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1章9話/いとも意志薄弱な笑われて然るべき男


「低学歴は全員」と、廊下で話している三年生の一団があった。


「殺処分にするべきだ。生きているだけで有害だからな。今朝も電車で痴漢を見たが、あれ、どう観察しても低学歴の人相だったしなあ。ああ、でも最後の低学歴だけはツガイで保存するべきか? 絶滅するのは不味いからな」


「そんなことはねえって。前に話したあの高校を覚えてるだろ。あそこ、今度、海外に研修旅行に行くらしい。生意気だな」


「確かに生意気だな。でも、海外へ行ってもどうせ病気を移されて帰ってくるさ」


「ありそうな話だぜ。低学歴だからな。どうせどこへ行っても()()()()は決まってる。帰国する前に全員がくたばればいいんだがよ」


「いや、帰国してから死んだ方が世間のためだ。絶対に。わかるか? アイツらの家族も同罪だからだよ。低学歴を生み出して平然としてる馬鹿親とかな。ソイツらにも病気を移してから死んで欲しいね。――と、おい、お前ら、お下品なお話はここまでにしよう。兵站部長殿のお出ましだ」


 己を見つけた一人がこれみよがしに言った。以前、同じ部署で仕事をしていた何とかとかいう大男だった。奴と話していた全員が嫌味っぽく背筋を正した。

 

 奴は、奴らの隣を抜けて行こうとした己へ向けて敬礼するなり、


「よう」


 わざとらしくハッとした。「でなかった、いまはアナタの方が上の役職でしたね。すみませんでした。おはようございます、左右来宮さん。今日は雨で嫌ですね。いや、兵站部長殿にとっては何時だって我が世の春の青空ですか?」


 適当にあしらった。『冗談じゃないですか』という態度の相手に本気になったところで得るものは何もない。無礼だ、と、学閥内の自治機構に告発する気もなかった。精々、記録に残らない注意がされる程度だろうし、大体、この程度のことを不愉快がっていては身が持たない。人生、前向きな諦めは――なにをどうしてもどうにもならないことは多い――必要である。己がその場を離れると連中はわざと大きな声で囃した。「クールぶりやがって。妹を売って得た立場で何をふんぞり返ってんだか」


 己は隠れるように非常階段へ入った。購買部で仕入れた煙草の封を切る。


 そもそも己はアイツらを批判できないと考えていた。アイツらの会話で不愉快がる資格もない。低学歴への差別や他者への悪感情、皮肉、嫌味、暴力的な衝動、そういったものは己の心の底にもベットリと根を張っているからだ。人を傷付けたことのない者だけが石を投げなさい。いいね。


「先輩」


 飛び上がりかけた。いつの間にか非常灯だけで照らされる踊り場に古が来ていた。お前はなんでそう気配を殺すのが上手なんだ。


「またココで御煙草ですか」


「別にいいだろう。法律に違反しているわけでもない」


 誠に我が国はどうでもいいことしか改めない。煙草と酒とは一八年前、惨憺たる投票率を嘆いた時の内閣がそれを改善すべく行った法改正で一六歳から段階的に解禁されることになっていた。『ホラ、お前ら若年層の望み通りにしてやったから選挙に関心を持ってね。――畜生、なんでこうなるんだ!』


「せめて喫煙室に行かれては」


「それで煙草以外の煙にも巻かれろと? ご免だ。一服ぐらい好きにさせてくれ。いまのところ、これだけが息抜きなんだ」


「そのうち肺癌になりますよ。いまから生命保険を契約して参りましょうか。受取人は妹さんで」


「古」己は彼女の名前を舌先で転がした。「抜かしたな? 先輩を敬わない後輩は食事へ連れて行ってやる」


「お仕事はよろしいのですか」古は溜息を吐いた。


「大いによろしいよ。いまは気分が沈んでいる。お前に弄ばれてもっと沈んだ。責任を取れ。奢るから。どうせこのコンディションでやっても意味がない」


 己が古を連れ込んだのはかねて訪れてみようと思いながら果たせなかった店である。一歩、入ってみるとおよそトヲキョヲとは信じられないうらぶれた路地裏に位置していながら、そのレンガ造りを模した店構えが瀟洒である。店内もシックに纏まっていた。己たちはボックス席のひとつを占めた。クッションの柔らかさは庶務向けで適切だった。なんだか安心した。


 ただ、ゴミ捨て場に住み着いている痩せたホームレスだけは通報してやったほうがいいと思う。その方が彼のためになる。


「動員が掛かってからもう一週間ですね」


 店のオバサンが運んできたメニューに目を通していると古が言った。ところで、古のこの編み込みハーフアップはセットするのにどれぐらいの手間暇が掛かるのだろうか。「私は初めてなので困惑することが多いです」


「一五年ぶりの大会戦だぞ。いつもの、一個連隊程度の小競り合いとは訳が違う。保有戦力の七割、四万だかを動員しようってんだからな。長く準備してきたとはいえ兵站部の負担が大きいのは避けられない。大体、一年生はその一年をまるごと研修に使うのが普通なんだ。お前はよくやってる。――何にするか決まったか?」


「オムライスで」ということだった。可愛いな。己は己で興味あるメニューを見付けていた。カツカレーうどん定食だ。コレっていうのは、アレか、カツカレーとうどんなのか? カツとカレーうどんなのか?


