7章2話/さよならだけが人生だ
『女二人で夜遊びなどいけません!』と、私のママ(一七歳)は言った。男性がいればいいんですねと私は尋ね返した。それはそれでと頂は言葉を濁した。要するに自分が同行すると言い出したいのはわかっていた。だがこのとき、私はどうしてもこの幼馴染を隣に立たせておきたくなかった。平生、あれだけ懇意にしてくれる友人であるからこそ見せられない弱みというのもある。否、そういうものばかりかな?
私はならば俺がとボケ倒す剣橋さんを黒歌さんに預けた。那須城崎さんから小銭を借りる。投木原さんに電話した。いまから行くところは確かに女二人では危険かもしれないからであった。投木原さんをチョイスした理由は単純だった。なにかあれば直ぐに呼んでください何処へでも行きます――と、以前、私は投木原さんから言われたことがあったのである。
彼が私にそこまで尽くしてくれな理由を、私はもう、このときには知っていた。それは“左右来宮さんがツッパってるんで”とはまた別の理由であった。大したことではない。しかし、私が彼を信頼するには十分な理由でもあった。彼にならこれから私のする話を聞かれてもよかった。
私と吉永さんは投木原さんが運転してきた怪しげなバンの後部座席に揺られた。『気をつけるのですよ』と銭湯の前で頂が私たちを送り出した。まあ、ハイエースですからね、ええ。私みたような外見の女がコレに乗せられる様子を、見る人が見れば、それは、あー、心配するでしょう。
「これは投木原さんの車なんですか」私は窓に備え付けられたカーテンを開けたり閉めたりしながら尋ねた。
「いえ」投木原さんは安全運転に努めながら答えた。「俺の舎弟のです」
「舎弟」吉永さんは目を丸くした。「いまでもあるのね。そういうの」
投木原さんは敢えて感情を込めずに頷いた。「一応、本当に一応ですが、不良でスんで」
「ははあ」吉永さんは分かっていないときの表情を閃かせた。「なるほどね」
「ある種の体育会系というか」私は、差し出がましいかなと思わないでもないが、補足した。
「縦社会ですからね。不良社会は。ある意味、軍隊的な、厳格で緻密な指揮系統があるというか」
良くご存知でと投木原さんは言った。まあウチも似たようなものでしたからと私は苦笑した。
投木原さんは彼の組織について我々に簡単に教えた。組織は大きく二つに分けられる。投木原さんを中心に構成される“頭”がそのひとつである。もうひとつは手足に相当する複数の小集団だ。小集団はそれぞれに専門性を帯びている。例えば喧嘩担当、買い出し担当、出処がアレなバイクなどを買い付けたり売り飛ばしたりする担当、――等である。
今回の場合、私から連絡を受けた投木原さんは、信頼している腹心に『車を用意してくれや』と告げた。ゲストをお迎えするための車だと言い添えて。出来るだけチョッパヤで頼むと。
腹心君は小集団の中から、その仕事を手早く正確にこなせそうなひとつを選び、投木原さんの指示をより細かくしたものを命じた。
命じられた小集団の長はと言えば、創意工夫、持ち駒を最大限に活用してその仕事を実施する。若しくは実施させる。誰も否応などない。車は、正確には、舎弟の舎弟の友人のものだそうだ。『投木原さんが必要としてるから貸してくれや』の一言で借りられたという。
こう解説してしまうと、なんだそんな程度のことか、そう思わなくもない。程度の差はあれど、実のところ、誰でもやっていることではある。『これやっといて』と友人に頼むのと同じだ。
しかし、恐るべきは、そのルーティン化、つまりは要求に対する解決速度と服従度合いだ。
『これやっといて』は相手の善意に依存する。お願いしたタスクを消化して貰えるまでには何時間か、長いと何日か、もしかすると何年経っても終わらない可能性がある。終わったとしても不完全な形で終わるかもしれない。(誰が自分の乗る訳でもない車を、他人に頭を下げて、借りるのに熱心になるだろうか?)
