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7章4話/殺してなぜ悪い!?


 台所で鍋が焦げていた。中身がではない。鍋そのものが焦げていた。冷蔵庫の中にはコール・タールのような黒いモノがご丁寧にクッキー状に形成されて、バットの上で冷えていた。私はこれを焼き上げるつもりだったのか? 


 待て、コレは何だ。灯油缶か。灯油を飲んだのか、私は。香水を飲んだ記憶はあるけれども。


 こみあげてきた。トイレに行こうとして躓いた。風邪薬のシロップの空き瓶が何本も床に転がっていた。シロップの瓶だけではない。家中、酒瓶とゲロが散乱している。私は荒んだ床に寝そべったままゲンナリした。人間、最低でも日に一度は自分を嫌いになるチャンスがやってくるものだ。


 どうしたものかな、と、クジラの潮吹きのようにピューピュー胃液を吐きながら私は考えた。さっき、便座の中に顔を突っ込んだ状態で正気を取り戻したときに確認した限りではあの夜から丸三日が経過している。


 戻るべきだろう。それはわかっている。こんな、退嬰的な気分を何時までも続けていたところで良いことなど何もないのも。


 あれからどうなったのだろう。私の覚えているのは窓から擲弾の投げ込まれたところまでだ。そのまま榴弾を小型化した、やたら重い割に威力の低いそれの導火線には火が着いていた。威力が低いといっても部屋を吹き飛ばすぐらいのパワーはある。だから夏川さんの射撃は外れた。発砲の瞬間、彼女はNPC兵を何人か盾にするべく後退ったからだ。爆発の衝撃で私は気を失い、強制的にログアウトされた。


 仲間たちの消息を確認したい気もしたが大儀だ。吐き気が止まない。いかんなと思う。喉の奥へ指を突っ込むとしても、ここでやれば床を血の海にしてしまう可能性があった。私は自分以外の、地球上に生きている全ての生物を羨み且つ怨みしながら這い始めた。一センチ進む度、自分の吐瀉物と混ざりあった出所不明のアルコールが服だの顔だのに粘っこく張り付く。既に全身がネトネトでカピカピだからなんてことはない。


 トイレでやるべきことを済ませた私は全身を清めるべく、今度はお風呂場へ向かって這い始めた。


 順路には兄の部屋があった。その前の廊下には一ミリリットルの虫唾もぶちまけられていなかった。ラリっている間、私はここに寄り付かなかったと思われる。気にしないことにしよう。私はそう思った。どうせ入ったところで何の意味もない。兄がいるわけでもない。


 私は唸りながら部屋の前を行き過ぎようとした。だが数十センチ、前に進むと戻ってきてしまう。戻るとまた前に進む。泣きながら私はそれを何度か繰り返した。部屋の障子も同じように開けては閉めて開けては閉めて、それを一五分も繰り返した。


 入ってしまった。


 何か無いか。私は苦労して立ち上がった。コケる。立ち上がる。手当たり次第、あらゆるところをやみくもに物色した。


 それは兄のベッドの下から出てきた。秘密箱だった。カラクリの。寄木細工の。私は夢中になってその箱の表面のパズルをスライドさせた。私のと同じ仕掛けだった。箱が開いた。中からはガラクタの山が現れた。折り紙の飛行機とか兜とかツルとかだ。押入れの奥に仕舞い込んだ小学生時代の絵の具セットのように魅力的に色褪せている。


 そして、箱の底には『ポイントカードの王子様』と『りゅうのかみさま。』で眠っていた。

 

どうしてここに、と、思いながら私は秘密箱の蓋を指で擦った。埃が積もっていない。ベッドの下に手を突っ込む。出てきた、エロ本だの忘れ去られたヘソクリだのにはビッシリと埃が積もっている。それも、年単位で積もりに積もったそれらは赤黒く変色していた。とても指で擦った程度では落ちない。


 思い出した。


 そうだ。そうだ。そうだった。なんでこんな大事なことを忘れていたのだろう。私は二冊の絵本を抱きしめた。定期的に読み返されていたのだろう、端の擦り切れた本からは懐かしい香りがした。私があげたのだ。兄に。もう絵本なんて読んで欲しくないからその本はあげる――とかなんとか言って。


 私は蹌踉めきながら立ち上がった。愚かな奴だ。私も兄も。こんなぐらいのことで正気を取り戻す自分が嫌いだ。こんなことをしていた兄が嫌いだ。


 飲んだくれている場合ではなかった。兄に逢わねばならない。それから仲間たちに対して責任を取らねばならない。畜生め、私はどうしてこんなに義理堅い性格になっちまったのか。知るか。この世はこんなにも愚かなことで満ちている。ならば、誰か一人ぐらいは、その日の気分に依るけれども、義理堅くたっていいじゃないか。