「先輩」古は手でオバサンを呼びながら呼んだ。「でもアレで本当によろしかったのですか」


 注文を済ませる。己はこの話題をどうにかして有耶無耶にできないか考えてみた。できそうもなかった。できたとしてもやるのは卑怯だった。


「選択肢が他になかった。あの一個連隊で親会社の要求を満たせるなら、それは安いもんだ。それにキラー・エリートの連中は優先的に他ゲームへの斡旋を受けている。ゲーム・プロ互助会の失業手当申請についてもだ。アレはお前、受給できる確率が天文学的に低いことで有名――」


「ええ、その点はご立派です」古は己の話を遮った。


「アチコチからの悪評や批判も貴方は甘んじて受けられた。受けられています。しかし、そうではなくて、私が問題にしているのは妹さんなのです。一度、妹さんと話し合われたらどうですか。先輩は気に病んでらっしゃるのでしょう」


 己は舌打ちを我慢した。できたとしてもやるのは卑怯? 現にこうしてやっているじゃないか。こんな己のことなぞ龍の神様でも救わないだろうな。


 意味もなく店内を見渡す。少数の常連らしき中年客、推察するに、このご時世――この店に来るまでに何軒の空店舗だのテナントだのを見たことか。トヲキョヲの街もよほどの目貫通りでなければシャッター街に変わりつつある――でもこの店がやっていけている原動力であろう人々が、昼下がりのコーヒー・ブレイクを満喫中だ。


 どの顔にも悩みなんてこれっぽっちもないように見える。


 見えるだけだろうが、それでも、羨ましい。畜生め。己はなんて。


「いまから謝罪だのなんだのが出来ると思うか。妹と己は一〇年来の不仲だ」


「一時の我慢ですよ」


「確かにやってみようと思ったことはある」


「やってしまえばよろしいのです」


「人間がそう機械的(メカニック)自動的(オートマチック)に行くか。思っていることがストレートにやれるならば苦労はない。それができるなら全ての物語で悪役が勝ってしまう。夏休みの宿題を忘れる奴もいなくなるさ」


 建物の外、五月雨を集める樋の音に己はしばらく聞き惚れた。古は柑橘系の薫りがする紅茶を啜った。目を細めた。雨の勢いは少しずつ強まっていた。店の壁は色褪せており、そこを彩るポスターもまた色褪せており、長らく使われていないらしい、高いところに設置された扇風機のファンまで飴色だった。


 そういえば古の家庭環境はどうなのだろうか。己はこの二ヶ月間を鑑みた。新入生オリエンテーションで知り合って、爾来、激務のせいで己はコイツの素性をまだよく知らない。今後のためにも尋ねてみようか。不躾ではあるまいか。


 悩んでいるところにヒョッコリと顔を出した婆様がいた。あのねえと言ってくる。なんですかと古が応じた。己は会話権をぜんぜん彼女に委託することに決めた。


 婆様は「相席いいかしらあ」とニコヤカである。いいわけない。土台、己は老人が嫌いである。空席だって他にあるじゃないか。断れ。にべもなく断れ。己は美人後輩にそう念じたが、


「ええ。どうぞ」


 何故だ。己は煙草を吸いたくなったが、残念、トヲキョヲ都の飲食店はほぼ例外なく全面禁煙である。どうするんだ、え? どうするんだ、古、その婆様が凄腕のスリとかサイコパスの殺人鬼とかだったらば。


 婆様は己の心配をよそに息子自慢を始めた。微笑を浮かべて、古はそれに付き合ってやっている。


「私の子供もね、なにしろ晩婚だったから可愛がっちゃって、ちょうど貴方たちと同じ高校生なのよ。やっぱりゲームばかりしてるんですけどね。でも親孝行な子なのよ。ホラ、このブローチなんてウチの子がくれたんです。いつでも母さん、母さん、母さん、ってね。困るわあ、いつまでも子離れしないもんだから」


