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7章3話/かわいそうなおんなのこ

 私なんかよりずっと良い子のミーちゃんとマーちゃん――がいた。五歳の頃の昵懇(なかよし)だ。ホッカイドーの地、どことなく血走った目の幼稚園教諭から日に一回はきっと叱られる私を、二人はすかさず励ましてくれた。


 二人とも死んでしまった。その訃報を避難所になっていた、寒くて、騒々しい体育館で知った私は泣いた。自己中心的な嘆きだった。彼女たちはもう二度と自分を助けてはくれないのだ。


 泣き続けた果て、なにがキッカケか、私はふと勘繰った。なぜ悪い子の私ではなくて良い子の彼女たちが死んでしまったのだろう。『ああ!間違えた!』と、誰かが何時か私を連れに来るのではないか。『連れて行く子を間違えた! 間違えた! 間違えてしまった! 彼女たちの筈がない。当然、お前に決まっている。お前に生きている価値なんてないからね。準備をしなさい。荷物を纏めろ。この世から居なくなる覚悟を固めておくのだ』


 私は震えた。眠るときは兄に抱き着かなければ絶えず不安に苛まれた。兄はその私を安心させるべく、この頃から、眠る前の私に本を読み聞かせるようになった。暗い、停電の続く、凍えてしまいそうな中で兄の声はまだソプラノだったのをよく記憶している。


 そう、――月明かりだけを頼りに展開される、兄のその愉しげな語りに惹かれてやってくる他の子どもたちを私はいちいち突っぱねて回っていた。『駄目、これは私だけのお兄ちゃんなの! 私だけの!』


 私と兄が幼少時代をホッカイドーで過ごしたのには、(何事もそうであるように)、理由がある。私が悪い子だったからだ。


 幼少時代、父の私に対する口癖は『泣くんじゃない』だった。『右京、泣いたらいけないよ。父さんはお前よりずっと酷い目に遭ったことがあるけど泣かなかった。怖い? 平気だよ。大丈夫。目を開けてごらん。それで泣くのはもうおよし。世の中には泣いてもどうにもならないことが沢山あるんだからね。父さんの顔を見なさい。怖くないだろ? 安心しなさい。安心しなさい。安心なさい』


 ただし、私が泣くのは、その父が周りに隠れて私を殴るからであった。よしよしと父は微笑む。私の頭を撫でながらこう言う。『泣き止んで偉いね。もう怖くないね。怖くないことなら誰にも言わなくていいね。もし、言ったとすればお前は悪い子だよ。悪い子は――するからな』


 私は良い子になろうと努力したのだ。自分なりには。だが駄目だった。私は――されて当然の、――している価値もない、――であった。


 祖母は倒壊したホッカイドーの家を捨てた。『どうせ爺様の道楽で越してきただけなんだからね』と彼女は吐き捨てるように言った。『花だの木だの池だのなんだのあの爺様も随分と変な趣味だったよ。くたばってからもう三年になるんだ。そろそろ忘れてもいい頃さ。はん』


 私と兄とは何年かぶりにトヲキョヲの家へ戻ることになった。私は不安だった。けれども心配することはなにもなかった。両親は離婚して母だけが家に残っていた。否、父も数ヶ月に一度、やってくるにはやってきたが、彼の表情は以前に比べて穏やかだった。


 だとしても私は父を恐れた。父は兄を可愛がるようになった。挫折した研究者である父は兄にあらゆる理系知識を叩き込んだ。こちらは大学で研究をしていた母も、なんでもすぐ自分のものにする息子を持て囃した。実のところ望んで父と離婚したわけではない母であるから、もしかすると、彼女、兄を父と縒りを戻すための橋渡し役にしたかったのかもしれない。穿ち過ぎかな?


