8章10話(投木原)/どんなときも
敢然と振る舞わねばならない。事実、そうしている。少なくともそうしているつもりではある。胸を張って歩いている。歩幅がズレないように常に気にしている。飲みたい生唾も飲み干さない。口の中に無限にツバが湧き上がって来るのに、――なァ、どうしてこんなに喉が乾くんだ? 手の汗がヤベェよ。足の汗もヤベェよ。背中と額の汗もヤベェよ。目に入って痛ェよ。チビッちまいそうだぜ。畜生、楽しいな。
「投木原さん」肩の触れ合いそうな距離を並んで歩く一年坊が正面を向いたまま言った。「ちーっと怖いスね」
「莫迦野郎」オレは気を抜けばガチガチ鳴りかねない歯を剥き出しにした。オレたちは連隊横列の二列目にいた。
「怖くなんかねェーよ」
「そう。――そうスね」
「そうだよ」
「そうスね」
「ンだよ。そうだよ」
ハーッ、と、一年坊は深くて長い溜息を吐いた。目に涙を滲ませながらボヤいた。「ヒッヒッヒッ、怖ええええぇ……!」
つい釣りこまれた。オレもヒッヒッヒッと笑った。連隊横列の各所でこのヒッヒッヒッが木霊した。連隊長によれば敵味方の距離は間もなく一キロを割ろうとしているらしかった。そろそろ砲撃が始まる。オレはヒッヒッヒッ笑いのどさくさに紛れて生唾を飲み込んだ。丹田に力を入れる。熱い息を吐く。ふと疑問に思う。向こうの敵もいまのオレと同じようにビビッてんのか? ビビッてろよ。頼むからビビッてろよ、コラ。おいコラ。おい。
遠く、敵の司令部の置かれている丘の更に向こうで、シャンパンの栓を抜いたときのような音が幾つも響いた。丘周辺にとんでもない量の白煙が吹き出た。きやがったなとオレは舌舐めずりをした。強がりだった。逃げ出したくてたまらない衝動に駆られた。逃げ場など何処にもなかった。だからただ前へ前へ歩き続けた。
綺麗な放物線を描いて――そして間抜けな音と共に――飛来した砲弾がオレたちの頭上で弾けた。目を瞑るべきか。瞑らないべきか。それが問題だ。瞑らなかった。
まず鼓膜が痛いほど痺れた。無理もない。すぐ頭の上で花火が破裂したようなもんだ。三半規管が揺さぶられたのと衝撃波とで視界が前後左右に揺らぶられた。酷い頭痛がした。それでも立っていられたのはどうしてだ。奇跡だな。続いて鋭いものが周囲に降り注いだのがわかった。見えたのではない。感じたのだ。降り注ぐ物体の存在を――ではない。それはあんまりにも速すぎたんで知覚できなかった。
オレが感じたのは肩だの背中だのにぶっかかる生暖かい液体、それと頬にぶちあたる骨の破片の硬さ、それと人間の体が裂けたときに発せられる、あの酸っぱい、腐ったようなニオイだった。全て隣の一年坊から出たものだった。というよりも、一年坊だったものから出たものだった。
ゲロをぶちまけるかと思った。むしろその瞬間、オレは恐怖を忘れた。視界が狭くなった。ここから逃げられるなら何でもすると思った。前進を続けた。続けられた。
二発目が来た。オレの前を歩いていた奴の頭部がスイカ割りみたいに爆ぜた。マジでスイカ割みたいだったぜ。パァーンってな。頭がまず膨らむんだよ。横に。潰れるみたいに。それから爆ぜるんだ。中から爆ぜるんだ。降ってきた金属片が頭蓋骨を叩き割って、脳味噌を突き破って、その運動エネルギーでな? あと、圧力も関係しているらしいぜ。頭蓋内圧な。それが急に高まるから頭の爆ぜる前に目玉がな、歩いてる方向に向けてよ、こう、弾丸みたいに吹っ飛んでくんだ。
凄かった。血飛沫が視界を埋め尽くした。その飛沫のひとつひとつが正確に目で捉えられた。走馬灯ってやつかなと思った。
頭部だけではない。雨のように、というよりも雨そのもの、時速何百キロだかで降り注ぐ尖った金属の破片、それらが接触した箇所は容赦なく切断された。
ある野郎は肩に人指し指ぐらいの金属片が突き刺さった。なんてことはなさそうに思うだろ。でも、奴の肩から先、腕も含めて、それは体からぶっちぎれてどこかへ飛んでいっちまった。足に当たった奴はどうだ。腹に食らった奴はどうだ。破片の幾つかは粉みたいなサイズにまで砕けている。それが目に入った奴はどうだ。ガラスの破片を目に入れられるよりもずっと痛いぜ。血の涙を流してた。
