8章2話(剣橋)
ンジョール・ヌ原野への移動を開始した我が軍は敵――敵ね。敵か。ふん。まあいいさ――、夏川の率いる第ニ旅団に、コチラ側につかなかった旧仮設師団隷下部隊、独立部隊を加えたものの追跡を受けた。原野への移動は連中と一戦を交えることを目標としてのことだから、これは事前に織り込み済み、まあそうなるだろうなあで終わらせた。終わらせることにした。後悔したところで始まらない。
敵の総数は八〇〇〇程度と見積もられた。案外に少なかった。第ニ旅団からも離脱者が出たこと、中立を宣言する部隊が現れたこと、更にロホーヒルヒでの散発的な戦闘が夏川たちに思わぬ打撃を与えたことが原因だと推定された。推定を確定に持っていくことはできなかった。
分野を変えれば確定できた情報もある。それは俺に一縷の望みをもたせた。敵の兵站状況も決して芳しくはないという、その一事であった。
敵のその兵站状況は、無論、例の『ロホーヒルヒ周辺の倉庫はここに来るまでにファックしてやったぜ!』にも依るのだが、それ以上に過去、二度に渡る会戦に依っていた。シュラーバッハとラデンプールである。
あの戦いを始めてから終わらせるまでに聯関した四軍、つまりダイキリ軍、モヒート軍、ダイキリ残党軍、第一師団は、その行軍経路上にあるありとあらゆる人口密集地から物資を徴発、購入、なんなら略奪までした。すると何が起きるか。起きたか。起きているか。
諸物価の超急激な上昇であった。
職務上、兵站部門も監督するわけで、そういうことになっているのは俺も知っていた。だが、その現実的な数値をこうして目の当たりにしたとき、俺は呆れ果てるというよりも、むしろ瞠目した。特に辺境部において、今日の食物にも事欠いたPCとNPCらは、ひとつのパンを金の額面でも質ではなくてその重さで買わねばならないほどのインフレに見舞われていたのである。
(ダイキリと言えどもこのゲーム内における農業、食料、加工の生産力は常にギリギリである。それらを流通させるための輸送網は更にギリギリだ。その土地の人間が向こう一年間かそこらを生きていくためにすら食い物が足りないのに、それを横から奪われればこうなるのは当然である。よくもまあ今日まで大暴動に発展していなかったものだ。否、するだけの余力もなかったのか。比較的ながら余力のあるロホーヒルヒには軍隊が駐屯していたわけだしな。とすると、この後はどうなるんだ? ええい。考えても仕方ないな)
夏川らはただでさえ食糧難に喘いでいるはずだ。進めば進むだけ物資が手に入るという行軍の常識もいまは崩れた。もしかすると連中はンジョール=ヌまで辿り着けないかもしれない。辿り着けたとしても戦闘が可能かどうか。とりあえず八〇〇〇という数を保っているとは思われない。
勝てるか。負けるか。負ければそこですべてが終わりだ。勝てば?