 ポツンとした私を相手してくれたのが祖母である。祖母は父は無論のこと、この頃から娘と兄までを冷評するようになっていた。『あのガキは大人に好かれる方法をわかってるのさ。可愛くないね。自分の母親と妹の人生を台無しにした男にあれだけ懐くなんておかしいんじゃないか』


 家に居たがらない祖母は私をよく表へ連れ出した。年金支給の破綻し始めていた時代だったので、私が連れて行かれたのは図書館や美術館や町の野球場であった。多趣味で、なにかにつけ一家言ある祖母は私を文武両道に育てたかったらしい。


野球を始めさせられた私は身体を動かすのが好きだということに気がついた。あの、いつまでもしつこく付き纏う死への恐怖、それに自分が無価値であるということを忘れることができたし、そもそも勝つとか負けるとかが好きだった。運動をした後の心地よい疲労感も。野球場からの帰り道、あの土手、祖母の漕ぐ自転車の後ろで彼女に抱きつきながらうたた寝をするのは最高だった。


 ところが、あるとき母がこのように言い出した。『あのね、やっぱり近頃は学歴なのね』である。右京子にも勉強を教えてあげるわ。外で遊んでばかりいないでウチに居なさい。ね。そうなさい。母さんは口を出さないでちょうだい。


 私は母から付きっ切りで勉強を教わったが効果は薄かった。母はカッカとした。『あー、もう、なんでアンタはそうなのよ。お兄ちゃんを見習いなさいな。もういいわ、アンタ、野球、やりたいんでしょ? 全く。どうしてこんなに兄と妹で差があるのかしらね』


 勃然(とつぜん)、――私は恐ろしくなった。私は母にとって悪い子になりつつあるのではないかという新たな不安が心の中に芽生えた。私は母に縋り付いて泣いた。母は迷惑そうに、だが同時に、愛情たっぷりに私の頭を撫でた。『なに泣いてるの? 勉強する? だって、やりたくないんじゃないの? この娘はわからない子ねえ』


 世の中は一か百かしか認めない。やりたいけどやりたくないは存在しないものとして扱われている。好きだけど嫌いも。


 この頃からか。私は急速に兄から離れ始めた。兄から近付いてきてもそれを跳ね除けることが目立った。小学校に上がると“目立つ“が“露骨“になった。成績というモノサシが登場したからである。母はいよいよ兄に英才教育を施すようになった。私は祖母と二人、しばしば母から『兄の勉強の邪魔になるからアッチへ行っていなさい』と言われるようになった。不安が募る。不安が募る。不安が募る。


 暗い顔をしていたからだろう。私は学校で虐めに遭うようになった。ああ、カチューシャを取られたのもこのぐらいのときだ。私は母から貰ったそれを何よりも大切にしていた。母が私にくれたものといえばそれぐらいしかなかったからだ。いまでも、汚れたり壊れたりすると同じモデルのものを買って来ては愛用している。女々しい限りだ。


 最初は上履きが無くなる程度だったイジメは段々とエスカレートしていった。その理由は『私がホッカイドーから転校してきたから』だった。地震のあったときホッカイドーに居た人々は謎の伝染病に掛かっているから危険だ――などという風評被害があったのである。イジメをしていた連中とてまさか本気でその噂を信じていたわけではない。なにかイジメを始められる口実と名分が欲しかったのだろう。


 私は耐えた。巧妙に、人にわからないようにして行われる陰湿なイジメの数々を誰にもバラさなかった。だって、このとき、私が愛されたくてたまらなかった母は私が風邪を引くだけで怒るように――『なんで私の手を煩わせるの!』――なっていた。ヒノモトの財政はいよいよ厳しく、母の勤め先の大学も経営難、仕事場と兄の机の隣とを往復する生活が彼女を変えたのだ。この上、いじめられているなどとなぜ言い出せるものか。


 祖母と母との関係は目に見えて悪化した。祖母は母を怒鳴った。母も祖母に怒鳴り返した。それが毎日のように続いた。そこに父が居合わせると、彼はバツの悪そうに私を見てから兄だけを連れて自分のアパートへ避難した。一度だけ、右京もと誘われたことがあったが私の方でそれを拒否してしまった。


