは剣橋だ。知れたことだ。そうだ。それはもう出た結果なのだ。そうだ。大事なのは、――そう、大事なのは過程ではない。結果なのだ。剣橋がいま彼女のそばにいて、私はここにいて、それなのだ。


 無論、わかっていたところで彼女を諦めることも忘れることもできはしない。


 そして、諦めることも忘れることもできないことを諦めよう忘れようと思うことほど辛いことはない。わかっているはずだというのに。


「夏川旅団長」と私は呼びかけた。彼女は私の助言を躊躇なく用いた。彼女ならそうすることはわかっていた。こういうところでも彼女は無能ではない。無能者は他人の助言を否定と勘違いする。


 即座に伝令が出された。戦列が崩壊するのが先か伝令が届くのか先かは微妙なところだった。敵第二戦列に向けて突撃するべき我が軍の騎馬が配置に着きつつあった。今後の戦闘を有利に進めるべく私は部下たちに矢継ぎ早の命令を出していた。万が一、我が戦列が崩れたときはどうするか。戦列を保てたときはどうするか。彼らは必死で働いた。


 やがて、――彼らの労働の成果が猛スピードで提出されてくるのを整理しながら、夏川旅団長はまさに左右来宮師団長的な決断を下す。

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