6章8話/世間の全てをわかったつもりでいるその人は『そういうことをすると安い奴だと思われるよ』と窘めた
「ああ、アンタはまだそのレベルなわけね」と笑うOLがいる。
「この椅子、高過ぎる!」と降りられなくなって半ベソのガキがいた。
「ニューヤークに行くべきだよ。あそこはこの課題先進国よりずっとずっと進んでるから」と語る青年がいる。
「ブラスペをやってる連中ってのはゲームだけどさ、暴力とかの恐ろしさとかそういうのがわかるわけ。自分で振るったり振るわれるから。そんな連中が暴行事件、起こすわけがねーんだよね」と話す芸能人風の男がいる。
「お前、なんでそうするの? お前の国の文化? 知らねえよ、ここはヒノモトだから。こうやって食うの」と、相方の外国人に何かの作法を強いている若者も居た。
「大人なんてなあんにもわかんねえんだから。何を期待してたんだよ」と友人を腐すのは誰だろうか。
場違いである。己は眼鏡を拭くフリをしながら思った。こんな、オシャレな若者が集う喫茶店に己はなぜいるのか?
一時間程前まで己は会長と彼の政治的側近らと共に居た。剣橋との面会に立ち会うためである。会長の派閥に属しているからといって全員が爽やか系ではない。ネチネチと、連中は剣橋と黒歌を苛め抜いた。会長に嗜められても『冗談じゃないですか』みたいな顔をした。鳳凰院を覗いてみたいからということで着いてきていた那須城崎には『(とてもではないが言えない)肌の色をしたジンガイ低学歴(女性蔑視)成金女』という最低な渾名を着けて笑い合っていた。己はこんな野郎どものために妹たちを欺いているのかと胸が痛くなった。自分の罪を棚上げして。
鳳凰院を出たところで気分が悪くなった。街中でフラリ、と、倒れそうになったところで助けられたのである。――
「はい、どうぞ」
“助けてあげたんだからデートしてくださいな”などと抜かしおった女が飲み物を運んできた。己は礼を言った。モスレムを咥えた。彼女、目にも留まらぬ速さで火を着けてくれた。また礼を言う。彼女――宵待理早はフフフと笑いながら言った。「お気になさらず」
「気が利くんだな」
「どうでしょうか」
彼女は女性的な、あまりに女性的な柔らかさを持った頬を緩めた。「よく言われるんですけど、あんまり、嬉しくないんですよね」
「褒められ慣れてるからじゃあないか」
「それはあるでしょうね。私、見ての通り美人で気立ても優しいですからでも、どうですか? 私、じゃあ、なんで気が利くと思います?」
わかるはずがない。当てずっぽうを並べ立てる勇気もない己はカップに入ったタピオカ・ミルクティーを飲んだ。カップの表面には細かい水滴がビッシリと並んでいた。ひとつの水滴が重力に負けて流れ出すと何体かの同胞を巻き込む。その様が面白くなくもない。
ニ一世紀初頭にあった第一次ブーム、己がこんなぐらいだった頃の第ニ次ブームのときに比べて、ただいまの第三次ブームにおけるタピオカ・ミルクティーはとにかく甘い。致死量の砂糖が使われている。甘いものがさほど好きでもない身からすれば、どういう必要性から、こんな高いものをタピタピするのが流行なのかよくわからなかった。(第一、己はこの、専用のストローでタピオカをキャッサバする様が掃除機の実演販売にしか見えなかった。『凄い吸引力でしょ?』)
「なんで相手の性格がそうなってるのかみたいなことを考えずにただ褒めるのって、残酷だと思うんですよ」
「ご無体な」己は濡れた指先を紙ナプキンで拭った。そのままナプキンで兜を折り始める。「他人のことをそこまで考えて生活していくのは不可能だ。身が持たん。考えたところで何か得をするわけでもあるまいし。それとも、お前、そういう面倒な性格か?」
「失礼な」宵待は折りかけの兜を己から取り上げた。
