6章11話/君だけが望むアンサー
『甘木さんへ』
平凡な文章だった。『お話があります。夜分に済みませんが師団長執務室まで来て貰えますか』
「いまさら」極端な表情だった。妹は酔っていた。
「いまさらどうしろっていうんですかッ!」
その声の及ぶ範囲には己しかいない。そして、まさに、妹が問題にしているのはその己なのだった。妹の叫びはアイツの目尻と己の胸と周辺の大気の温度だけを〇・ニ度だけ熱くした。ここにいない誰かには決して伝わらない。ここにいない誰かは、今頃、家族か恋人か友人と楽しい時間を過ごしている。
「兄さんは――私は――比べることに意味がないって、でも、自分が比べなくても他人が比べるんですよ。周りが。母が。兄が。教師が。友人が。誰もが。大体、自分がどのぐらいやれてるか、成長したかなんて、他人と比べる以外にどんな方法があるんですか!?」
そうか。
「事情があるから仕方なかったとか、相手にも悪気がなかったとか、暴言を吐いてる方も傷付いてるかもしれないとか、見ただけで人はわからないとか、憎い相手が高学歴だからって高学歴全体を憎んじゃいけないとか、過ぎたことは忘れろだの、そんなこと、私だってとっくに分かってるんですよ! 私だって! 私だって好きで兄を憎んでるわけじゃない! どれほど、どれほどむしろ!」
そうか。
「最後まで責任を持つ? なんで私が、この私が自分以外の他人にまで責任を持たなきゃいけないんですか? 私の責任は誰が持ってくれるんですか? じゃあ持ちますよ。全員の、誰もの、目に映る皆の、責任を私が望んで、持ってあげますから、誰か、私の責任を持ってくださいよ!」
そうか。
「大体、大体、大体、兄が、兄が私を、私が兄を想うほど強く想っているだなんて、そんなの嘘ですよ。それなら――」
なあ。己は思った。妹よ。不謹慎なのはわかってるが、お前、そういう風に泣くのか?
初めてみたな。そうか、お前はそういう風に泣くのか。もしかしてずっとそうやって泣いてきたのか。いままで。ずっと。己の知らないところで。自分だけを責めながら。
「失礼しました」妹は呟いた。眼鏡を取る。目元を拭う。この夜の師団長室はゲッソリしていた。妹は鼻を啜った。「でも、この感情をぶつけられる人が甘木さんしかいなかったんですよ。すみませんでした。なんというか、もう、さっきも話したような経緯がありましてね? 兄と話をしなければならないんですが、どうも、踏ん切りがつかなくて。嫌だな。私、本当に嫌だな。ずっと、泣き言を言うのって嫌だったはずなんですよ。憐れまれようとするぐらいなら最初からその選択をしなければ、って、ああ、私、また余計なことを喋ってますね」
『左京』妹の泣き笑いは己に婆様を連想させた。『ニ〇ニ〇年ぐらいから約ニ〇年間、お偉い人間様の技術ってのはぜんぜん進歩してないのさ。停滞してるんだ。その割に、癪だね、ヴァーチャル・リアリティなんて気持ち悪い分野だけは進歩した。なんでだと思う? それはね――』
「――せめて空想の世界でぐらい誰かの泣き顔は見なくていいように、か。残念だったな」
己は独り言ちていた。妹の、ああ、その、キョトンとした顔には見覚えがあった。己を『お兄ちゃん』とか呼んでた頃の顔だ。お前は変わらないのか。変わらないのかもしれないな。己だけが変わったのであって。
「話してみるといいよ」己の口から言葉が溢れた。「話してみるといい。きっと、お兄さんも、お兄さんだって、君のことを想っているはずだよ。君が考えているよりも強く。力にもなってくれる。平気だよ。君はとても素敵な人だ」
前から疑問に思っていた。
なぜ、己は、己が己だと妹にわからない状態ならアイツに何でも言ってやれるのか。思っていることを。素直に。妹はまた啜り泣いた。泣き止むまでには数分が必要だった。アイツは「後で結果を報告します。ありがとうございました」とだけ言い残してログアウトした。残された妹のアバターは中身のないただの入れ物として師団長席に座り込んだ。あろうことか、己は、その妹の頭を撫でた。なんて不甲斐なくて気持ち悪い奴だろう。
間の悪いときは悪いものだ。ところへ須藤がやってきた。己は慌てて妹の頭から手を離したがもう遅かった。
「おう」須藤は歯を見せた。「別にキモがったりはしないよん。わかるよ。なんか、撫でたくもなるよな、ソイツは。サイズ的な問題かね」
「聴いてたのかい?」
「聴いちった」彼は悪びれなかった。
「趣味が悪いと、僕は君を笑えないかな」
