8章5話(会長)/グッド・バイのララバイを歌って
「わざわざのお出迎え、痛み入ります、会長」
左右来宮君は頭を垂れた。付添の甘木君――ではない――高望君も顰に倣った。その二人の周囲を一個分隊(一〇名)ほどの兵が取り囲んでいた。
私は軽く手を挙げて彼女らの礼儀に応じた。「よくもまあ敵の本陣などにやってこられるものだね、君。嫌味ではないよ。実に驚くべき胆力なのでね。感心しているのだ」
「なんというか」左右来宮君は周囲を見渡した。やはり丘の上に置かれた我々の司令部では定数を若干ながら割った要員が働いている。司令部を取り囲むように配置された護衛大隊の面々も同様だ。そして彼らは皆、働きながら、手隙になったとき、様々な意味で熱っぽい視線を左右来宮君へ射込んでいた。
「人気者になった気分ですね。さて、で、会長、私たちは一応、軍使ということになっていますから、それらしい真似をしてみようかと」
「伺おう」私は長い前髪の一部を指先に絡めて弄んだ。
「降伏についてです」
「ああ、――――それは重大な話だね、君! よく決断してくれた。ありがとう。本当にありがとう。いまなら過去のことは水に流せる。安心したまえ」
左右来宮君はニタニタと笑った。私もハハハと笑った。
「やはり無理ですか」左右来宮君はまあそうでしょうねという風だった。
「だとも。我々が君を追いかけ始めたとき、我がモヒートはまだあった。だがいまはどうだ。知っているかね。例の私が死んだという噂、君の決起が成功したという噂、いろいろな話が虚実かなり入り混じった結果、ライダーテーレではとんでもないことになっている。若菜君は第一旅団を使嗾してとんでもないことを始めた。それを制圧すべく第六と第七旅団が師を動かした。独自判断でね。かと思えば第七旅団長が欲を見せて第六旅団を後から撃った。ロホーヒルヒについては君も知っているね? どれが真実の情報かわからないからと命令に従わない中立派が続出している。アメリアは乱れた。すっかり乱れてしまった。もう元には戻らない。ダイキリとモヒートというニ大国の枠組みすら数年後にはもう残っていないだろう。しかし、それでも――」
「責任。それですね」
「そうだ」私は認めた。「上に立つ者の責任だ。ノブレス・オブリージュなどという大層なものではない。私はここまで第ニ旅団の諸君を連れてきた。君を倒すべく。命令によって。法を根拠に。将来を約束して。だがそれらは全て綺麗サッパリと無くなってしまった。まるで泡沫の夢のように。だが、だからといってそれで全てを有耶無耶にすることはできない。彼らに帰るべき新しい場所と新しい未来を作り、そこへ導くことまでが、私の責任なのだ」
私は左右来宮君に右手を差し出した。彼女はそれを無感動に見詰めた。
「コレは真面目な話だ、左右来宮君。降り給え。否、形式が問題ならば和解という形でもいい。対等という関係ですら私は厭わない。誰かが反対しても押し通そう。君と夏川君を擁せばまだ逆転できる。ライダーテーレは無理でもロホーヒルヒは奪還できるだろう。君には君の望むものを何でも与える。君の部下たちにもね。どうかな」
左右来宮君はもう無感動な目をしていなかった。彼女は表情を綻ばせた。丁重に彼女は拒否した。
「申し訳ありません、会長。魅力的な話ではあります。しかし、貴方と同様の責任が私にはある。私もここまで仲間たちを、同僚たちを、部下たちを、連れてきたのです。そして、彼らは与えられるのではなく、勝利することで掴み取ろうとしている。何かを。それぞれの。私もまた」
「だろうともね」私は頷いた。「わかってはいたのだ。もしかすると承諾された方が困惑、いや、失望したかもしれない。尤も、私個人が失望して全軍が安寧を得られるならば、その方が圧倒的に割が良いがね」
ですかと左右来宮君は苦笑した。そうだよと私も苦笑した。こうなれば私に残されている望みはあと三つだけだと私は言った。
「一つは君と正々堂々と戦って勝つことだ。二つ目は部下のための国家を建て直すことだ。三つ目に君を誘いたい。なに、もう降伏しろとかしないとかいう話ではないよ」
私は私の背後につまらなさそうに立っていた次席秘書に色枝君と呼び掛けた。左右来宮君ほどとは言わないまでも小柄で童顔、それでいて表情は“この世はつまらない“とばかりにムッツリとしている彼女はハイと答えた。例の準備はと私は尋ねた。彼女はできていますとだけ答えた。私は満足した。
