6章9話/お湯屋で叫ぶキス・ミー・ベイベー
湯気にしっとりと包まれている。
指先に湯が染みる。チクチクとした、痒いような痛みがあるが、それが却って気持ちいい。私はホゥと溜息を吐いた。カポーン、と、桶がどうにかなる音が壁の向こうの男湯で鳴り響いた。白濁した色から想像されるよりもサラリとした重みの湯は四〇度に保たれていた。
「どや」と那須城崎さんが尋ねた。湯船に褐色の脚を投げ出している。その細さが羨ましい。
「穴場やろ」
「そうですね」私はまんざらでない応答をした。標準的な、入湯料五八〇円のこの銭湯はトヲキョヲの大繁華街の直ぐ裏手にある。鄙びたビルの四階だ。そこにあると知っていなければ絶対にたどり着けない。飾り気はないが広い浴室内には私達しかいなかった。「ここならどんな話をしても誰にも聞かれずに済む。ところで私、この辺りは疎いんですが、那須城崎さんは?」
「ウチがもう、直ぐちうか、ほんの五分も歩かんところにあるさかいな」
「へえ。ということは、ご実家もお金持ちなんですか? この辺り、家賃が高いんでしょう」
「まさか」那須城崎さんは湯で顔を洗った。「慎ましい暮らしをしとるで。ウチが稼がな一族郎党、纏めて餓死しかねんレベルにはな。家賃ちうてもピン切りやし。――最近、風呂の無い賃貸が流行っとるのは知っとる? 利便性よりも安さや言うて」
「だそうですね」
「ウチのアパートにも風呂があらへんねん。トイレも共同やしな。アクセスは良くても家賃は安い」
那須城崎さんは上気した頬を掌で叩いた。頬と頭のお団子とがぷるんと震えた。「風呂があらへんからココ、見付けた訳でな。普段は家族と来るねんけども。家族連れなんてウチぐらいやなあ。ここの利用客の殆どは外国人の土方の兄ちゃん、さもなければ、やっぱ外国人やねんけど、なにしとるのか検討もつかんような、むしろ身なりのいいおっさんとかやな。ちなみに番台に居た婆さんはヒノモト語が通じひんから気を付けえや」
私はタオルで包んだ髪が崩れないようにしながら伸びをした。私の肩を湯が滝のように流れていく。その私の背後には雄大なフジ山の壁絵が聳えていた。
「ところで左右来宮な?」私の一部を観察していた那須城崎さんが神妙に言った。
私はぬくぬく湯船の中に戻った。「なんですか藪からスティックに真面目な声を出して」
「自分、その体格で出るとこ出とるっておかしないか」
「トランジスタ・グラマーって言葉もありますしね。おかしくはないんじゃないですか」
「いや、おかしい」那須城崎さんは断じた。
「おかしいですか」
「偽物ちゃうか」
「違いますよ」次の展開を読んだ私は胸元を手で隠した。
「なんやねん。なんで隠すねん。そっちの方がむしろソソるけれども。なんやねん。いや、ちょっとでえねんで? さきっぽだけ。さきっぽだけやさかいな。触らせてみ。ちょびっとだけ。少しだけやから。ほんと。ほんと。ほんまに。な」
「あきまへん」
「君、カンサイ弁、下手やなぁ」
「楽しそうですな」壁の向こうから呪詛じみた声が聴こえた。「俺、そっちに行っていいですか」
「破廉恥な!」ご機嫌斜めで、唇まで湯に浸かってブクブクと泡を作っていた頂がついに吠えた。「ホラ、右京も那須城崎さんも乳繰り合っていてはいけませんよ。公共の場ですし、ここには話をしに来たのでしょう!」
年頃の女の子が拗ねることほど面倒なものはない。違う浴槽で寛いでいた吉永さんと黒歌さんを含め、我々はいまにも爆発しかねない頂を恐れた。
「じゃ、メイン・テーマを片付けますか」私は提案した。控えめな賛成が相次いだ。壁の向こうでシャワーの音がし始めた。頂が剣橋君は身体を洗っている場合ですかと怒鳴った。(湯加減、本当に良いんですよ、ココ)
「えー」黒歌さんが咳払いをした。「電気風呂に夢中な参謀長に代わって、私が今日、会長から聞いたことを皆さんに説明しますわ」
誰よりも速く着替えて誰よりも速く濁り湯に飛び込んだ彼女、よほどそこが気に入ったのかサッパリ動かない。我々は彼女を中心に車座に座った。濁り湯も悪くないですね。これは薬用のアレ的なアレなんですかね。お湯が緑色なんだけれども。――頂が怖い。
黒歌さんの語るところによれば状況は悪化していた。少数の護衛のみを連れてロホーヒルヒ入りするはずだった会長、なんと、第六旅団をそのまま引き連れてくることになったという。
『勝利者にして支配者になりつつある会長を誇大にアピールしておく必要があるから』が変更の理由だそうだが、そんなものは粗悪なこじつけだ。会長は我々の蠢動に気が付いている。敏い彼のことだから。思えばラデンプール会戦、アレも、邪魔者を一掃するのと私達を疲弊させるのと、一挙両得だったことを考えれば、会長の差し金によって勃発したのではなかろうか?
