6章2話/Q.人間の三大欲求とは? A.食う、寝る、暴力を振るう
「甘木部長――」
ラデンプール会戦中の一幕である。司令部へ呼ばれた己は妹と短い討議を交わした。司令部テントを出て自分の職場に帰る途中、榴散弾で叩かれている敵軍が視界の隅に映った。己はそれに見惚れた。否、見惚れたという表現は正しくないかもしれない。恐れた。と、同時に、何か熱っぽいものが腹の底から込み上げてきたのだった。
そして、その己の背を吉永が叩いた。
「――今朝、何を食べました?」吉永は尋ねた。
「ん」己はいきなりのことに返事ができなかった。
吉永は“わかるわよ”という表情になった。彼女はウンウンと頷きながら己の背を断続的に叩いた。「平気ですよ。平気。もしかするとしばらく挽き肉が食べられなくなるかもしれないですけど、そのときは美味しいモツ煮のお店を教えてあげますから」
わけがわからなかった。
……ラデンプール会戦終了後、捕虜の収容と戦場清掃には半日が費やされた。前者はともかく、後半は兵站部の主導する作業であった。
収容と言っても、まあ、大仕事ではあるが、大それたことをするわけではない。敵残兵を武装解除させて、元の部隊ごとに一塊にして、その規模に応じて適当な見張りを立てる。火だの何だのを好きに使わせるわけにはいかないから、給食とか、それに衛生管理(例えばトイレの管理)を徹底せねばならないのが面倒ではある。
面倒さだけで言えば戦場清掃の方が上だ。文字通り戦場に転がっているあらゆるゴミを片付けるそれは、性質上、事前計画がきかない。誰がどこでどのように死ぬかは計算できないからである。(人間は死ねばゴミになる。ゴミという言い方に抵抗感があるならば貨物とでも言うしかない)
夏場だから、キツい死臭を発したり、ともすれば既に腐敗しつつある死体を効率的に集めるべく、ラデンプール平野中を視察して回るところから清掃は始まった。兵站部員の三分の一以上で手分けをした甲斐があって、コレは二時間ほどで片が着いた。己たちの定めた回収手順に則り、司令部直属の護衛部隊、それに戦闘にほぼ参加しなかった戦列歩兵連隊から選抜――という名のくじ引き――された将兵が実際の清掃を担当した。
集められた死体、死体だったもの、千切れ飛んだ手足などが焼却処分される傍ら、清掃部隊は物品回収を始めた。戦場清掃の基本は回収である。使われなかった弾丸、砲弾、銃、銃剣、敵野営地に残された馬車、燃料、食料、或いはそれらを詰めてある容器(例えば瓶や缶)は、こうして集めておけば次の戦いで有効利用できるのだった。
会戦終了から三日目の深夜だった。戦闘終了とほぼ同時に送ったロホーヒルヒへの騎馬伝令、その返事が来たのである。捕虜の受け入れ体制を終えたので帰還してよろしいという旨が己の名前で記されていた。労いなどは一切、添えられていなかった。代筆した軍参謀長の為人が伺えた。
この時点で、地域住民への宣撫を含むあらゆる戦後処理が終了していた師団司令部は翌日昼前にはロホーヒルヒへの帰途につくことを定めた。臨時招集された幹部会議――部長会議と異なり、コレには大隊長以上の指揮官らも出席している――が終わった。妹は、ただし部長たちには話があるので、と、己たちをその場へ残した。
「実は先程の騎馬伝令である連絡を受け取りまして」
夏虫の鳴き声のどこか寂しげに響いてくるテント内、妹の声は無機質だった。アイツは用意された専用の机の上であぐらを掻いていた。前々から思っていたが、お前は己の前以外だとかなり荒っぽいようじゃあないか?
「まさかもう一戦やれとかじゃないでしょうな」剣橋が軽口を叩いた。
「残念ですが」妹は半ば本気で残念がっていた。しばらく大規模な会戦はないだろうというのが今後の見通しであった。財政だ兵站だ以上に敵がいないからであった。ダイキリ国内に散らばった敗残兵はもう二度と集結しないだろう。集結したところで“どうせ負ける“という気持ちがあるから命令に従うはずがない。第一、銃も砲もなく、数だけで戦争ではない。数が多い方が勝つというのは装備が互角である前提の上にのみ成立する。
会議用の机を囲んでいる幕僚たちが呆れている。妹はその様子を楽しんだ。アイツの視線が己の顔の上に留まった。己は苦笑した。
「神々廻軍務局長からでして」
妹は場が静まるのを待って言った。己はドキリとした。ドキリともするさ。己はまさにその神々廻絡みで妹のところへ潜り込んでいるのだった。
会長の言うところの噂――神々廻はクーデターを目論んでいる、というのである。ありそうな話だ。狸は何時だって人を化かす。で、その実戦力として、神々廻は妹と手を結ぼうとしていると。馬鹿馬鹿しい。妹はそういうことを好んでするタマではない。それは、妹は高学歴を嫌っている。己を嫌うように嫌っている。殺すことに快感を感じてすら。生き甲斐にしていると告白されても驚かない。
だが、だからといって、国ひとつ転覆させようという大掛かりな騒動を企むほど暗愚でもない。己がどれだけ以前の、こんな小さかった当時の妹しか知らないとは言っても、そこばかりは間違えるはずがない。奴は自分本位な行動から出る余計な犠牲を何よりも厭う。
実際、あるとき、ふとした弾みで己はこう尋ねたことがあった。『噂を聞いたかい? 君がクーデターをやるっていう』