「では左右来宮君、お茶でもどうかね、一杯?」
私は疑問を抱いた。どうすればこの左右来宮右京子という少女の虚を突くことができるのだろうか。彼女は平然といいですねと応じた。
我々は司令部テント群から離れたところに設けられた席へと移動した。戦地のことだから贅沢は言えない。粗末な紅茶、粗末な酒、粗末な砂糖、粗末な椅子、粗末な円卓、粗末なパラソルが客人らに饗された。眺望だけはピカイチだった。睨み合うかつての同胞たちのべ一五〇〇〇人を眼下に見据えるというのはそうある景色ではない。
私は席まで取り囲もうとした護衛団を追い払った。茶を飲み交わすだけの席にどうして護衛が必要なのかねと。分隊を指揮していた二年生は渋々と引き下がった。私は更に立ったままでと譲らない高望君を苦労して席へ着かせた。三人分の紅茶を用意する。意外と手慣れていますねと左右来宮君が言った。先程から何かにつけて左右来宮君を叱りつけたそうにしている高望君が私にはおかしかった。
……あれはシュラーバッハ会戦が終わって直ぐのことだった。
私は父の会社へ呼び出された。と言っても、そこは勝手知ったる我が鳳凰院高校の入ったあのビルの中にある。(ちなみに鳳凰院高校の経営は我社からの莫大な融資によって成り立っている)
『来たか』と、社長室で私を迎えたのは私の兄であった。豊隆という名の彼と私はまず下らない雑談を重ねた。兄は何でも知っている男だった。ただし、何にも詳しくない男だった。社交上の必要性から多種多様な会話の引き出し、それを有しているものの、その中身を整頓しようとしない男なのであった。そして、社会を生き抜くにはそれで十分であるらしかった。
『でな』兄は口髭を撫でながら本題に入った。『左右来宮が居るだろう、お前。妹のほうだ。例の、あー、なんだ、シュラーバッハか。そうだな。それで活躍して一躍、人気になった、あのチビだよ。アレの過去についてどれだけ知っている、お前?』
『さしては』私は正直に答えた。
『俺も詳しくはないよ、え、お前。だがな、面白い話が手に入った。昔、アレは酷いイジメに遭ってたってことでなあ? 当時の同級生が我社にチクッてきたんだよ』
兄は三〇代の給料半年分ぐらいの椅子に背を凭れた。『イジメの主犯だったっていうコも見つけた。それでな。そのコと左右来宮を番組で対談させるんだよ。最後はハッピー・エンドでキッチリとシメる。どじゃーん、ってな。どうだ。主犯はなんでも人権作文かなんかのコンクールで優勝したことがあるらしいぞ。話題性は絶対にある。自らの過ちに気が付いて改心した才女なんて誰もが好きなネタだからな。そこへ来て左右来宮の人気もある。何ならニュー・スター誕生ってことで、左右来宮とあのコをセットで売り出してもいい』
ゲスな話だな。私は思った。表面上は呆れるだけで済ませた。もう企画は通っていた。私は決定事項を告げられたのだった。主犯の彼女にも一度だけ逢った。彼女は悪びれもせずにこう言った。『あの娘と握手するときは泣いた方がいいですかあ?』
結局、その企画はこのクーデター騒ぎで立ち消えた。私はつくづく安心した。一方、アレがもし放送されていたらどうなっていただろうかとも思う。
左右来宮の人気、それは異常だ。そうなるように仕向けた私ですら恐怖を覚えるほどに。考えてもみたまえ。過去、反乱などというものは幾度もあった。低学歴によって主導されたものだって少なくはなかった。しかし、これだけの規模のものはひとつとしてなかった。ひとつの反乱に便乗して各地で反乱が連鎖するようなこともだ。
彼女だからこそなのだ。シュラーバッハで、ラデンプールで、彼女は比肩しうる者のいない武勲を打ち立てた。並み居る高学歴どもを押し退けて。彼らにも達成できそうにない武勲を。達成できない? 彼らが不可能だと笑い、夢にも描かなかったような武勲をすら。
いまや彼女はただの低学歴ではない。あらゆる低学歴の希望のようなものを託される立場にある。『左右来宮が戦うなら俺たちも戦う。左右来宮なら俺たちを勝たせてくれる。左右来宮に従えばもう高学歴に馬鹿にされることもない』
震えが起きそうになる。左右来宮君の望まない和解などを人々の前で強要していたら、我が田中家はいまごろ一族郎党皆殺しの憂き目ではなかったか?