不良集団においてなら、上が命令を発してからその命令が形になるまで、三〇分だ。誰も自らの責務を放棄することもない。放棄すればどうなるかを、ある程度の偏見、特に同業者に対する深い偏見に基づいて、理解しているからである。
……我々は私の地元から程近い、トヲキョヲなんだかカナガワなんだか、道を曲がる度にカーナビがガタガタ抜かすある街を訪れた。品のいいところでは決して無かった。ホテル街であった。狭くてジメジメとした道の両側をピンクとかゴールドに光るネオン・サインが飾っている。
「わーお」適当な駐車場に車を突っ込んだところで吉永さんが唸った。「ちょっと二人の関係をそこまで先に進めるには早すぎない?」
投木原さんは口を噤んでいた。私はニタニタした。「こういうところで聞くと別の意味に聴こえますね。――コッチです。来てください」
そして、私が二人を案内したのはある桃色ホテルとホテルの間にひっそり閑と佇む雑居ビルの二階だった。そこはこの辺りを訪れる危ない客を相手に営まれているバーだった。名は『キャバレー・ヴォルテール』という。(キャバレーからが名前であって、実際にショーだのダンスだのが楽しめるわけではない)
まず、こんなところにバーを作るという発想が危ない。だから集まる客も危ないのだった。
「おろろろろろろろ」もちろん店員も危ない野郎だった。ベルの音と共に扉を潜るとカウンターだけの店内には須藤さんがいた。彼はサングラスの奥から我々をとっくりと観察した。そうしながらも布でグラスを磨いていた。客は私達の他にいなかった。照明は控え目である。
「どうしたのよ」並んで座った我々に須藤さんは尋ねた。
「物日でしてね」私は苦笑した。
「物日って何よ。まあいいや。いつもの?」
「いつもので」
「え、なにそれ格好いい」吉永さんがトボけた。
「須藤君ってこんなところで働いてたの。って、こんなところって言っちゃアレだわね」
「ええのええの。こんなところだもん、実際。お姉ちゃんは何にします?」
二人はクーデターの会議で何度か顔をあわせている。吉永さんはおまかせでと言った。須藤さんはかしこまりましたと腰を折った。彼はお前はなんにすんだよと女の子に対するのとは打って変わった態度で投木原さんに尋ねた。投木原さんは酒は飲めねえんでオレンジ・ジュースをくれと噛み付くように言った。
「いいね」須藤さんは割材のオレンジ・ジュースをカウンターの下の冷蔵庫から取り出した。「気に入った」
須藤さんの手際は優れていた。彼は吉永さんのためにラム、ウォッカ、テキーラ、ドライ・ジン、レモン・ジュース、オレンジのリキュール、それに砂糖をシェイカーであわせた。更にそれを氷で満ちたグラスに注ぎ、コーラで満たす。飾りのレモンとグラスの縁をディープ・キスさせれば明るい陽の色をしたカクテルができあがった。
彼のこういうところが私は好きだった。何も決定的なことを告げていないのにロング・ドリンクが出てくる。
「このお店ってまさかと思うけど」吉永さんはグラスの冷たさを指先で楽しみながら言った。
「いやいや本当にまさか」須藤さんは笑顔で否定した。「ワンオペはしてるよ? でも俺の店じゃあないんだねえ」
「うちの部長の知り合いが経営してましてね。あ、元部長か」
私は琥珀色のお酒を口に含んだ。噛む。ゴムのような香りが鼻腔を抜けた。あとからバニラのような甘い香りが口の中を満たした。味そのものはドライ・マンゴーにも似ている。「オーナーは一代分限のセレブです。趣味でこういうところに店を出したんだとか」
「前はよく部の仲間で来てくれてたよなあ」須藤さんは言い添えた。
「懐かしいですね」私はその思い出に向けて乾杯した。
「懐かしいって言わなきゃいけないのが悲しいね。ま、バーで騒ぐような連中なんてコッチから願い下げだけんどもネ」
「その節はご迷惑をおかけしまして」
「右京ちゃん、お酒を飲んで騒ぐこととかあるのね」
「あるもなにも。前の戦勝パーティのときもそうだったんじゃないですかね。私、酒乱ですよ」
「ウチではないよ? でも、一年前か、アレも。居酒屋で騒いでたとき救急車を呼ばなきゃならんくなったこともあったんだよなぁ。あれこそ懐かしいぜ。いまからすれば笑える話だけどさ。当時はテンパったね。だって、もう、白目。白目だよ。白目。剥いちゃってんの。アヘ顔。アレはビビッたなぁ」
「ほえー」吉永さんはグラスの横原でピアノ演奏をするように指を動かした。「そんなことがね
。――で、そんな思い出の場所に私を連れ込んだのは? マジで酔わせてアレっていうコースなら、うーん、どうかしらねー、ちょっぴり、やっぱ、もうちょっと考えてからじゃないと無理かしら」