『ええ』妹はカチューシャを撫でながら笑った。加工技術の関係からそのカチューシャは現実よりもむしろ派手なデザインになっている。『やりますよ、クーデター』
やはりそうなのだ。己はそれで妹の動向についてある種の確信を得ていたほどなのである。――――
それが見事に裏切られた。妹はやはり感情を含まない声で自分の所信を明らかにした。
「来月後半、会長がロホーヒルヒを訪れます。そのとき、私と神々廻軍務局長はクーデターでもやろうか、と思ってましてね。どうですか。楽しそうでしょう。一緒にやる人はこの指とまれと声を掛けてみたんですが、やりませんか。やらなくても見るだけで面白いと思いますよ。チケット、いまならまだ余ってるので、ひとりにつきニ枚ずつとかどうですか」
剣橋ですら返事に窮した。衝撃を受けたというよりも、あんまり妹が真剣でないようなので、どう反応すべきなのか、全員が迷っているようでもあった。妹はニタニタと笑った。意地の悪い笑い方だった。日頃の、高校生としては粋を極めた連中の態度といまの態度が掛け離れていることに愉快さを見出したのだろうと己は推察した。
「よっ」妹は机の脚元に置いてあった酒瓶へ手を伸ばした。届かない。身を乗り出した。危ない。
「師団長」剣橋が代わりに取ってやった。
「どうも。なんですか?」
「貴方はろくなことを言い出しませんね、何時も。ココには憲兵の親分もいるんですぜ」
法務部長の眼鏡が光っていた。妹は意味もなく上下左右に視線を走らせた。肩を竦める。それから両手を差し出した。「お縄に付きましょうか? おとなしく」
ふてぶてしいことこの上ない態度だった。法務部長は何も言わなかった。妹は酒瓶から直接、グビグビと酒を飲み始めた。
「大体ですな」剣橋は太い腕を組んだ。座らない。その場をぐるぐると回り始めた。「貴方のいま示しているのはクーデターをやる人間の態度ではない。もっと真面目にやったらどうですかな。なんですか、映画でも見に行きませんかみたいなノリで」
「ですか。真面目にやって必ず成功するならそうしましょう。――ところで映画は映画で別に見に行きましょうか?」
「師団長の趣味と俺の趣味が合うとは思えませんなあ」
剣橋は項垂れた。剛毅で知られる参謀長は人目も憚らずに溜息を吐いた。「ま、いいでしょう。よく考えたら、貴方が真面目になるなんて、それは此の世の終わりぐらいだ。いや、言わなくていいです。間に合っていますぜ。貴方、どうせ此の世が終わるときでもそうやってニタニタしてるんでしょう。ああ、畜生。目に見えるようですよ」
「剣橋さんが居てくれると助かるんですが」
「助かるんじゃないでしょう」剣橋は言下に否定した。「俺が居なくて貴方に何が出来るっていうんです? ったく。いいでしょう。俺は乗ってもいい。問題は他の部長連中です。先に言ってくれれば根回しをしておいたんですがね」
「余り心配はいらないと思うんですけどね」
元から残り少なくなっていたこともあって妹の酒瓶は空になってしまっていた。妹は、まるで望遠鏡を覗くように、酒瓶の中を見ながら続けた。「第ニ旅団時代の部長たちならまだしもですが、彼らはみんなほとんどが転属していきましたからね。次長から昇格したのは、新たにやってきたのは、いわゆる首を斜めに振らない人々か義理人情に厚い人たちばかり。こういうイベントには喜んで飛びつきそうだと思うんですが」
人事部長などがクスクスと笑った。宵待が欠伸を噛み殺していた。黒歌が冬景色を見た。冬景色は目頭を抑えていた。徹夜続きで眠いらしかった。
「私は」総務部長が何時も通りの震えた声で言い出した。「第ニ旅団時代、師団長には申し訳ないことをしてしまいましたので、その、まあ……」
これにはビックリさせられた。彼の人柄的にてっきり適当なことを並べ立てて逃げるかと思っていたのに。妹の読みの方が正しかったという訳だ。畜生め。
総務部長の発言で場の空気が一気に傾いた。己も含め、満座がクーデター参加を決めたのであった。この他、妹は同じ学校で同じ部活の、あの音楽科だの、須藤だの、那須城崎だの、投木原も実行グループに加わると言った。己は複雑な心境だった。
問題は吉永の処遇であった。(部長会議の席に入れる副官は師団長副官のみである)
「なにしろ前の職が会長の私設秘書官な訳で」剣橋が注意を喚起した。「言いたかないですが、どうかなとは思いますよ」
「でも、主席副官が居ないと何かと不便ですからね。それについても対策済みですよ」
妹は酒瓶をラケットに、丸めたコルクをボールに見立てて玉突きをやっていた。「もしもし亀よ亀さんよ、と。主席副官は私のことが大好きなので、私にべったり、離れていてくださいと言ってもどこまでも着いてくる人です。ストーカーですよね。一種の。ゲーム内では私自身が彼女を監視できます。ゲーム外では、いまは夏休みでしょう? ウチに泊まり込んでもらうので安心してください」
「手錠でも着けてようかしら?」吉永はコルクを空中で掴んだ。
「アブノーマルなプレイですね。そのコルクは何に使う気ですか。やっぱりストーカーやるぐらいなので変態なんですかね。まあ私もですが。ま、ということなので、いや、なにがということなのかはわかりせんが、その辺りは平気ですよ。なに、安心してください。どうせ兄は帰ってきませんし」
己は絶対に風邪など引いて家に帰ることがないようにしなければ、と、このとき固く誓ったのだった。