「お互い様ってことかね。あー、いや、でも、俺、感動したぜ」
「感動ってなんだい」
「そこの本棚に辞書があるけど?」
「そうじゃなくてね」
「ウチも家庭事情が色々あんの」
「わからないな」
「わからなくて上等だコラ」須藤は舌を出した。
「僕は行かないと」
「行け」
「行く」
コンフィグしてある所定の動作でメニューを呼び出す。ログアウト・ボタンはどこだ。ここだ。仮想空間から現実に戻ってくる。自室だった。深夜だった。ベッドの上に跳ね起きる。ヘッド・セット状のゲーム機を外す。コード類を本体にぐるぐると巻きつけてベッドの下に放り込む。ベッドの下には、とてもではないが、妹には見せられないものが収納されていた。
さあ来い。己の方の準備は出来たぞ。妹め、こうなれば己だってお前に本心や真実を打ち明けるに吝かでないぐらいの勇気がなくもないこともないがハッキリ言うと怖いような気がしないでもないこともあるようでないようだ。――決着をつけるべきときがきたのだろう。
己はサトーに感謝しなければならない。つい数時間前、あんなアドバイスを受けていなければ、己はそもそも師団長室へ行かなかっただろうから。コレがサトーからでなければどうだったか。否、妹をよく知る人物からでなければどうだったか。
恥ずかしいことに。畜生め。恥ずかしいことに、己は今日の今日まで、妹は己のことを嫌っているのだと、そう信じ込んでいたのだ。和解する気はないのだと。そう思い込んでいた。ずっと。長いこと。畜生め。勇気だ。勇気を出せばそれで済む。そんなことを何年も放置していたのか。己は。それともアレか。己は。アレなのか。信じ込もうとしていたのか。振り絞れば振り絞れないこともない勇気を振り絞るのが怖くて。失敗したときが怖過ぎて。ええい、決着をつけるのだ。決着を。いまさら何を恐れる。
だが、なんのために?
己はふと考えた。なんのために妹と話し合うのか。過去の蟠りを解消するためか。本当にそうか。それはもしかしなくとも自己保身のためではないか。お前、自分が甘木で妹を騙していたことをなし崩し的にナアナアにしてしまおうとしていないか。それどころか、お前、その秘密が露見しないようにするにはどうすればいいか頭を使ってないか。
『お前は逃げるよ。卑怯者だよ』
悍け震えた。ニコチンが必要だ。
己は枕元に放ってあったレッド・アップルの箱を鷲掴みにした。枕元には箱の他に短時間で中身が一杯になった灰皿が二つも転がっていた。
一本を咥える。自家製ライターを使う。なかなか着火しない。もどかしい。ようやく火が着いてからガス・ライターを使えば良かったことに気が付いた。誠に気が動転している人間の取る行動は不可解だ。
部屋の扉がノックされた。入れと己は居丈高に言った。しまったと思った。案の定、妹は入ってくるのに躊躇した。いいから入れと己は怒鳴りつけた。
入ってきた妹はあのですねとキョロキョロしている。そういえば吉永の姿は見えなかった。
「手短に」己は急かした。
「いえ、あの、兄さん、そのですね」妹は奇妙にモジモジとしている。顔に濃い酔の色は赤である。
「実はお話がありましてですね」
「ビジネス・メールじゃないんだぞ」
「なら単刀直入に申し上げます」
「早くしろ」
「ええと」妹は頬を掻いた。
「なんなんだ」己は声を荒げた。
「その、遊びに行きませんか」妹は生唾を飲んだ。
「は?」己は顎を引いた。
「いや二人で」
「二人で」
「二人で」
己はズレたメガネの位置を直した。「訳のわからないことを言うな」
「やはり駄目ですか」妹は俯いた。
「……。……。……。駄目ではない」
「なら行きましょう」その返事は食い気味だった。
「日取りは」
「明後日ならどうです」
「何時から」
「朝から」
「空けておいてやってもいい」
「ありがとうございます」妹は兄妹間では相応しくない角度まで頭を下げた。
「それだけか」
「それだけです」
「ならとっとと失せろ」
扉が閉まる。観葉植物のため部屋の中はジメジメしていた。己は薄く濡れた床の上に煙草を落とした。右手の震えがどうしても抑えられなかった。スリッパで煙草を踏み躙って消化した。床に黒い焦げ跡が残った。次の一本を咥えたかったが、どうしてもその逃げを認められない気分になっていた。
ただただ、妹め、と思っている。人間の感情は瞬時に切り替わる。だから一秒前まで泣いていたとしても、他人からすればわからない。己はなんでこんな初歩的なことを?





