6章1話/(急募)サブタイトルを考えるバイト
地元で電車を降りた。夏休みは二ヶ月目に入っていた。暑さは全く衰えていなかった。セミの鳴き声だけがヒグラシの暇乞いに変わっていた。
バス・ロータリーを目指す。ふと心配になった。誰かに移してしまわないだろうか?
己はタチの悪い風邪を拗らせていた。咳が止まらない。鼻水もだ。この二日、熱が三八度を下ったことがない。否、風邪のみならず、背中に酷い帯状疱疹が出ていた。こんな状態で公共交通機関を利用してよいものか。あかんのではないか。歩くか。家までか。一時間は掛かるぞ。怠い身体なら二時間か。路上で死ぬのはご免だ。
わかった。こうしよう。己は立ち眩みながら思い付いた。タクシーだ。状況を説明して、運ちゃんが乗ってもいいと言うなら乗ろう。大抵の運転手は己のこの様子に同情して後先考えずに乗せてくれる気もするが――ええい、己はどうしてこういう性格なんだ。
近年の超人口過密によって、このマチダも様変わりした。
元よりマチダの売りと言えばトヲキョヲへもヨコハマへもどこでもドアなアクセスの良さであり、市の中心を離れれば意外なほどに安い地価である。全ての国民がスマホに表示される現在時刻と財布の軽さに嘆く時代、我が街の人口は二倍以上に膨れ上がった。
そして、その住民たちの生活を支えるという名のパイを巡って、ただでさえ多かったサービス業、インフラ業、それと性風俗業が大量参入して来た結果、マチダは人種のサラダ・ボウルとなった。どの分野においても、ええと、だから、その、つまり、あー、外国人はやはり安く使えるからであった。(ところで、なんでパイがサラダになるんだ。どういう詐欺だ)
外国人が増えたから必ずやそうなるという訳でもないが、流入してきた層が層だった。最初、ヒノモト人を対象にしていた性風俗の狙いが増え続ける外国人労働者に向けられ始めたのも相まって、マチダ全体に、あまり品のよろしくない人々が屯するようになった。
マチダの治安は急速に悪化した。
尤も、いちばん悪かった時期は過ぎている。あるとき当選した市長の掲げた公約、古き良きマチダを取り戻すとかいうのが、何の間違いか達成されてしまったからだった。ちなみにその市長は街の平和を取り戻すべく、かなり偏った税金の使い方をしており、公約達成直後は市民の九割から支持を得ていたが、最終的には、
『税金泥棒! 嘘つき! おたんこなす! 死ね! 調べたわけではないけどコイツは金を使い込んでそうだから自分たちのリーダーにはふさわしくないと思いまーす!』
任期を一年半、残して辞任した。(ただし、彼はその後の人生をタレントとしてまず順風満帆に過ごしており、毎年のように悲劇の主人公、市長時代のエピソードが特番されるから、むしろ政治家時代よりも充実した毎日を送っているように思われる。世の中にはこういう人もいるらしい)
いまのマチダは、そうさな、夜道にさえ気を付ければ、他は精々がヒノモト語の怪しい外国人の若者、或いは彼らの真似をしているヒノモト人の若者に喧嘩を売られる程度だ。それも、コチラから積極的に彼らを煽らなければ滅多に起こらない。一時期のマチダと言えばトヲキョヲのネスヨハグルブ、地理に詳しくないヨソモノが一歩、そこら辺の裏路地に入ったが最後で、薬を売りつけられる、金品を奪われる、意味もなく暴力を振るわれる、犯される、殺される、そういうことが多発していたのだから、コレはかなりの治安改善だと言えよう。
ただし、街の汚さだけは変わらない。バス・ロータリーに着いた己の周辺は、防犯カメラを着けていようがお構いなし、どこにでも現れる芸術家気取りどもの手によって極彩色に塗装されていた。(消しても消しても新たに塗り直されるのに嫌気が差した行政は、近日、清掃の手間を厭うようになっていた)
スプレー缶で描く絵っていうのはセンスが出る。上手いものは、あ、もう、これはいっそ残しててもいいんじゃないか? などと極めて主観的でいい加減なジャッジを下せるが、そうでないものであればただただ不愉快になる。絵のテーマが不愉快であれば尚更だ。
わけても不愉快なテーマ、ある種の貝類をモチーフにしたらしい落書きの施された壁の傍で、子供が泣いていた。男の子だ。母親を探している。誰も相手にしない。助けてやろうかなと思った。コレが忙しい日常の中で遭遇した出来事であれば、さて、己も『迷子なんていまに巡査が始末をつけるに極まっているさ』とか言って責任を逃れただろう。今日は事情が違う。――己が見ていることに男の子が気付いた。男の子は己に縋るような目付きをした。人の川を挟んで己たちの距離は五メートルしかなかった。
問題は帯状疱疹だった。子供相手に感染させてしまうとコトになる。どうしたものか、と、悩みながらも進もうとしたとき、まさにその帯状疱疹辺りをドンと叩かれた。
「君!」
悲鳴を上げた己の肩を謎のニイチャンが叩いた。営業職らしいこのサラリーマンは、
「なんで助けてやらないんだ」世間の悪徳を何もかも己のせいだと言わんばかりだった。
彼は己に数分、己が風邪を引いているのも知らんぷりで説教を垂れた。頭に来た。よっぽど殴ってやろうかと思った。体調さえマシならば。彼は男の子のところへ小走りで向かった。ある外国人が男の子に手を差し伸べたところだった。彼はその外国人に怒鳴った。「この子に触れるな!」
そして、不安そうにしている子供の手を半ば強引に掴むなり、かなり乱暴な手付きでグイグイと引っ張っていった。通行人もコレには流石に立ち止まった。しかし、誰も止めに入るでもなかった。ひとつには交番が直ぐ近くにあって、彼がそこを目指していたことも影響しているだろう。
子供の手を引きながら彼は「どいつもこいつも薄情だ。オレが助けるまでこの子はどれだけ不安な思いをしたろう」と叫び続けていた。
タクシーを拾った。運転手の爺さんは気の良い人だった。いまの見てたよォ。大変だね。学生さんかい。そうかい。え? え? ああ、いいよ、いいよ。辛いだろう。乗りなさい。個人だからさ。気にしなくていいよ。別に。個人タクシーだから。煙草とか吸われますか、って、その体調だと無理だわな。あ、吸う。いいですよ。それで差別化を図ってんだから。煙草が吸えるタクシーっていいでしょ。ま、自分が吸うからそうしてるだけなんけどさ。アッハッハッ。それにしてもああいう若いのはよくないねえ。俺たちの時代にはさァ――――。
……インターホンを押した。鍵を連合生徒会館に忘れてきたからだった。間もなく玄関が開いた。冠木門が内から開いた。己は驚いたフリをした。
「あ」吉永であった。ラフな格好をしていた。彼女のツインテールが逆だった気がした。「えーと、おかりなさい? って、言うのもおかしいか。えー、あー、お邪魔してます」
「……。……。……。通っていいか」
「あー、すみません。どーぞ。どーぞ。どーぞ。大丈夫ですか?」
「そう見えるか」
「いや、全然」彼女は手を振った。
彼女は我が家にもう何日も泊まり込んでいるのだった。その証拠に玄関を入ったところからもう彼女の荷物がごった返していた。彼女は荷物持ちだった。居るはずの妹は顔を見せなかった。