俺たちの武力や知力を必要としている誰かが接触を図ってくる。違いない。なにしろこの事件は既に一介のクーデターではなくなっている。言っちまえば“低学歴対高学歴“のデスマッチだ。これまで表層化しているようでしてこなかった決定的で致命的なものが、このゲームをプレイしている多くの者どもの中で弾けちまった。
モヒート中央がどうなっているかは知る由もないが、あっちはあっちでテンヤワンヤ、この騒ぎが種火となって恐るべき政争が始まっているだろう。始まっているからにはモヒートは大いに乱れる。乱れるからには分裂する。分裂するからには力を持たない者も現れる。そういうことだ。
そうなれば後はそいつらにどっぷりと寄生、お小遣いをせがんで、無理を言って、それが聞き遂げられないとなれば床に寝そべってゴロゴロとローリングしながら泣き喚いて、つまりは手のかかる孫のように振る舞っていればいい。
都合のいい未来予想図ではあった。しかし、そうでもしなければ、何を期待して激務に耐えればいいのか、実のところわからなくなってきていた。
愚痴るのは得意でないが、まァ、なんだ、聞いてくれよ。俺たちだって苦労したんだ。
全体、山を出て数時間で最初の苦労が生じた。ある歩兵大隊が別の大隊に喧嘩を売り始めたからだ。否、喧嘩ならまだいい。下手をすると同士討ちを始めかねないほど連中は滾っていた。何がどうなってそうなったのか。簡単なことだった。
喧嘩を売り始めた方の大隊指揮官は性格的に難がある故に大隊指揮官に甘んじている高学歴だった。彼は同じ道路を低学歴の指揮する大隊が先へ行くのが我慢ならなかったという。ふざけろ。
おい待てよ。ここまで来てそれはないだろう。力を合わせようぜ? と、説得を試みるだけ無駄だった。奴は通訳を連れてこなければ理解できそうにないバルバロイ語で喚き続けた。『テェーガクレキィーノォーブンズァイドゥエィー』
背に腹は代えられない。俺は軍指揮官として彼に重い処罰を与えた。いまにして思えば辛かったにせよ間違った判断ではなかった。あれ以来、低学歴がどうとか、高学歴がどうとか、そういう馬鹿げたことを理由に馬鹿としか思えないことをやる馬鹿は(表面上は)いなくなったからだった。
あの手の馬鹿どもは言うまでもなく、ああ、いまは口にできない代わりに心のなかで誰かを罵っているに違いないが、エスパーでもない限り他人の心は読めない。口にされていない言葉は存在していないのだ。禍根にも遺恨にもならない。でもって、この世にはエスパーはいない。(たまに自分をエスパーだと信じて疑わず、他人の示した些細な行動に言い掛かりをつけて暴れだす輩が居るが、幸いなことに、そこまで度し難い阿呆は我が軍にはいなかった)
裏切り者がまた裏切るという例もあった。連中は『やっぱり辞めるわ』とか『思ったのと違かった』とか口にすると主に個人単位で、希に分隊単位で消え去った。待て待て待て。待て。待て。待て。サークル活動じゃないんだぞ。お前らはアレか。後進国か芸術の都に行くとか言い出す奴原か。
居なくなった奴らの後任は決められなかった。あたりまえだ。人材が畑から取れるなんてことは現実にはない。可哀想に――と嘆くのは責任者として無責任ながら――、ある中隊は一年生に、またある大隊はようやく一丁前になったばかりの下士官たちで運営されることになった。
正規の教育を受けていない彼らは、新人のドラッグ・ストア・アルバイトがいきなりワンオペをやらされるようなものだ、何かとミスを乱発して、それを俺たち司令部で――より正確には数えられるほどまばらになった司令部要員に補佐される俺が――フォローしなければならなくなった。ならなくなったという言い方は不遜でよろしくないか? だとしても事実だ。
行軍二日目には大雨に見舞われた。すべての街道で並木道を採用、その効能のため迷い辛く、ついでに言えば路の壊れやすいダイキリ国内で大規模遭難や行方不明はまず起きないだろう――と、そう楽観視しているところへ凶報が届いた。