「実は」私はグラスの中に目線を落とした。この丸い氷を作れるっていうマシーンを前にネット通販で見たのを思い出した。欲しいような気がした。欲しくないような気もした。須藤さんがそれとなくカウンターの奥へ引っ込んだ。
「私と兄の話を聞いてほしくて。どうしてこういう、いまの関係になったのか、という」
「私に?」吉永さんは自分を指差した。
「貴女に」
「どーして、また」
「貴女が、――あ、投木原さん、席を移らなくていいですよ。貴方にも聞いて欲しいですから」
投木原さんは男らしく頷いた。彼は浮かせた腰をスツールに据え直すとオレンジ・ジュースをストローで飲んだ。彼は私なぞよりよほどお行儀がよかった。
「貴方がいちばん話しやすいからかな。なんていうか、その、言い方はアレですが、貴方がいまのところ、いちばん、だから、私の身近にいる高学歴ですから」
「ははあ」吉永さんは訳知り顔になった。「そゆこと。でも剣橋君もいるじゃない。彼と右京ちゃんって相棒感あるけど。というか、ニコイチ感?」
「流石に二人で暮らしたことはないですからね。いや、実のところ悩みはしました。彼か貴女か。でも貴女ですね」
「それは光栄」吉永さんはムフと笑った。「ちなみにもうひとつ訊いていい?」
「どうぞ」
「なんでそんな話をする気になったの? 動機ね」
「ぶっちゃけて言いますよ」
「ぶっちゃけて言いなさい」
「最近、あまり高学歴を殺しても面白くない。それです」
吉永さんはパッチリした二重瞼を盛んに動かした。それからアハハハハハハと笑った。その笑い方はここで部の仲間たちと遊んでいた時期のことを私に思い出させた。
「それならそれでいいわ」吉永さんは目の端に浮かんだ涙を指で払った。「じゃ、心して聞きましょう」
「どうも。さて、どこから話そうかな。長い話ですからね。途中、お花を摘みに行くこととかがあれば教えてください。二時間ぐらいは掛かると思いますから」
二時間どころではなかった。三時間であった。私はその間に四つのグラスを重ねた。吉永さんは私の半分だった。投木原さんは身動ぎひとつせず私の話に没頭してくれた。須藤さんはただただそこにいるだけの男として振る舞った。話の終わったのは壁掛け時計が一ニ時を打ってしばらくが経ってからだった。
「そりゃあ」吉永さんは感慨深そうにしていた。「ああいう関係にもなるわ。そういう性格にもなるわ」
「そういう性格ですか」私は効き過ぎた空調をありがたく思っていた。頬が熱かった。
吉永さんはよく磨かれた樫のカウンターに両肘を着いた。顔を両手で支えるような体勢を取った。彼女の頬も常よりかは赤かった。
「言っちゃえば根暗?」吉永さんは冗談めかした。
「ですか。やっぱり根暗ですかね」
「まあ、その、うん。うん。右京ちゃん、言いたいこととか言えない人でしょ」
「精密には言わない人――かな。たぶん。そう思っています。自分では」
「だから迷ってるんだもんね。お兄さんとの付き合い方に」
高学歴という輩も捨てたものではなかった。ならば兄はどうか。私がずっと――ずっと、頂にそう指摘されるまで、私のことを嫌っていると思っていたあの兄は、本当に私のことを好いてくれているのだろうか。私は先入観だけで物事を判断し過ぎているのではあるまいか。
こういう懸念は前からあった。にも関わらず、それを素直に検証することは今日までしてこなかった。吉永さんの指摘するように性格故であった。(性格故で片付けるのは逃げになる気もした。つまりはそういう性格でもあった)
「あのさ」吉永さんの声は低い音量で掛けられているピアノ曲と見事に調和していた。「いっそ酔っちゃえば」
「ゑ?」
「だから、酔っちゃえば。酔えば割と好き放題に出来るタイプなんでしょ。なら酔っちゃえばいいじゃない。で、お兄さんに突撃すると。得意でしょ。突撃」
青天の霹靂とはまさにこのことかもしれなかった。その手があったかと私は自分の思考力の程度を蔑んだ。どうも私にとってのお酒とは嗜好品、それも現実から逃避する手段であることが多かった。味わっていないとはいわない。美味しいと思って飲んでいることもある。だがそれ以上に、アルコールの齎すあの酩酊感、それにゾッコンだった。
これもまたひとつの先入観と言うべきだろうな。私はニタニタした。出来るだけ物事を多面的に見よう――などという、あまり建設的でない考え方をしているはずの私だが、所詮、私は私であった。なるほどね。そうか。お酒にはそういう使い方もあったな。たまに誤解して、その誤解を何時までも信じ込んでいることが私にはあった。うん。お酒にもまともな使い道があるんだった。というか、何物も使い方ひとつで良くも悪くもなるのだった。(酒の力を借りて本音を語るのがまともな使い道だと判断してしまう辺りも私らしい。だからこそ、そのアイデアが気に入った)
