7章5話/感傷的な男たちの鑑賞会
左右来宮左京も煽てれば木に登る。連合生徒会館の園遊会でも開けそうな裏庭、その一隅を彩るブナの木に己は攀じ登っていた。周囲ではカナカナカナカナ――と、何もかも未確定で曖昧なのだとばかりにヒグラシさんたちが大合唱していた。そんなに言われなくてもわかってるさ。人生は先の見通しが立たないものだ。
手を伸ばす。落ちそうになる。体勢を整える。手を伸ばす。落ちそうになる。体勢を、と、このような繰り返しを五回ほどやったところでようやく指先がそれに届いた。
「冬景色!」木から飛び降りた己は呼んだ。「冬景色!」
「見つけてくださいましたか」と別の方面を探していた冬景色が駆けてきた。
「もう落とすなよ」と己は右手にガッチリと掴んだペンダントを渡してやった。ハートの形をしたチャームに金色の鎖が着いている。中学生辺りが好きそうだ。値段は一五〇〇円とみた。無論、実際の価値はプライス・レスである。
己は額の汗を、構うものか、シャツの袖で拭った。洗濯していないから汚れている。汗でその汚れが滲んだ。
一〇分ほど前、己がこの裏庭へふらりとタバコを吸いにやってきたとき、聡明なこと余人の追随を許さない冬景色は『大事なものをどこかへ落とした』とか言って慌てていた。それは壮絶な慌て方だった。見捨てることもできず、己は彼を助けることにしたというのがここまでの流れだが、いや、それにしても不思議なこともあるものだ。
木の上に落とし物をすることは、普通、ありえない。会館の屋上から裏庭めがけて投げ捨てたとかいうならまだ理解もできるけれども。――――
冬景色はペンダントを首に着け直すとホッとしたらしかった。己は大事なものならもう落とすなと念を押した。
「ええ」彼は無味乾燥に頷いた。「手遅れでない限り」
己たちは夏の間、どこからか持ち込まれたまま放置されているパラソルの下に座り込んだ。芝生はまだ青かった。会館はその地理的条件のため生じる暮靄に包まれつつあった。ついこの間まであんなに暑かったのに、油断をすると風邪を引きかねないほど、もう涼しくなってきていた。汗の乾いた己は妙な寒気を感じなくもなかった。
懐からモスレムを取り出した。咥える。一本、貰っていいですかと冬景色が言うからくれてやった。今日、一一ニ本目の煙草の味を感じられないほど己の舌はニコチンの刺激で麻痺していた。沈黙に耐えられない己はお前も煙草なんて吸うんだなと無駄な話題をサジェストした。〆嘉が嫌いでしてと冬景色は応じた
「黒歌か」あれはあれで有能な副参謀長の顔を己は思い出していた。「幼馴染だもんな」
「ええ。大切な。それに一緒に住んでいましてね」
「一緒に?」己は防水バケツに灰を叩き落とした。「それはまた」
「正確には私と彼女と剣橋とが三人で一緒に住んでいます。というのは、〆嘉には家族がおらず、一人で暮らすのはとてもではないが嫌だというので。賑やかで楽しいです。それが煩わしく感じられることもありますが」
彼はじっくりと煙草の煙を味わってから吐き出した。「上等なタバコですね」
「そうでもないさ」
「貰いタバコのお礼にもう少しお話させて頂きたい。ご興味が?」
「あるよ」
「昔、〆嘉があることで悩んでいるとき、私は頼られなかったのです」
冬景色はタバコの先端を見詰めながら語った。
「彼女は剣橋を頼った。それが私の性格を決定づけました。煎じ詰めるにルサンチマンです。私はずっと剣橋から彼女を奪い取ってしまいたかった。しかし、いざ、やってみると駄目ですね」
彼の笑い方はロボットになりたい人間のそれだった。人間になりたいロボットのそれでは断じてなかった。
「駄目ですねえ」冬景色と達観と諦めの中間ぐらいの表情で言った。「どこで方針を間違ったのかな」
「面白い男だ」と己は呟いた。
「おや」と彼は心持ち不本意げに唸った。
「まさか、今日まで私が愉快な男だと認識していなかったのですか。そうですか。〆嘉を笑わせるためにこれでも色々な努力はしてきたつもりなのですが。精進が足りなかったようですね」
己は彼が飲み終えたペットボトルをゴミ箱へ投げ、その狙いが外れると、わざわざ拾い直して、入るまで投げ続ける男なのを知っていた。彼は慰めを必要とする男ではない。
己は冬景色と並んで今日も昨日も明日も人の気など知らず落ちていく夕日をもや越しに眺めた。侘しい気分であった。爽やかな気分でもあった。それは後ろめたいことを抱えた人間だけが理解できる一種の倒錯した喜びだった。
執務室に戻ると神々廻と妹とがあるネット・メディアで会見をしていた。神々廻はなぜ彼が会長を打倒する決意を固めたかについての大義名分を改めて語った。妹は簡素に、ただ、次のように述べてニタニタ笑った。
『損はさせません。殺したい奴、憎い奴、ぶん殴りたい奴が敵軍にいるのであれば我が軍に合流を。よろしく』
己は目を閉じて頷いた。負債を返すときが来たのである。