全軍の八分の一にもなる某大隊の行方がわからなくなったのだった。(隷下部隊はすべて司令部で組んだ行軍計画に則って行動している。なので部隊間の連絡は何時にどこどこで待ち合わせをして方式か、アチラからコチラに騎馬伝令を出しての方式か、そのどちらかで行われる。この場合、前者で件の大隊の存在が確認できず、周囲を捜索してもその姿が見つからず、しかもアチラからの連絡が無いことから事故と遭難を疑うべきだった)
彼らの位置、安否確認、それに装備の損耗などを把握するのに俺たちは躍起になった。最終的に部隊は丸ごと無事、装備の損失も最低限に抑えられて、通信途絶の理由も経路を間違えたからだという素敵なオチがついたのだが、安心したのも束の間、次はある中隊が増水した川に流されたというので閉口した。(事故はこの後も続けざまに起きた。多発の理由は地理の不案内、疲れ、昨日まで見ず知らずの間柄だった諸部隊を強引に合体させたことなどに求められた)
また、このとき、我が軍の後衛を務めていたある軽歩兵部隊が敵の捜索部隊と邂逅した旨の報告を寄越した。その報告は徒歩伝令で送られてきた。大して疲れた様子も慌てた様子もない彼に俺は『なにがあった』と尋ねた。彼は『タバコをあげました』と応えた。
珍しくもないことである。雨の中で遭遇した敵味方はときに、えー、ンマー、だから、殺し合いの気分を高められなくなる。事実として火薬がシケってしまえば銃が使えない。剣で泥だらけになりながら殺し合うのはなんだか給料の割にあわない。しかも今回は元・友軍同士であった。彼らは打ち解けるとまでは行かなくとも雨の弱まるまである橋の傍で共に過ごした――という。『タバコは、その、まあ、なんですか、相手はもうぜんぜんないっていうんですよ。それがなんか見てられなくて。自分、ヘビースモーカーなので』とは伝令の談であった。
敵味方の微笑ましい交流ということで話は終わった。あくまでも話は。
この話のお蔭で俺たちからすれば敵の兵站状況に真実味が持てた。ンジョール=ヌでどう戦うべきかの方針も立てやすくなった。敵の兵数がどれぐらい減っているかの検討も前よりかはつくようになった。
相手からすればどうだ。コチラの兵站状況を察されたのではないか。これもまた情報戦なのだ。もしや敵はコチラの状況を探るために敢えて捜索騎兵にああいう演技をさせたのでは。タバコ程度で大袈裟なとしてしまうわけにはいかない。敵がコチラの兵站状況を過大評価した場合、連中、ンジョール・ヌで会戦をやる前に何か仕掛けてくるかもしれない。過小評価した場合はどうだ。それはそれで何かしてくるかもしれない。情報部長によれば我が将兵に対する融和、離反、懐柔などの工作に出る恐れがあるという。それもゲーム内に限らず。外でも。
情報とは、戦争において、最も重要視せねばならないもののひとつだ。
簡単な話だよ。いや、実際、極端な喩えではあるが、ジャンケンをするとき、相手がどの手を出してくるかさえ分かっていれば、絶対に負けないだろ?
なんにせよ、これ以上プレイヤーが減れば軍としての機能を保てるかどうかがわからない。俺は各員の士気を保つため慣れない演説をぶったり、俺たちが勝てばどうなるかを――誘惑マシマシで――語り直したり、第ニ旅団に兵なしなどという根拠のない噂を流したりした。俺はシリアルでエクスペリエンスなこの雨が嫌いになった。大嫌いになった。雨なんて二度と降らなければいい。この世のすべての水分が蒸発しちまえばいいんだ。(雨の中を歩き通して風邪を引く者たちへの対処には本当に困窮した。ここ数日、雨が降る毎に季節が移ろうのが分かる。秋は視覚的な風流でも情緒でもなくて、まず温度でその到来を俺たちに教えていた)
まだある。まだ苦労はあるぞ。あるんだ。行軍中の事故である部隊が塩をなくした。そこで近くの部隊に供出を命じた。命じたはずが、その命令文を、慣れない伝令が違う部隊へ届けたからさあ大変、ウチにそんな余裕があるのか、お前はちゃんと全軍を統括できてるのか、左右来宮を出せオラ――と、その部隊指揮官が司令部に乗り込んできた。結局、事情を説明すると指揮官は落ち着いてくれたし、途中、我々に協力的な旧ダイキリ軍の物資集積場があり、そこで追加の塩を受け取ることもできた。
