6章16話/ハッピー・エンドを夢見ていつか
甘木さんにメッセージを送った。『私の兄は最高です』
己は画面からしばらく目を離せなかった。違う。お前の兄は最低だ。
この朽ち果てつつある建物はロホーヒルヒの外れにあるわけではない。むしろ今現在における最大の繁華街、そこから二筋しか離れていなかった。
それをよすがとして考えを進めれば容易に推察できる如く、ココは前の皇帝が必要に応じて――だから、まあ、なんと言うか、えー、ゲーム内であろうが外であろうが、男性であれば誰もが切り離せないアレとかコレな欲求を満たすために建築された。表向きはもうひとつの大陸からやってくる外交団を迎賓するための館とされていたそうだが、邸内のあちこちに施された過剰な色彩は所々が剥げながらも未だ生々しく、注意すれば男と女の香りが鼻を突く気がしなくもない。
己はその回廊になっている中庭を歩いていた。一人だった。ほのかに肌寒かった。陽はとう落ちている。昼は夏でも夜は秋、もう何枚かのカレンダーを破ると日中でも過ごしやすくなるだろう。
空はビッシリと重たい雲で覆われていた。尤も、ロホーヒルヒはその北部に聳えるチャコラ山のために(チャコラ山を超えるとき雲が多くの水分を失ってしまう)降雨量が少ない。降ることはないだろうと思った。降れば明日以降の面倒が増す。振らないで欲しいと願った。
皇帝の代替わりに伴って閉鎖、廃止、民間に払い下げられるはずが買い手が着かず、ついに放置されたままになっているだけあって、吸い込む空気は湿っぽい上に埃っぽい。庭には枯れるか腐るかしている草花の上にニ本の、中を虫に食い荒らされた木が倒れ込んでいた。己はその木の傍を通って庭を横断した。庭は高い塀に覆われている。その塀よりも更に背の高いガス街灯の明かりが己を斜めに照らしており、一歩、己が動く毎に己の影が忙しなく伸び縮みした。
石造りの扉に手を掛けた。扉そのものは無論、取手も壊れかけている。一応、左右を見た。後ろも振り向いた。誰にもツケられてはいないはずだった。扉を開けた。そこにはクーデターのメンバーがずらりと顔を並べていた。ランプの光量はなるたけ切り詰められている。
そうしなければならないことではあるにせよ。己は後ろ手に扉を締めながら思った。毎回、秘密会合の場を変えるのは面倒なことだ。
己は己に目線を向ける剣橋、黒歌、それに冬景色らの師団幹部に頷いてみせた。剣橋が揃いましたと妹に告げた。妹も頷いた。室内には椅子がなかった。ただ中央に、脚の緑色に変色しつつある長机があった。妹はその長机に手を着いて語り始めた。
「ギリギリでしたが」
大机にはロホーヒルヒの地図があった。「なんとかなりそうです。ご迷惑をお掛けしました」
お辞儀をして、妹はグチャグチャになるまで酷使した両手の成果を披瀝した。
我々はパレードを逆手に取る。己からの、駐屯軍司令官直々の命令で、当日、妹の師団は担当する予定でなかった警備区画まで受け持つことになる。それは専ら皇居周辺や官庁街など以前から制圧目標に定められていた区画である。占拠すべき地点に先に兵を配置することができるのだ。誰かが我々の企みに気が付いたところでパレードが阻止の邪魔をする。無論、我が方もまたその連絡、特に伝令をパレードに遮られてしまうが、コレについては規定外の、貴重品だから数のそう多くない伝書鳩を駐屯軍の予備から供出することで解決する。
会長はパレード開始から四五分後、彼の乗る馬車がロホーヒルヒ中央広場に到達した時点で爆殺してしまう。より正確には中央広場の地下(下水道)に分派した師団公平によってコレは実行される。爆発は会長を殺害するのみならず中央広場に殺到していた群衆をパニック状態にするだろう。いかな夏川とてそれを即座に解決することはできない。その間に彼女を抑える。当然だが、念の為、夏川が使えそうな逃走ルートは公星の連隊を分散配置することで封鎖する。
「以上のように、私の、ええ、個人的なコネクションで恐縮ですが、兄の協力で、危ういところでこの計画は成立しています。否、成立できるはずなんですが、課題がニ点だけ残っています。どちらも兵站に関するものです」
妹は指を立てた。「中央広場下水道に運び込む爆薬の手配と輸送。それとパレード当日、兵に持たせる弾薬と予備――」
「それならもうできている」己は割って入った。妹たちが目を瞬かせた。