 同じようなことが父と母の間でもあった。父から申し出たらしい経済的援助を母が跳ね除けたのである。『アンタに何がわかるのよ!』と、彼女は時に包丁を持ち出して父を脅した。兄? 兄は喧嘩の後、きっと一人で泣き崩れてしまう母の背を擦っていた。だから祖母からまた嫌われた。兄は父同様、私に手を差し伸べることが何度となくあったが、――私はその全てをやはり拒絶した。そうだ。拒絶した。兄は私のことを嫌っていて当然だと思う。あれだけ自分の好意を否定されてなぜ私を好くものか。


 救いもあった。しつこく続けていた野球の仲間たちは優しかったし、頂とも知り合って仲良くしていたし、それに彼女がいた。


 キムである。名前の通り、隣国から出稼ぎに来た貧しい家の一人娘で、そうであるからには彼女も酷いイジメに遭っていた。放課後、野球がなく、頂も忙しい日には、私と彼女は二人して秘密基地で遊んだ。それは三軒に一軒が空き家のこの時代、郊外に散見される廃屋で、どういうわけかガスと電気が使えた。我々はそこで一匹の犬を飼っていた。公園に捨てられていた老犬である。私たちは自分たちが傷付けば傷つくほどにその犬を可愛がるようになっていた。


 可愛い犬だった。大型犬とは名ばかり、人に懐き、我々のような虐げられてばかりのものでも差別しなかった。別段、なにをしてやっているわけでもないのに我々に甘えてくるその姿は可愛らしく、裏腹に、雷の鳴っている日、その音から地震を連想して震える私の傍で吠える姿は凛々しかった。


 だが、そのうち、犬が弱ってきたのに私は気が付く。衰え? 違った。私はキムがあの犬を虐めているところを見てしまった。それはおぞましい光景だった。私と彼女は激しい口論を重ねた。


 その翌日である。私は喧嘩別れしたキムに謝りたかった。彼女の方でも謝って欲しかった。それで、二人だけの秘密基地で逢いたいと彼女に言った。いいよと彼女は快諾した。でも、後から、後から来て。先に行って待ってるから。


 私はそれを彼女の羞恥心の発露だと信じた。いざ秘密基地に到着してみると、そこにはイジメのグループがまたぞろと居た。キムは彼女らの背後で暗い顔をしていた。主犯格の同級生が何人かの手下に犬を抑えつけさせていた。『あのね』と主犯格の彼女は言った。『イジメ、やめて欲しい? 欲しいよね。この前ね、テレビで面白いものを見たんだ。ホラ、、コレ、この、電子レンジだよ。この犬、押し込めば入りそうだよね。わかるよね。そうしたらやめてあげるよ、イジメ』


 立ち眩みがした。そんなことのできるはずがない。主犯格は『じゃ、キム、やるよね?』と軽いノリで言った。やるとキムは拙い発音で言った。その拙い発音がキムの虐められている原因のひとつであった。


 キムは周りからエールを送られながら――『頑張れ! 頑張れ! 頑張れ!』――犬を電子レンジに押し入れてそのスイッチを押した。爆発音がした。水音もした。古びた電子レンジの薄汚い扉に何かが付着した。主犯格の彼女はその扉を開けて『くさーい』と笑った。これで終わりではなかった。主犯格はキムの肩を叩いて言った。


『お前の国では犬を食べるんだってね。ん? これ、犬じゃん? 電子レンジって調子器具じゃん? あれあれあれあれ~?』


 極限状態になると人は笑うしかなくなる。私は笑った。馬鹿みたいに笑った。ニタニタ笑った。キムは虚ろな表情と目で咀嚼を繰り返しながらゴメンナサイと呟き続けた。せめてごめんなさいぐらいはまともな発音で言えるようになりなさいよと主犯格が腹を抱えて笑った。