零れ話をしておく。ある間抜けな作戦参謀が『塩分濃度の高い泉を見つけました!』とかドヤ顔で俺に語った。だからどうした。それはダイキリだからな? 薪はあるよ。燃料はある。だが、塩を作るのってのはそれは面倒なことなんだぞ。
塩と言えば水の問題もあった。現代ヒノモトでもあるまい、生水をグビグビ飲むわけにはいかないのがわかっているはずで、衛生部長からそれを戒められていたにも関わらず、ある部隊の指揮官は、莫迦野郎、兵にガバガバと川の水を飲ませた。
おかげでその部隊の兵のニ割が腹を下した。ニ割だぞ。汚い話で恐縮だがな、畜生、一箇所に固められた糞尿のニオイは風に乗りさえすれば何キロも届くんだ。コッチを追いかけてきている捜索騎兵らがそのニオイを嗅げば? 連中、コチラの位置を把握しちまう。その日一日のことではあるが走る距離を短くすることができる。僅かな差ではあるが兵站消費量が抑えられる。その僅かな差が生死を分けるかもしれんってときに。
のみならず、それらのせいで赤痢だの、なんだの、病気が蔓延したらどうしてくれる。ただでさえ腹を下した兵はまともに行軍させることもできんくなるのだ。くそったれ。本当の意味でくそったれどもめ。後はなんだ? くそったれのあとはなんだ。なにがあったか。県知事か。
当該県の行政の長――県知事はその県内に駐屯する軍隊に対して絶大な拘束力と権力を持つ。これはモヒートでもダイキリでも変わらない。例えば第ニ旅団時代、駐屯地内外において工事などを行う場合、演習などを行う場合、徴兵などを行う場合、旅団が県内から物品を直接的に大量購入したい場合、このほか幾つもの場合、我々は県知事の了承を必ず得なければならなかった。
為に県知事なる役職に就いたプレイヤーの多くは軍関連プレイヤーを嘗めている。文民統制という言葉を、まるで覚えたての単語を自慢したい中学生のように振りかざして、それで自分の自尊心を満たすことに妙に執着するのであった。
で、ンジョール=ヌ原野の所在するハシャーフシャー県の知事はまさにそのタイプだった。ゴーマンチキを隠そうともせず彼は言った。
『ロホーヒルヒ中央は死に体だ。モヒートのそれも混乱している。おたくの会長が死んだという噂が流れているしな。というよりも、流しているのか。誰かが。まあいいさ。知ってるかね。ラデンプールでは残党軍残党が、ハハハ、残党の残党とは、うん、その残党軍の残党が一旗をあげた。ラデンプール知事がその残党軍を抱え込んで県の独立を宣言したよ。私もそうしたいと思う。君等、私のところへ来い。養ってやる』
お断りした。気に食わない相手だからというだけではない。ハシャーフシャーに我が軍を長期間に渡って養う力はないからだった。無論、県知事はその事実を歪曲して受け取ったようだったが、そんなことはどうでもいい。どうでもいい。どうでもいいのだ。畜生め。
パルチザン? ついに爆発した民意? 行く手を遮る怒れる暴徒? それがどうした。押しのける、交渉する、脅す、いくらだって解決法はあるさ。解決法のないことなんてなにもないんだ。いいとも。俺にもってこい。なんでも解決してやる。畜生め。畜生め。畜生め。楽しくなってきたな、え? 畜生め。
思えば、左右来宮はいつもこんなことを――俺に押し付けてきた。そうだ。いつもだ。俺はだから左右来宮への尊敬の念を新たにするようなことはなかった。ただただ畜生めと呟き続けた。嫌味だ。嫌味を言ってやる。嫌味だ。それぐらいで済むことにむしろ感謝するがいい。だからとっとと姿を見せろ。日頃、あれだけ責任とかなんとか口にしている癖に、まさか口先だけではあるまいな。信じてるぞ。
――――九月一八日、深夜、我が軍はンジョール=ヌ原野に集結を果たした。本来であればあるはずの休む暇はそれほどなかった。行軍中に起きる問題解決速度の差がその原因だった。敵は夜明けと共にこの原野に進入を開始しようとしている。
そして、待ちに待った左右来宮が現れる。