邪推、それであるのは理解している。宇宙に存在する全ての陰謀に彼が絡んでいると疑うのは流石にアレだ。しかし彼は戦略家であり、それ以前に陰謀家であり、何よりも政治家なのである。私達はハナから彼の掌の上で踊らされているのではないか。畜生め。私は会長の智謀を恐れる。恐れるからには日和る。日和るからには思考回路の稼働率が低下する。ある程度、名の知れている人というのは、それだけで対戦相手を圧迫できるというわけだ。
問題は護衛の数と質の向上だけではない。会長は、その伴って来た戦力と共に戦勝パレードなるものを催すことにもなっていた。
急なことだから規模の大きいものはでもなかろうが、そのパレードを護衛するという名目で我が師団戦力の過半が出動を余儀なくされる。
ただでさえ疲れているところに朝から夕方までぶっ通しで働かされればどうなるか。小学生でもわかる。動けなくなる。その状態の兵で警戒態勢の夏川さんを出し抜くことができようはずもない。
パレードそのものも剣呑だ。出店が出る。客が集る。路上や広場で宴会が開かれる。夜中まで。もしかすれば朝方まで。クーデターは発動と同時に戒厳令を敷かなければ意味がない。頭の悪いNPC民間人に溢れている町で軍隊を行動させるなど不可能だ。
「ココに来て――」
昔ながらの扇風機の前に胡座をかいて座り込み、「あー」とか「うー」とか私は唸った。踝近くにまで達しつつある髪が重力と戦いながら風に靡く。番台のお婆さんは居眠りをしていた。受付とは名ばかりの狭い空間には独特の、望んでそうなった訳ではないと全身で主張している古い雰囲気が充満しており、壁に貼られている昭和レトロなポスターが哀愁と郷愁と得体の知れない愛おしさを誘った。
「――大幅な計画変更を強いられるわけですか。厄介だな。どうやっても成功しない気がしてきましたよ」
「どうぞ」首にタオルを巻いた剣橋さんがコーヒー牛乳をくれた。「泣いても笑ってもあと三日半ですしなあ。ここで計画変更がなければタッチの差で間に合ったかもしれませんが。どうしますか」
「今回はやめておく」
「無理でしょうな」剣橋さんは腰に手を当ててフルーツ牛乳を飲み始めた。
「ええ。これだけ先手を打たれるということは疑われてるんじゃありません。クーデターの確証を持たれているんでしょう。スパイ? 裏切り者? 何らかの理由で。もしかしたら燻製ニシンかもしれませんが。何れにせよ、ココでやめたらやめたで、今度、待ってるのは政治の季節ですよ。確実に首、飛ばされます。死ぬのが数日後か数カ月後かの違いですね」
私は立てた親指で自分の首を掻っ切る真似をした。「我々は英雄ですからね。我々が旧ダイキリ軍残党の反動派に殺された、ってことにされるかもしれない。それでダイキリ併合の完璧な口実ができる」
「そうなれば我々、まさにアメリア大陸統一の英雄ですなあ。いいとこの大学から話が来そうだ」
「もう来てるでしょう? ケンブリッジさんなら」
「椎応大学とか悪くはないんですがね。もうあと一歩ですか。ということで、俺がその裏切り者かもしれませんよ。会長に唆されてるかもしれません」
彼は悪趣味に笑った。頂は全身から『お兄さんを頼りなさい!』オーラを発している。一番、最後にお風呂から上がった黒歌さんはまだ脱衣所から出てこない。私は牛乳瓶の紙蓋を口で開けながら吉永さんと那須城崎さんとを近くに呼んだ。身体中から湯気を立てている女子高生の色気に私はクラクラし掛けた。
「ちょっとお尋ねするんですが」コーヒー牛乳は懐かしい味がした。くどい甘さの中に大人への憧れが混じることでバランスを取っている。私は何時になれば大人になれるのだろう。
「お二人とも、この計画から降りる気はありませんか?」
