8章4話(会長)
『どうしたのかね、君』と私は訊いた。それは一月近くも降っては止んでを繰り返した執念深い雪の、ついに溶け始めた時期のことだった。ここのところついぞ拝んだ試しのなかった太陽が久しぶりなだけに余計に眩しかった。溶け始めた雪は溶け切った雪と違って泥を含まず幻想的にまだ白っぽくて水っぽかった。だから辺りは異世界に繋がる不思議な泉、その表面のような、濁ったような、それでいて透き通ったような、ワクワクする色味に染め上げられていた。
こういう日には出会いがある。私はそういう迷信を信じるタイプなのだよ。そして、その迷信は見事に現実となった。
『ええぇっと』我が家の前を彷徨いていた彼女はたどたどしく言った。その視線が左右に泳いだ。『実はここに居るはずの人に、この前、お金を借りまして』
『お金』私は思い当たる節があった。『君、君にお金を貸してくれたというのは、それは外国の人かね』
『外国の人です』彼女はウンと頷いた。
『ミルク・チョコレート色の肌?』
『ミルク・チョコレート色の肌です』彼女はウンウンと頷いた。
『外国人かね?』
『外国人です』彼女はウンウンウンと頷いた。
『セクシー?』
『……。……。……。いや、それは』
表情筋を引き攣らせた彼女を見て、私はつい誂い過ぎたかなと自戒しなくもなかった。彼女と私の吐き出す息は白かった。
私は厳つくて重い、実のところ大した役にも飾りにもならない我が家の門を手で押し開けた。彼女にどうぞと手で促す。彼女はしばらく躊躇していたが、やがて、お邪魔しますと軽い会釈をして敷地に足を踏み入れた。踝の近くまである雪に深く印された彼女の足跡は小さかった。可愛らしかった。
うおっと彼女が驚いたのを私は聞き逃さなかった。見逃しもしなかった。どんな時代も持ってる人は持ってるもんねと彼女は呟いたのだった。まさに。我が家は――次男である私からしても――コレはどうかと思うほどの成金趣味で構築されていた。踏み込むなり番のライオンの彫像、それに、まあ冬場は停止しているのだけれども、妙な装飾の施された噴水が出迎える家というのは、この国ではまず見ない。というか、どこの国でもあまり品のよろしいものではなかろう。
吉永と名乗った彼女はやはり我が家のハウス・キーパーからお金を借りたという中学生だった。正確には中学生と高校生の中間かな。彼女は入学手続きを済ませれば晴れて我が鳳凰院高校の一員になることが決まっていると言った。私と彼女はしばらく庭に面した応接間でどうでもいいような世間話をして過ごした。彼女の呈する態度や仕草や反応は一々、私に何か新鮮な感じを覚えさせた。吉永君は落ち着かない様子でどちらかと言うと青っぽい庭を眺めていた。暖炉の火で炙られた彼女の頬は赤かった。――
そのうちハウス・キーパーが暇になった。昔風に言えばメイドに当る彼女の名前はクリスティーンといった。ハウス・キーパーは三人いた。今日が彼女の出勤日でよかった。私は彼女を応接間に招いた。彼女を見るなり吉永君は立ち上がり、それから慇懃に借りた額と同じお金を手渡して、更にペコペコと頭を下げた。あのときはごめんなさい。混乱してて。つい。その。なんていうか。お礼も言わずに。
クリスティーンはいいんですよと笑った。私は彼女にも座ってお茶を飲んでいきたまえと奨めた。でも後で旦那様にわかると叱られますからと彼女は辞退した。三週間前、踏んだり蹴ったりな目に遭っていた少女に小銭を貸した彼女は日に何時間も辛い肉体労働に打ち込み、それで稼げるのは信じられないほどの薄給だった。これはまた兄と二人で父に陳情しなければならないなと私は思った。尤も、父は外国人嫌いで、その癖に彼らをコキ使って節約しなければ気が済まない人だから、我々の言葉はまたもや聞き流されるに違いなかった。そういう意味では何も言わない方がいいのかもしれないなあと考えもした。焼かなくてもいい世話を焼いたばかりに父から彼女への風当たりが強くなってはアレではないかね?
用事を終えた吉永君はお暇しますと言った。私は引き止めた。『君、ゲームに興味はないかね?』
それから私と彼女の一年間が始まった。私は彼女に対する拘りに近い興味を最初から自覚していた。それは彼女が誰に対しても別け隔てなく朗らかであるからだった。ヨソの国から来た者やそのルーツを汲む者に人権を認めない我が国において、その彼女の性格が、偉そうに言えば、私の気に入ったのである。
で、あるから、彼女が元はといえば酷い低学歴差別者であったことを知ったときは驚いた。と、同時に、人間はいともたやすく変われるのだと感動もした。
我々は間もなく恋に落ちた。公然とではなかった。体面というものがあった。私は幼少時代からかくあるべしと何もかもをお仕着せにされて育った。これをしろ。あれをしろ。こうせねばならない。これはしてはいけない。明日の予定はこうだ。明後日の予定はこうだ。低学歴や外国人とは付き合うな。付き合うべき相手は全て父さんが決めてある。その交流を円滑に進めるための嗜みについてもな。
日々の生活を送るのにも困る人々が居る一方で、金銭に決して困ったことのない私がこう思うのは不遜で贅沢だろうが、私は自由になりたかった。金などいらないから自由でいたかったのである。それが高望みだというならそれでもいい。せめて私を金や社会的地位で格付けしない人に出会いたかった。そういう意味で彼女は素晴らしかった。素晴らしかったからこそ彼女との関係を公にできない日々に苦しみもした。
月日は移ろう。雪は溶けた。春が来た。桜が咲いた。かと思えばセミが鳴き、死に絶え、ヒグラシが現れて、彼らもまた儚い生涯を終えて、今度は木々が色づいたかと思えばそれも一瞬、裸になった幹に降り積もる雪は親切なんだか残酷なんだかわからない。
私は過ぎゆく季節の中である決心を固めた。固めるまでは長かった。固まると思えば解けた。解けたかと思えば固まった。
それは傲慢そのもの、他人が言い出したならばその相手を末代まで呪うであろうほど愚かなものだった。大それたことだった。それでも私はその計画を実行に移した。そして、――その計画の推移が想定通りのものになるかどうかを見守らせるべく、“彼女“のところに吉永君を送り込んだ。
全ては順調に進んだ。たった一点、
『もうこういうことは終わりにしない?』
と、彼女が言い出したこと以外は。『これ以上、あのコたちに嘘を吐き続けたくないのよ』
私は苦笑した。まるきりロマン・ポルノの一場面だなと思っていた。実際、そのとき私は人目に付き辛いある種類のホテル、その陰気で湿っぽくて暗い部屋のベッドに横たわっていた。吉永君は粗末な化粧台で鏡に向かっていた。私からは彼女の背中と細くて白い項しか覗けない。私はその白さにあの日の雪の白さを見つけた。
それだけで十分だった。表情など確認するまでもなかった。声色から推察する必要もなかった。私は君の好きなようにしたまえとなるたけ優しく言ったつもりだ。つもりだけだろう。別れを切り出された男は何時だって女々しい。また、別れを切り出された男には、強がりを口にする以外にできることがないのだ。
そしてまた季節は変わらず流れている。今年も雪が降るだろう。それから溶けるだろう。しばらくすればやはり再び降るのだろう。