 私が復讐を決意したのはその三日後だった。主犯格が泣き腫らした目で学校へ来たからだ。『飼い犬が死んじゃったの』と彼女は言っていた。


 ああ。私は思った。こいつは殺そう。殺した方がいい。殺さないと気が済まない。


 そういうわけで私はある夜、彼女を、色々な話を捏ち上げてある公園へ呼び出した。私は叢に隠れた。石を持っていた。彼女が来た。どうしたかは言いたくない。ただ帰路、私は何故か泣いていた。空には綺麗な星が出ていた。あのと私は思った。星のひとつが落ちてきて綺麗な音で私を殺してくれればいい。畜生、自分はいま罪を犯したことに酔っているのだ。悲劇の主人公を気取っている。こんな自分がたまらなく嫌だった。――このとき初めて理解した。あ、そうか。こんなんだから私は愛されないわけか。


 翌日、半殺しにした彼女の母親がやってきた。貧しいナリの彼女は厳しい表情をしていたが、どこか、いまにも笑い出したいようにも思われた。彼女は私の隠していた事実を自分の娘にとって都合の悪い部分だけ取っ払って話した。私にはその不公平を糾弾する気力もなかった。彼女の母はこのことを警察沙汰にしないのを条件に私の母から法外な金銭をせしめた。


 母は『アンタらしくもない!』と泣き叫びながら私を打擲した。父はこのことを知らされなかった。祖母は『莫迦だね』とだけ呟いて私を抱きしめた。兄は例によって泣き崩れた母の肩を抱いていた。昔から兄は泣かない人だった。


 何事もなかったかのように私は学校へ通わされた。主犯格の彼女は転校して行った。これまで私とキムをイジメていた連中は掌を返した。のみならず、自ら、かつての悪行を担任教師に打ち明けてクラス会を催した。問題を大事にしたくない担任教師は彼らと私の仲直りを素晴らしい手際で演出した。連中がクラス全員の前で私に謝る。私は『いいよ』と言わされる。連中の都合で始まった虐めが連中の都合で終わった。一言で。終わらせる権利が、なぜ彼らにあるのだろうか。私ではなく。


 晴れて無罪放免、連中は伸び伸びと学校生活を楽しんだ。キムは私の『仲直りしよう?』を断った。彼女はゴメンナサイしか言わなくなってしまった。ならばと周囲に新たな人脈を求めても、私は厄介者扱い、丁寧に接されこそするが、アイツはヤバい奴だから近づいてはならない――という風潮が完成していた。事実なんですけどね。


 私は学校に通ったり通わなくなったりするようになった。兄との学力の差はこの頃には決定的なものになっていた。私を見兼ねた祖母はせめてこれぐらいはと日々、私に本を読ませるようになった。私は夢中でそれに齧り付いた。本は色々なことを教えてくれる。どうすればまともに生きられるのか。どうすればまともに愛されるのか。私はその答えを文学に求めた。無論、そんなものはどこにも書いていなかった。


 死に体の私にトドメが刺されることになった。


 あの事件以来、母は家を空けるようになっていた。今更、母からの歓心を買おうなどという心積もりのない私ではあったが、とはいえ、彼女を憎んでいるわけでもなかった。だから捨てられる恐怖に負けた。私は夜中に出掛ける母のあとをこっそりと着けた。母は家の近くの交差点で車に乗り込もうとしたときに私に気がついた。動きが止まる。怪しんだのだろう、車の中から出てきた運転手は男性だった。彼は母に尋ねた。「まさか君の子なのか? 子供はいないって言ってたじゃないか」


「違うわ」母は無感動に言った。「あんなの知らない子よ」


 私は死ぬことにした。だが死ねなかった。手首を切るときは横ではなく縦に切るように。私との約束だ。


 私は児童相談所だの児童精神科だのに連れ回された。ある病院で私は医師からこう尋ねられた。『なにか、死んじゃいたくなるようなことがあったはずでしょ? 先生に話してみなさい』


 マシな先生である。精神科の先生は患者が長く話そうとすると嫌がるか、私は当事者でないから話を聴いても理解できないと初手から諦めてしまう。


 私は思った。ここだ。ここで全てをぶちまけるのだ。ある意味でコレも復讐だ。母への。父への。兄への。もしかすると祖母に対する。付き添いで来ていた機嫌の悪い母はハッとしていた。何か思い当たる節があるのだろうか。あるんでしょうね。両親のことも家庭のことも学校のことも何もかも打ち明けてやるからな。