 姦しい――という字はなぜ女が三つ集まって出来上がるのか。その理由を己はなんとなく察した。二人でこれだ。もしここに妹でも居たらどうなるだろうか。考えたくもない。お冷ばかりを五杯も六杯も飲んでいるところへオバサンが料理を運んできた。


「あらあ!」オバサンは急に素頓狂な声を出した。「おばあちゃん、だから駄目だって言ってるでしょ? お客さんのところへ来たら」


 婆様は動じない。泰然自若そのもの、流石に戸惑っている古に話を続けている。オバサンの表情が曇った。懐かしい。ウチの母親がこういう表情をしたものだ。警察が来るのが日常茶飯事、救急車まで罷り越したことのある夫婦喧嘩を止めに入った婆様に対して。『お母さんは黙っててよ!』


 婆様か。己は感傷に浸った。ウチの婆様は魔女だった。己たち兄妹を育てた婆様はアイツばかりを可愛がった。暴力を振るうわけではなかった。食事を与えられないわけでもなかった。しかし、毎日のようにこう言った。『お前の顔はあの婿に似てるね。いまに何かするよ。その前にアタシが責任を取ろうかね。お前を育てた責任をね』


「いいですよ」己は無意識のうちに言った。「いいですよ。ここで、食べ終わるまで一緒でも。大変ですね」


 いやでもと食い下がるオバサンを己は口説き落とした。飯は鉛のような味がした。婆様は世界の終わるまで話を続けるつもりらしいかった。古は己の横顔に憂いの色を湛えた瞳を据えた。


 ――当時の己は何のつもりだったのか。あるとき、落ち込んでいる婆様を気紛れで慰めに行ったことがある。もしかすると褒めたりしてもらいたかったのかもしれない。だとすれば目論見通り、悄気げているときの婆様はしおらしく、


『お前は良い子だね』


 己の頭を撫でた。その、たったいちどの記憶が瞼の裏から消えない。ふとしたときに蘇る。嫌いなのにな。殺してやりたいぐらいに。くたばれババアと念じたところで、ああ、そうか、もうくたばってるのか。畜生め。己が殺してやりたかったのに。『左京、左京、お前、右京子にも優しくしてやるんだよ。アンタは優しい子なんだから。本当は優しい子なんだからね。ちゃんと面倒を見てやるんだよ。お前はお兄さんなんだからね』


 店を出るときオバサンに尋ねた。「あのお婆さんはご親戚ですか」


「そうよ。ねえ、ボケてるんです。どうにもならなくて。ごめんなさいね」


「いえ」そうでしょうねとは言えない。「でもいいですね、息子さんと仲がいいんでしょう」


「まさか」オバサンはせせら笑った。何かのスイッチが入ったようにも見受けられた。「いませんよ、息子さんなんか」


 己は面食らった。オバサンはここぞとばかりに続けた。「いえね? 昔は居たのよ。でも今は居ないの。愛想を吐かされて出てっちゃったんだから。それでボケてね、世話をする人がいないんですよ。引き取るしかなかったんです。全く、妄想の中で息子さんを可愛がったところでねえ。いまさら、過ぎたこととか起きてしまったことなんて取り返しがつかないのに。――あら、あたしったら。本当にごめんなさいね、こんな話をして」


 雨はいよいよ強まっている。己は傘を差すのが下手だからド派手に濡れた。路上喫煙禁止区域を無視して煙草を咥えた。吸う前から喉が痛かった。すれ違う人々は誰も彼もが疲れた顔をしていた。上司や部下の悪口を言っている昼下がりのサラリーマン、それが目立った。そして、彼らは傘を差すのが妙に巧かった。


 やめちまおう。古と並んで学校へ帰りながら己はそう決意した。そうだ。そうしよう。なんでいままでこんな辛くて不潔なことを好んでやっていたのか。いいことなどなにもないゲームだ。自分も対戦相手も妹すら不幸にする。それだけのゲームだ。


 手始めに煙草の箱を捨てることにする。まだ葛藤があった。学費はどうするのか。ゲームを辞めれば払えなくなるぞ。知ったことか。どうせ、このままゲームを続けても明るい未来などないのだ。クオリティ・オブ・ライフはどうした。だがお前の職責や部下たちはどうなる。知るものか。もうウンザリだ。自分のことしか考えていない連中など自分も含めてウンザリだ。


 己は公共ゴミ箱の前でソフト・ボックスを振りかざした。古が呆れている。構うものか。捨てよう。不条理にサヨナラを。無職生活にコンニチワしよう。


 よし、やるぞ。――最後にあと一本だけ吸ってから。いやいや、それではよくない。


 二本にしよう。それか三本でもいい。それだけ吸ったらやめるぞ。ガチで。


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