たかだかニだか三だか四だか五だか――ニまでは数えていた。その後は数える余裕がなかった。ションベンを漏らしてたしな――の榴散弾を食らっただけでコレだ。砲ってのはマジで怖いな。右でも左でも前でも後ろでも誰かが死んでる。モツをぶちまけてる。無くなった手足を探してる。仲間に助けを求めてる。負傷した奴はみんなが悲鳴をあげていた。
生きてる奴だってろくでもない。その場に屈み込んでブツブツ言い始めた奴がいる。それを下士官がぶん殴って列に戻す。仲間のところへ行こうとした奴も同じような目に遭う。意味不明なことをブツブツと呟く奴らもいた。無論、冷静であるべしと定められている指揮官の中にも頭のどうにかしちまう奴がいる。中にはゲームを終えてからもしばらくクルクルパーになる奴がいるらしいぜ。
地獄絵図だ。地獄絵図だよ。ハッハッハッ。こうでなけりゃあな。こうでいこう。これがいい。戦列歩兵だ。
櫛で喩えるならば、――砲撃によって歯の抜けてしまったような部分、そこを生きている連中が士官と下士官の主導で必死に埋める。オレもそうした。前の奴の死体を踏み越えて最前列へ。オレの後ろは三列目の奴が前に出て埋める。もしもオレが死んだら後ろの奴が今度はオレの背を踏んで最前列に。そいつも死んだ日には第ニ戦列(この連隊横列の後ろの連隊横列)の先頭が前に出る。
榴散弾が榴弾に切り替わった。来いよと思う。どんどん来いよ。もうマジで怖くなんてねェぞ。
そう思ったとき、オレの直ぐ目の前に榴弾が降ってきた。反射的に伏せそうになるのを気合で捻じ伏せた。続けてオレの背後にも榴弾が落ちたらしい。第ニ戦列の方か。爆発が起きた。辺りが黒煙に包まれた。爆風がオレの体を乱暴に揺さぶった。熱かった。目を開けていられなかった。皮膚が灼熱した。自慢の髪の毛がチリチリになった。音らしい音は何も聴こえなくなった。耳鳴りがする。爆発で空に舞い上がった大量の土砂と芝生とが横殴りにオレの体を叩いた。
気が付くと大きく右に倒れかかっていた。隣のやつが押し返してきた。左に体がブレた。左のやつが押し返してきた。ドミノ倒しになるところだった。オレは軍靴の中で爪先を強く丸めるように曲げた。靴越しに踵で地面を踏みしめた。倒れずに済んだ。何時の間にか噛み締めていた下唇から血が出た。不思議と鉄の味を感じなかった。
榴弾は次々と着弾する。前が見えない。隣の奴の顔すら見えない。草花と人の肉と血の沸騰したり焦げたりするニオイがした。幹を砲弾でへし折られた木が前触れもなくオレの直ぐ真横に倒れ込んできた。仲間がそれに押し潰された。次に死ぬのが自分のでないことを祈ったり――すらしなくなった。無心で前へ。前へ。前へ。自分が本当に生きているかどうかすらどうでもよくなってくる。この、僅か、数百メートルを進んでいるだけで、オレは今日まで生きてきた一七年の月日の何倍かの体感時間を得た。何もかもがゆっくりと進行した。
唯一、疲れだけは無性に感じた。砲撃を受けていたのは一〇分間にも満たないはずだが、まるで何日もこうしているかのように、オレの手足は痺れた。どうして銃を持ち続けることができたのだろう。それぐらいオレの手足はこの熱風の中で冷え切った。
だが、やがてその手足から奇妙なまでの活力が涌いてきて、体の末端から中央に向けて、異常な熱っぽさが充満してくるのがわかると、――
「――――――。」
ふと聴力だけが戻った。オレは自分がイカれちまったのかと疑った。そうではなかった。これは現実だった。榴弾に叩きのめされながら連隊横列を組んだ仲間たちは一様に口ずさんでいた。それは歌だった。古い歌だった。オレたちの後方で軍楽隊が演奏を続けているはずの、大昔のヒット曲だった。およそこの場には似つかわしくない爽やかな曲だった。青春を閉じ込めたような歌詞だった。当然、オレもそれを大声で歌った。音程など気にする必要はなかった。これで今度こそオレたちは真実の意味で恐怖を忘れた。だから砲撃は間もなく終わった。今度の体感は数秒だった。