 これ以上は喪ってたまるか。手に入れては喪い、喪っては手に入れて、それが人生だと達観したフリをするのはもうコリゴリだ。キレた。私はキレたぞ。怒れる低学歴だ。誰が私を止められるだろう。突撃してやる。銃剣突撃だ。頭の悪い奴が開き直ればどれだけ恐ろしいかを知らしめてやる。


 お婆様よ。私は清掃業者を呼ぶしかないだろう家の中を歩きながら思った。申し訳ない、貴女がなんだかんだ大切にしていた祖父との思い出の家を私はこんなにしてしまった。許さなくてもいい。むしろ、私をキツく叱って欲しい。でもそれも、もう、叶わないんですね。


 最低限の身支度を済ませて家の外へ出た。玄関を出て五歩先の門と枳殻の生け垣の繋ぎ目にホスト風の男が背を預けていた。よおと手を挙げて挨拶してくる。


「須藤さん」酒焼けした、処理場で押し潰されるのを待つ可燃ゴミのような声で私は言った。「偶然ですね」


「超偶然だあね。右京ちゃんはどこ行くの?」


「兄のところに」私は咳き込んだ。「それから皆のところへ」


「苦しむぞォー」


「どうせ元から苦しいですよ」


 須藤さんは笑った。「暇なのよね。俺。アイツに友情を感じてもいるしさ」


「頑是ないですね。私も貴方も」


 私たちは憎たらしい、出来ることならハサミで四角く切り取ってクシャクシャに丸めてからゴミ箱にポイしたい青空の下を歩いた。連合生徒会館には近付けなかった。須藤さん曰く、今度のクーデター未遂は割と大きな事件に発展していて、会館の周辺には凄い数のマスコミが野次馬っているということだった。ならば、駄目で元々、鳳凰院へ行ってみようということになった。兄が居なくとも兄に関連する人が居るかもわからない。


 居た。私たちは兄の親友をとっ捕まえることに成功した。否、彼――宗近達人さんの方でも私達を探していたらしかった。学校前で立ち話は出来ない。私たちは近場でどこか人目のつかない場所へ移動しなければならなかった。私は以前、もう二度と訪れることはないだろうと決めたあの店を断腸の思いで選んだ。レンガ造りを模した店先に到着したとき須藤さんの表情が変わった。彼は「世間って狭いのね」と言ってからティーシャツの胸元にぶら下げていたサングラスを掛けた。


「う」吃った。「右京ちゃん」


 彼は八月を生きていくのに向いていないように思われた。「本当のことを話そう」


 達人さんは店のオバサンの運んできたお冷のコップを手にしながら言った。彼は昔と変わらない。我が家に遊びに来ては『陰気臭いデカブツだね!』と祖母に誂われていた頃から。『ゴメンよ、右京ちゃん、ぼ、僕は何もしてあげられなくて――』


「――いいかい、右京ちゃん、あの、シュラーバッハ会戦は確かに親会社の求めで勃発した」


 フランケンシュタインにも似た兄の親友は語った。終始、彼は後ろめたい人の浮かべる笑顔であった。


「君も予想している通り、アレは、会長と左京君が演出した戦争だったんだ。でもね、でも、左京君がそうすることにしたのは、派閥争いとかいろんな柵に巻き込まれてでも、そうするようにしたのは僕と僕の妹のためなんだ。僕には、僕にも妹がいる。少し軽率だけど可愛い妹だ。その妹が病気になってしまったんだよ。去年の冬からだ。難しい病気でどうしても手術しなければならなかった。でも片親だからね、うちにはそんな余裕なんてなかった。それでどうしよう、って、左京くんに相談したら彼はこう言ったんだ。『妹か』と。『兄でも弟でも姉でもなく妹か』と。彼が会長と親しくなったのはそれからなんだ。最終的に、会長と左京君の援助で妹は手術を受けられた。もうそろそろ退院もできる」


「だからなんです」私は苦笑しながら尋ねた。「それを私に伝えたかった理由は」


「左京君を許す必要はない」巨人は諭した。表情がサッパリしていた。


「ないと思う。少なくとも僕は。君は誰も許す必要はないんだ。でも、ずっと、何時までも彼との決着を着けずに生きていくのもよくないと思う。それだけなんだ。君が左京君の妹でないなら僕はこんなことを思わなかっただろう。つまり、僕は君に原動力を与えに来たんだ。君の兵はいま僕らと対峙しつつある。戦端が開かれるのは時間の問題だろう。僕はそこに君が帰ってくることを望んでいる。そうなれば酷いことになるのを知っていてさえ。君が君の思うさま僕や君のお兄さんをぶち殺してくれればいいと願っているんだ」


「ですか」私は可能な限り不敵に笑った。「なら無駄足でしたね。貴方と逢う前から私はもうそのつもりでした」


 殺害予告をされたに等しい達人さんはそれでも嬉しそうに笑った。そして、あの老婆の声が聴こえてきた。須藤さんが勢いよく椅子から立ち上がった。



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