「左右来宮君」私は敬意と恐怖と幾ばくかの嫉妬を感じている相手に紅茶を差し出した。
「何でしょうか」彼女はその紅茶に粗末なウィスキーを叩き込んだ。
「私は前から君とゆっくり話してみたいと思っていた。質問があるのだ。極めて個人的な。いいかね」
「ですか。まあ、全てに答えられるわけではないでしょうが、どうぞ」
「君はなぜゲームを始めた?」
「高学歴を殺せる。――と、ウチの部長に言われたので。ご存知ですか、ウチの部長は」
「寿々㐂家君だね。知っている。二人の出会いについて?」
「病院ですよ」左右来宮君は紅茶入りウィスキーを噛むようにして飲んだ。「私が禁酒セミナーに嫌々ながら通っている当時、酒なんてほぼほぼ飲まない部長が同じセミナーに通っていた。で、セミナーの中で誰彼構わず、こう訊いていたんです。『どうしてまたアル中になんかなったんだ?』ってね。私は彼を面白いと思った。それで仲良くなって、ま、後は流れです。ああ、私が高学歴を嫌いな理由についてはあまり話したくありません」
「いいとも」高望君の表情が曇ったことを私は見なかったことにした。「では、このクーデターを起こした理由は」
「幾つかあります。が、そのうちの尤なるものだけお教えしましょう。みんな話すと長くなりますしね」
左右来宮君は紅茶の表面に写った自分の顔をしげしげと眺めた。「私はずっと自分には何もできないんだと思って生きてきました。いや、思っています。兄と比べられて育ったからでしょう。だから何か大きなことをしてのけたかった。そうすれば自分が好きになれるかも、と」
「好きになれたかね」残酷な質問だった。だが不可欠な質問でもあった。
「まさか」左右来宮君は親友の恋人を好きになってしまった女性のように笑った。「むしろ、後から後から自己嫌悪が酷くなります。こんなことに仲間たちを付き合わせて何をしているんだろう、と。いろんな人を巻き込んでね。私のせいで死ぬ敵味方を思うと何時もよりも胸が痛む。責任だのなんだのとさっきは言いましたが、私に取れる責任はせいぜいが大学からのオファーを片っ端から断ること、それと、然るべきときに仲間と共に死んであげることだけですしね」
「充分過ぎるのではないかな?」
「どうですかね。わからない。ただ、最終的にこういう形でこのクーデターの決着が着こうとしていることについてはスカッとしています」
「スカッとね」
「ええ。元より私は自分より優れているとか、自分に持ってないものを持っているとか、――そういう高学歴を殺すのが大好きだったんです。面白くて。で、今回、そういう高学歴が幾らでも貴方の陣営にいますからね。名前は特に伏せますが、一人、できることなら自分の手で殺してやりたい相手もいるので」
「それは伏せられてはいないのじゃないかなあ」
私と左右来宮君は高らかに笑った。我々を遠巻きに観察していた参謀や指揮官たちが噂話に熱中していた。だからどうしたというのかと私はしばらく立場を忘れて笑い続けた。こんなに笑うのは久しぶりだった。殊に人前では。
「で、会長は?」左右来宮君は尋ね返した。「ゲームを始めた理由はつきます。モヒート皇帝になった経緯も。ただ、わからない。どういう事情で私を第ニ旅団長なぞに抜擢されたんです。それだけが未だに腑に落ちない」
「うん」私は目頭に浮かんだ涙を指で払った。「そうかもしれんね、君。実際、あのとき、実は君よりも適任だったかもしれない者は確かにいたのだ。まあ、シュラーバッハであの結果を出せたのは君しかいなかったにせよね」