「どんなことがあってもいいように準備を進めてきたんだ。正規の兵站ルートを使うわけにはいかなかったから、那須城崎さんに協力して貰って、師団金庫の帳簿を弄ってね。ま、要するにアコギなところから買い付けた。詳細については、なにしろ話すと長くなるんで伏せるが、品質については問題ない」
「実際、保証するで。ようわからんけどな」那須城崎が合いの手をいれた。
「ですか。なるほどね」妹はニタニタした。「配置も既に済んでいると思っていいんですね」
「もちろんだ。場所は後で地図に書き込む。必要に応じて各部隊の後備に受け取りに行かせるようにして貰えればいい。基本的には担当地域から近い建物の内部、地下、屋上に隠したから、まず迷うとか、見つけられることはないと思う。それでも、もし必要であれば、あと丸一日あるんだ、パレードのための町の飾り付けに横から口を入れればいい。例えば、そうだな、弾薬が隠してある建物までの道に風船で目印をするとかね」
「甘木は」剣橋が呆れている。「貴女には過ぎた部下ですね、旅団長」
「全くです」妹は冗談めかした。ただし、冗談の態度ではなかった。
妹は己に微笑んだ。それに微笑み返しながら、そうだ、これでいい、と、己は思った。
会長だと? 派閥争いだと? 将来? かなぐり捨ててもお釣りが来る。己の行いで不幸になる不特定多数など知ったことか。己は取り戻すのだ。妹との日々を取り戻す。己は一〇年前に妹を見捨てた。自分の身が可愛くて見て見ぬフリをしていた。今度は違う。力になってやりたい。コレが終わった暁には――こればかりは言訳でも自己保身のためでもない。己がいま正体を明かせば不要な混乱を招くだけだ――何もかも打ち明ける覚悟をしていた。
会合の目的は速やかに果たされた。最後、諸連絡があればと妹は一同に尋ねた。
「師団長」挙手したのは冬景色だった。驚いた。彼は笑っていた。剣橋と黒歌が顔を見合わせた。
「私からもひとつよろしいですか」
そのときチチチとオイル・ランプがその火を揺らめかせた。妹はどうぞと促した。今日まで妹を補佐し続けてきた英才は淡白に言った。
「ここ迄です」
誰もがその言葉をどう噛み砕くべきかで悩んだ。妹の眉間に深い縦皺が刻まれた。次いでハッとした。己はまだこのとき何が起きるかを予想していなかった。――部屋の扉が蹴破られた。武装した兵が雪崩込んできた。それを指揮しているのは三白眼の、表情の変化に乏しい、どこかロボットのような四角い動き方をする女だった。
「無様ね」夏川は冷笑していた。「人なんて信じるからそうなるのよ」
剣橋が動こうとした。動くなと冬景色が強い口調で制した。黒歌がどうしてと呟いた。
己は喉をゴクリと鳴らしながら左右を見渡した。ニ〇名ほどのメンバー中、いまのいままで壁際に立っていた須藤と投木原が居なくなっていた。己以外、夏川ですらそのことに気が付いていない。否、夏川はあの二人が最初からここへ居なかったものと信じている。那須城崎と吉永が二人してコッソリと何枚かの書類を懐に隠していた。
踵を鳴らしながら、夏川が己の前へやってきた。己は訝しんだ。夏川はお疲れ様でしたと言った。己は戦慄した。手に違和感があった。目だけで確認すると背後に宵待が立っていた。彼女が己の手を握っているのだった。夏川は人間の限界を超えて大きく口を開けて笑った。
「人なんて」と、笑っていたはずが唐突に怒り出した夏川は妹に人差し指を突き付けた。
「人なんて信じるから。兄貴なら助けてくれると思ったの? 残念でした」
「まさか」妹はクリスマスの朝に煙突の中でサンタクロースが死んでいたときのように青ざめている。「まさか」
違うという弁明を試みようとしたが諦めた。この場でそんなことをしても夏川の思う壺だ。観念した己は妹よと呼び掛けた。出来るだけ不遜に。
「本気で己がお前を愛してるとでも思ったか?」
己は邪悪に笑わねばならなかった。だからそうした。「おめでたいな」
妹の米上に青筋が浮かんだ。腰にぶら下げている軍刀に手を伸ばした。どこかで壱式の声がした。「やっぱりこうなるわけね」
妹を取り囲んでいる兵が動き出す。その兵に花村が飛びかかった。簡単に跳ね返される。妹に向けて銃剣をぶちこもうとしたその兵に今度は大八分咲が体当たりをかました。兵ごと床に倒れる。妹はその兵の背を踏み台に己へ斬りかかって来ようとした。