「本当にそう思ったことありませんか? 世の中にはいろんな人がいるけど、その人たち、みんな、変な人も怖い人も優しい人もそうなった理由とか事情があるわけじゃないですか」
彼女は折り直した兜を己に見せ付けた。悔しいことに、己の五倍か六倍、彼女の折り紙センスは上だった。彼女はその兜を己の頭の上にのせた。「よく似合ってますよ」と言って微笑む。お前は何なんだ。魔性の女か何かか。
「お兄さん、前から気になってたんですけど」
前から。己は疑問に思った。前からって何時だ。
「変な喋り方をするでしょう。いえいえ、自覚はないかもしれませんけど、いまだって人を魔性の女扱いしますし、桃太郎だのシンデレラだの毒林檎だの言うじゃないですか。それだってきっと理由があるんじゃないかな、って」
己は頭の上から兜をもぎ取った。兜のあちこちに生じていたシワを慌てて伸ばす。完全に無意識の行動だった。己は味のしないモスレムを狭い卓上に置かれたガラス製の灰皿に押し付けた。
子供の頃、よく、こういう馬鹿みたいなものを妹へ作ってやった。玩具だけではない。色々あって、己は夜、布団に入る前の妹に童話を読んでやるのが日課だった。そうしなければ妹はどうしても寝付かなかった。『兄さん、今日は何のご本を読んでくれますか?』
ガキで影響を受けやすかった己の口調にはお話の世界が入り込むようになった。そういうものがいまでも消えない。それだけのことだ。心の傷と同じだよ。気が付かないうちについて何時までも残る。『なんだい左京、お前、右京に本を読んでやってるって? お前もたまには良いことをするんだね。夕飯はお前の好きなものにしてやろう。喜びな。ホラ、お礼はどうしたんだい? これからは人様に何かしてもらったら必ず言うんだよ』
「己は」
おかしくなったらしい。急にこれまでのことをこの女にぶちまけたくなった。彼女はいいですよと言った。話を聴きましょう。
そうなればどれほどよかったろう。「理早ちゃん!」と、誰もが一杯三〇〇円の牛丼にすら金を惜しむ時代にヴァレンティーノのスーツを着たオッサンがやってきた。
宵待と顔が似ているから父親だろうか。己を見たオッサンは険しい表情になった。実は同じゲームをしていましてと己は誤魔化した。オッサンは己に生徒手帳やプロ・ライセンス証まで提示させてやっと納得した。それも不承不承のことだった。
「さあ、行こうか。じゃ、君、ここは払っておくからね。いや、お礼なんていいよ」
オッサンが宵待を連れて帰ろうとしたその辺りで風向きがあやしくなった。オッサンは宵待と指と指を組み合わせるようにして手を繋いだ。「あらら、理早ちゃん、なんで指輪、今日も外しちゃってるの?」
オッサンはわざわざ己――どころか店中に聴こえるように言った。「せっかくあげたのに。駄目だよ、ちゃあんとつけてないと。僕ら結婚したんだし。ん? どうしたの? あ、ごめんね、ごめんね、僕、キツいこと言っちゃったね。煙草、火、ありがとうね。いいんだよ、気にしないでいいんだよ。平気だよ。コレからも学費はきちんと払ってあげるし不自由もさせないよ。それに君のお母さんへの仕送りもね。いとこなんだから。僕、家族への愛情が深いタイプだしさ」
宵待理早は日頃と変わらない笑みを浮かべていた。残された己の周囲ではヒソヒソ話が始まった。『いまのって……』
それも数分で飽きられる。
彼等はいつか今日のことを思い出すかもしれない。そうして、その場に居る友人や恋人や家族にこの事実をもっと面白おかしく伝えるべく過剰に脚色して話すだろう。或いは、こんな可哀想な娘もいるんだ、と、何の足しにもならない悲嘆に暮れるのか?
畜生め。なぜ己はこうまで救いようのない想像力しか持っていないのか。昔、あれほど沢山の“すてきなものがたり“を読んだというのに。汚れているのは世間か。それとも己の心か。
さきほどの宵待を思い出したとき、ならば己はどうするのだろう。どうなるのだろう。