私はウォッカ・マティーニを所望した。ステアではなくシェイクで。(ところでマティーニと言えば、美女にベルモットを飲ませて、その吐息をかぎながらジンを飲むという変態的な楽しみ方がある。いや、それマティーニなのかという無粋なツッコミはさておき、ココには吉永さんという美少女がいた。私は誘惑に駆られた。危ういところで堪えた。代わりに吉永さんの猫っぽい目から連想したオールド・トムを私は狂おしいほど欲した)
「では本格的に酔っ払う前にお訊きしたいんですが」
「答えられることならね」吉永さんは伸びをした。
「吉永さんはなんで私にこれだけよくしてくれるんです?」
「よくしてって。そんなにしてるかしらねー」
「してますよ」私はマティーニを啜った。一発で胃の中にひまわりが咲いた。
「理由らしい理由は――まあ、あるんだけど」
「あるんですか」私は苦笑した。
「右京ちゃんにだけ話させるのは何だしね」
吉永さんはクピクピと可愛らしくお酒を飲んだ。ふうと息を吐きながら私に向けられる彼女の秋波は女の私ですらゾクゾクさせるものがあった。
「ウチはねー。お父さんもお母さんもバリバリの高学歴だったっていうか、ザ・低学歴嫌いを拗らせてる感じだったのよね? 犯罪の九割は低学歴が起こすんだー、って、割と真面目に言ってたのよ」
「はあ。それは」私は意外だった。
吉永さんは何年かぶりで再会した親友とすっかり話題が合わなくなっていたときのように目を細めた。「で、私もそれを鵜呑みにしてたのよね」
「はあ。それは」私は芸のない返事をした。「想像もつきませんね」
「にべもなかったわよー、そりゃもう! 電車の中で、制服、見るでしょ。それが偏差値、低いところのだと、うわあ、あの高校の制服を着てる、最悪だな、勉強とかしなかったのか、ああはなりたくないなーとか思ってたし。で、それが変わったキッカケが高校受験のときでね? あの日、もうそれが凄い雪で、除雪車はぜんぜん走ってないから駅まで遅れる、電車も遅延しまくり、苛立ってた私はまずお財布を落としちゃったわけ。それでワーワー慌ててね。受験票、お金、全部、お財布に入ってたし。でも、とにかく混乱してたから受験会場に行かなくちゃって思って電車に飛び乗ったら、今度はだって、痴漢に遭うし。電車も止まるし、付き合わされる周り、みーんな犯人じゃなくて私に『いい加減にしろよな』って言うし。ただ、最終的にはぜんぶ丸く収まっちゃったのよね。犯人、最初は痴漢なんかしてないって言い張ってたのよ。相手、落ち着いててコッチは慌ててるから、警察の人も犯人を信じそうになってて。けど、そこで『自分は確かに見た!』って言ってくれる人がいてね」
吉永さんは肩を大きく上下させた。「他にもお金を貸してあげるよって言ってくれる人がいたり、なーんか気が付いたらスマホの充電が切れてたんだけど、じゃあ僕のを使えばいいって言ってくれる人がいたり、事情を学校に説明するのを助けてくれた人もいたわね。しかも学校まで着いてきてくれて。で、助けてくれたその人達が、みんな、ずーっと『こういうのだけにはなりたくないなあ。気持ち悪いなあ。でも、どうせあっちでもそう思ってるんだろうなあ』とか私が信じてたタイプだったのよね。だから私、助けて貰った癖に、そのときは態度が悪くてね。『なんで助けてくれるんだろう』って気味、悪がってた。あの人達がなんで助けてくれたのか、って、わかるようになったのはそれからどれぐらいが経ってからだったかしらね。もしかするとまだわかってないのかも」
彼女は含羞んだ。私は目を閉じて頷いた。投木原さんが腕を組んで天井を見上げていた。
「ま、そういうことがあってからも偶に、実は心の中で『あ、やっぱり低学歴って頭、悪いなあ』なんて思っちゃうことがあるのよね。本当は。ここだけの話、右京ちゃんに対してもそう思うことあるし」
「あるでしょう。それは」私は認めた。
「かしらね。ま、そう言ってくれるならいいけど。うん。ああいうことがあっても両親が全面的に間違ってるとは今でも思えないし。でも、なんてゆーのかしらねー、うん、だから結局、私はただ私がやりたいように、感じてるままに、誰に何を言われようとしよう、って思ってるんでしょうね。つまりは自己満足よ。自己満足のためにこうしてるの。そこに親しみとか友情がないって言えばもちろん嘘になるけどね」
私は三杯のマティーニを干した。
私の中でなにかのボルテージが最高潮に達しつつあった。今日まで封じ込めてきた幾つかの想いがどうしても抑えきれなくなっていた。それをそのまま兄へぶつけるのは憚られた。私は大変な申し訳なさを感じながらもまずは甘木さんに甘えることにした。彼には甘えてばかりだ。いつかお礼をしなければならない。
――そう思った夜も今は昔、その甘木さんは兄だった。