「どうも」
「いやいや。――でね、それは単純なことなのだよ。いきなりこんな話で悪いが、かつて、私の家には住み込みの、つまり家政婦さんだね、それが居た。いまもハウス・キーパーはいるよ。だが、家の掃除とか料理を作ってくれるとか以上に、より親密な付き合いをしていたのだ」
私は紅茶を口に含んだ。飲む。やはり粗末な味だった。「私には母がいない。父は外国人嫌いで、他人が家に入るのも蛇蝎の如く嫌っているが、それ以上に金を無駄に使うのが嫌いだし、私と私の兄の面倒を見させるために、そういう家政婦を必要としたのだと思う。ちなみに、これこそ父が聞いたら彼の外国人嫌いは致命的なレベルにまで達してしまうと思うのだが、その家政婦は私にいろいろな意味で人生の楽しみというものを教えてくれた。ここだけの話、私は彼女の浅黒い肌の弾力をまだ三日に一度は夢に見る。こっそり、夜中、二人で家を抜け出して飲んだコーラの味と炭酸の弾け具合もね」
私は脚を組んだ。肘をテーブルに突く。そよ風が私の髪を軽く持ち上げた
「ウチの父はE・SPORTSとこのゲームに投資をして成功、まずまずの実業家から有数の実業家へと成長した。すると、どうだ、父はまず彼の会社のなかにいた外国人を、その実績を問わず解雇した。奴らは使えないと。ヒノモト人の方が圧倒的に優れているとね。間もなくその手は家政婦にも及んだ。彼女はそれから生活のために身を窶した。最後にはある男性と結婚したが、その男性と上手く行かなくてね、ついにあるとき死んでしまった。私はその葬儀に参加できなかった。父が許さなかった。外国人など勝手に腐らせておけばいいとまで言った。アイツらに近づくなと私に釘を差したよ。汚いからと。そして勿論、私は父のその言葉に反感を覚えながらも口答えなどしなかった」
私は恥ずかしくなった。無論、自分がである。
「私はつまり好きにできる範囲でぐらい好きにしたかった。そういうことなのだよ、君」
「なるほどね」左右来宮君は破顔した。「私と同じですね」
左右来宮君は去った。その際、私はもうひとつだけ、かねて抱いていた疑問を彼女に質した。無礼であり、非礼であり、失礼ですらあったが、彼女は朗らかに答えた。私の質問はこうだった。君はやろうと思えば幾らでも自分の境遇や過去について他人に語る場を得られたはずだ。なんなら君を苦しめた人々を糾弾したり抹殺することもできたではないか。それだけの立場にいる。否、立場を手に入れる前ですら機会はあったはずだ。なぜそれをしてこなかったのか?
『公衆の面前で自分の過去、意見、思想、それにグチだ不満だを語ることは情けないからですよ。いや、それをする人がいるのはわかる。そうしないと生きていけない人がいるのもね。大体、私は本が好きですから、人に自分の考えを打ち明けることそのものは否定しません。その効能もね。――でも、だからといって自分でそういうことをしようとは思わない。自分がそれをすればきっと他人に同意を求めますので。自分は間違っていなかったはずだ。自分は悲劇的な人間だ。悪いのはアイツらだ。そうだろう? そうだろう? そうだろう? と。そして、きっと、優しい人たちが本当に同意してくれるんだ。私は満足する。そして、一晩の安らかな眠りを得るでしょう。それが情けない。ただそれだけのことです』
彼女はそびらを返した。私は彼女の背へ向けて手を振った。満足していた。彼女の見解には納得しかねたが、それはそれでいいと思っている。
間もなくンジョール=ヌ会戦の火蓋が切って落とされた。