「ええー」と、
「それはないやろ」が重なった。
彼女らは顔を見合わせた。
「お先にどうぞ」吉永さんは譲った。
「いやいや、そっちからでええですわ」那須城崎さんが遠慮した。
「あ、そう」吉永さんは地球に来てまだ三日目ですというような顔をした。
「せやせや」
「じゃあお言葉に甘えて。――ココまでやってきてそれはないでしょ?」
「ココまでやってきたからこそです」私は扇風機の首振りボタンを押した。「私はそれでも責任を取らねばなりません。こんなことを始めた張本人ですからね。トンズラ、ドロン、雲隠れ、そういうことはできない。申し訳ないですが剣橋さんや黒歌さんや冬景色さんを巻き込んで、失敗するにせよ潔く死なねばならない。ただ、貴女たちは、どうでしょう、色々、方便の使いようがあるというか。サブ・メンバーですし」
「ふん」吉永さんは唇を口の中に畳み込んだ。「どうしてもやめろ、っていうなら私、やめるわよ? でもそうじゃないなら続けるわ」
それはまたどうして。私は尋ねようとして踏み止まった。何時何時、誰がやってくるかもわからないところで人の素性を尋ねるのはあまりに無作法である。吉永さんは古い切手に描かれている田園風景のように笑っていた。私は肩を竦めた。古い切手ね。彼女に唾を付けたのは間違いだったかな。まあいい。だとしても彼女が得難い友人であることに違いはない。
「那須城崎さんは?」
「ン」彼女は壊れかけのマッサージ・チェアに座っていた。「ああー、効く……。ああー……。あ、あ、あ、と」
一八歳未満にはとてもお見せできない表情と声色のまま彼女は答えた。「ウチも続けるで。別に失敗したときのことなんか左右来宮が考えんでもいいわ。ウチはウチでメリットがあるからやっとるんやし。万が一のときの覚悟も前から決まっとるし。あああああああああああああ」
吉永さんに対する以上に、彼女に“それはまたどうして“と訊く気にはなれなかった。
ここへ来る途中、電車を乗り継ぎながら、私と那須城崎さんは短い話をした。剣橋さんから今日のあらましを聞いていた私は、彼女が鳳凰院で浴びせられた罵声、それについての謝罪とお悔やみらしきものを述べた。(彼女の鳳凰院行きを認めたのは私であった。偵察メンバーは一人でも多い方が有効だと考えてのことだった。軽率だった)
「えーって」那須城崎さんは飴ちゃんをくれるオバサンの笑い方をした。「えーって。ホンマに。そないなこと気にせんといてや。ええねん。実際、ウチは低学歴やん。実際、ウチは外国人風やん。実際、ウチは守銭奴やん。事実を指摘されて怒る気はあらへんで。大体、自分からわざわざ危ないとこ行ってな? 嫌がらせされたてな? それは自業自得て言うんやで。左右来宮は何も悪くあらへん」
ちうかな、と、逆接を使った彼女の表情はミリ単位ですら変化しなかった。
「一々、他人の言うことを真に受けとったら生きていかれへんやん? ウチはウチや」
私は溜息を吐いた。ですかと二人に向かって言った。剣橋さんを仰ぎ見た。彼は二本目のフルーツ牛乳を口で咥えながら腕を組んだ。頂はいよいよ『いざとなれば私が二人の間を取り持ちますよ』の構えである。脱衣所から出てきた黒歌さんはこれだけ絶望感の増したシチュエーションにおいてすら闊達に笑っていた。
「吉永さん」私は呼んだ。
「へい?」彼女は薄着で浮き上がって見える剣橋さんの背筋をペチペチ叩きながら返事をした。
「この後、一杯、付き合って貰えませんか」
「……。……。……。」吉永さんはキョトンとした。
「俺は?」と剣橋さんが悪ノリした。丁重にお断りした。
頂がわなわなと震えていた。まあまあとそれを黒歌さんが宥めた。吉永さんは呟いた。
「デートに誘われちゃった」
頂が叫んだ。