黒煙を抜けた。オレたちは五感を取り戻した。再び戦列を整理しながら敵の状態を確認する。
敵はニ〇〇メートルほど先だった。アチラもアチラで榴弾と円弾で叩かれたはずだが、やはり、コチラほどの損害は出ていない。砲の絶対数の差だろう。
それでも奴らは色めき立っているように感じられた。コチラに向けて防御射撃を開始しようとしている。
「連隊!」自ら最前列を歩いていた連隊長が叫んだ。怒鳴るのではない。指揮官らしい毅然とした態度を彼はこの状態ですら保っていた。格好いいじゃねェか。
「怯むなよ。怯むなよ。怯んでくれるなよ。音楽は――司令部からの指示は変わっていない。予定通り、決戦距離まで前進を続ける! 弾丸に当たるぐらいどうした! 当たりに行け! いっそ当たりに行け! 砲弾に比べればあんなもんなんでもないぞ! 腹をえぐられたって構うな。足をもがれても構うな。金玉をぶちぬかれてもだ。進め。進むぞ。前進する! 前進する! 前進する! 低学歴の意地を見せろォッ!」
なおも毅然と叫んだ連隊長に全兵員が応と叫び返した。どいつもこいつも薄汚れた格好だった。だが、ツッパっていた。ツッパってるぜ。最高にツッぱってる。さっきとは違う意味で漏らしちまいそうだった。
敵が射撃を開始した。オレたちの戦列の何箇所かで味方が倒れた。中にはオレのチームの奴もいた。奴はナナハンをぶちこまれたときよりも痛ェと悲鳴をあげた。そんなか。そんな痛みか。よし。それぐらいの痛みならもし当たっても耐えられる。多分、ウチの親父のゲンコツの方が痛い。心が籠もってる分、その方が痛い。絶対に痛い。『いつまでこんな莫迦な暮らしをしてるつもりだ、春純! 家のことだの人様に迷惑を掛けるだの、ンなことはどうだっていい。お前の人生を何時まで棒に振るつもりなんだとオレは尋ねてるんだ。いいか、マイナスになるな。プラスの人生を歩むのは難しい。それでもマイナスになるな。後から振り返って後悔のある人生は送るな。いいか。いいか。他人と喧嘩やって、バイクで暴走して、それが本当にお前のやりたいことなら好きにしろ。止めん。本気で止めん。どっかで誰かに刺されて勝手にくたばればいいさね。だが、そうじゃないだろ。そうじゃないと思うからオレはこんなことをしてんだ』
ま、その親父はもうとっくに癌で逝っちまったもんで、二度とあのゲンコツを見舞われることはねェよ。それでも、いまでも、くっきりと、そう、思い出せるぐらいあのゲンコツは痛かった。痛かったな。痛かったからこそわかった。痛かったからこそ変われた。暴力で躾けなんていまどき前時代的だなんだって言う奴も居たさ、え? それはな。伝統墨守主義者の親父を罵る奴もいた。
で? 暴力と伝統の何が悪いってんだ?
暴力でしかわからねェ馬鹿もいるんだ。伝統的な――男は拳で躾けるっていう、それでないと通用しねェ馬鹿もいるんだ。オレみたいに。オレみたいな。何事にも長所と短所がある。向いてる奴に向いている方法を。それだけのことだ。
そう、向いている奴に向いている方法を。それだけのことだ。――ヒッヒッヒッ。
敵は射撃を一度、行うごとに動揺の色を濃くした。射撃間隔がどんどん開く。精度が悪くなる。その間にオレたちは敵前五〇メートルまで近付いた。楽団の演奏している音楽が――音量が小さくなっているが――切り替わったのがわかった。そうだな。まさにそうだ。これも良い歌だ。オレたちがオレたちらしくあるために。やってやろうじゃねェか。ここからが本番だ。
「投木原中隊」右肩に弾丸を見舞われながらもココまで指揮を続けてきた連隊長が唸った。丸顔に髭面の奴は手にしたサーベルを振り上げた。「前へ!」
「投木原中隊ッ、前へッ!」オレは怒鳴った。指揮官らしく毅然にというのはオレにはできなかった。それにしても中隊か。何人が残ってるかしらねェがね、え? やれるだけはやろうじゃねェか。ここまで来たんだからな。ここまで来たからには。
「野郎共、バラけろォッ! 不良学生の戦い方を教えてやれェッ!」