 話せなかった。私は入院することになった。


 そこでの生活は概ね、楽しいものだったが、私を見ては『君はどうやら両親と仲が悪いようだが産んでもらった恩を忘れてはいけません』というようなことを長々と説教する先生だけは嫌いだった。ちなみに、その先生の話を誰かにすると、必ず、ああ、それってお爺さんだったでしょと言われる。違う。若い女の先生だった。大嫌いだ。なぜ断定するのか。先入観を持つのか。どいつもこいつも大嫌いだ。くたばればいい。


 病院を出ると世界が変わっていた。母は私に通告せず労働条件の良い外国へ行った。父の行方は杳として知れなくなった。祖母は私を目一杯――『無理に立ち直る必要なんかないんだからね』――甘やかすようになった。兄とは? 口を利いても嫌味ばかり言い合うようになってしまった。それだって私が始めたことだ。


『兄さんはいいですね、優秀で。皆んなから褒めそやらされて。何も悩みなんてないでしょう』


『……。……。……。そうだな。そうだよ。もちろんそうだ。お前と違ってな』


 学校へも行かなくなった。野球にも興味を示せなくなった。


 愛情遮断性低身長の私は同年代の運動に着いていくことができない。内心でコイツと野球するのかよと思っている人たちが無理に作ってくれる笑顔に負けないほど私は大人になれなかった。そんなの気にしなければいいんだという、親切な、それだけに始末に負えないアドバイスの数々にも悩まされた。『悩みなら誰でも抱いてる! 他の皆んなは頑張ってる! どんなときでも努力すればなんとかなる! 生きてるのは素晴らしいぞ?』


 私は小六の時点でヒッキーになった。たまに、頂に誘われて出掛けることはあったが、それも、事前に予告しておいてくれないと無理だった。『この日は出掛けるぞ!』と、一週間前から気持ちの段取りをしなければ表へなど出られなかった。出掛けられても通りすがりの誰かが笑う度に自分が笑われているのだと錯覚した。


 わかっていた。この世の、ありとあらゆるものが私のために用意されたものではない。逆に、私が誰かのために、例えば母とか父とかのために用意されたものであることを。役に立たなくて申し訳ない。頼むから殺してくれ。死ぬ努力をする気力も私にはなかった。(『本当に死にたい人間は死ぬ死ぬ言っていないで何時の間にか死んでいる』というのはケース・バイ・ケースだ。本当に死にたくても死ぬための手筈を整えられないほど疲れてしまっている人間もいる)


 死にたくて生きたかった私は隠れてお酒に溺れるようになった。何故って、年上の男も煙草も薬もリスクがあり過ぎたからだ。その点、酒はネットで買えて通販で届く。文学の影響も無論、あった。


 天が呼ぶ地が呼ぶ人が呼ぶ――ストロンガー・ゼロであれば子供の小遣いでも何本かまとめ買いすることができたし、事実、飲んで酔えば全ての不満を忘れられた。向精神薬や睡眠薬との飲み合わせの悪さから来る体調不良、二日酔い、そのときは気分が良くても後でハッとしたときに来る自己嫌悪、これらには辟易したけれども、そのぐらいで酒を辞められるなら苦労はしなかった。


 立派なアル中になって初めて病院に担ぎ込まれた中ニの春、桜の舞い散ったのが入り込んでくる、それはそれは美しい病室内で私はオバサンたちとテレビを見ていた。そこにあのイジメの主犯格の彼女が登場したから私は驚いた。彼女、苦学生で、努力の結果、高学歴中学に通っているという。ある全国的な作文コンクールに入賞したので地元テレビが取り上げていたのだった。


『立派ねえ』とオバサンAが言った。


『偉いわねえ』とオバサンBが言った。


『右京ちゃんも見習うべきよ』とオバサンCが言った。


『こういう子もいるんだから。右京ちゃんだって同じ中学生の女の子なんだしね。やればできるわよ』


 テレビの中で紹介されていた彼女の肩書は全国人権作文大会最優秀賞受賞者だった。


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