5章13話/玉田瑠璃
綺麗に組まれた連隊横列、その右端に立った指揮官がゆっくりと第一歩目をラデンプールの豊かな地へ踏み込んだ。元気を取り戻した太陽によって乾いた大地に記された、彼女の足跡は深い。
特異な容貌の彼女は戦列の左端に到着するまでたっぷりと五分の時間を掛けた。合間合間、目の合った兵、下士官、士官、殊に一年生を相手に、頷いたり、肩を叩いたり、微笑みかけてやることで励ます。
連隊横列の両脇では、いま、前車が砲架(砲を載せて運ぶための車)と別れを告げるところだった。前車とは、砲牽引部隊が使用する一種の二輪馬車で、形状は大八車に似ている。
行軍時、並びに戦場における砲兵展開時(砲を砲撃配置に着ける時)、砲架は前車に連結される。連結は砲架の砲脚――後方へ張り出た棒に、ルネットと呼ばれる鉄製の環があるので、それを前車の軸棒のフックに引っ掛けて、更に固定ピンを通すことで行う。
そして、その状態の前車を、砲の重量にも拠るけれども、概ね六から八匹の馬場で牽引する。(余談ながら、前車を牽引する輓馬は、前車の前方に突き出している牽引ポールに横並びに走る。ただし、道幅の関係上、馬を一列縦隊にして牽引する場合もある)
どうして前車が必要なのか。『車輪は二つで充分ですよ』――そんなことはない。未舗装道路もまだまだ多いブラスペ世界、二輪と二輪で四輪、そちらの方が走行時の安定感が増す。安定感が増せば事故が減る。事故が起きればシュラーバッハのときのようなことになるから、根絶は出来ずとも、減らす努力は少しでもした方がいい。
ちなみに前車は砲以外にも砲弾車を運ぶのにも用いられる。我が軍においては、砲を運ぶ前車を操る御者達を砲牽引部隊、砲弾車を運ぶ御者達を砲兵後尾と呼び分けている。実際、割と繊細な鋳物である砲を取り扱うべき人々と爆発物を取り扱う人々とでは、有するべき知識や能力が異なるのだから当然ではある。
砲弾車には一五〇発前後の砲弾が詰め込まれる。前車自体に砲弾箱、凡そ三〇発の砲弾が積載可能であるので、戦闘時にはひとつの砲につき二台の前車――砲を運んで来た前車と砲弾車を運んで来た前車――と砲弾車が専属する。(砲撃時、砲は前車に載せられた砲弾を使用する。前車の中身が空になったらばもうひとつの前車から弾を供給して貰う。その間に、ハイオク満タン、空になった前車は砲弾車から補給を受ける。砲弾車は砲弾車で、空になることがないように、折を見て後方に砲弾を受け取るか、輸送して貰う)
……さて、ここから先、カノン砲を載せた砲架を僅かに移動させたり指針させたりするのは徒歩砲兵の領分となる。彼らを指揮する砲兵中隊長たちも彼らなりのやり方で、つまり歩兵連隊長たちよりもずっと手荒で直接的な――下品なジョークなどを交えて部下を鼓舞していた。(砲兵はそれなりに男女平等、否、視聴者に対するサービス精神から女性指揮官を量産しているブラスペ内でも例外的な男世帯であった。その職務の大部分が力仕事と地味な計算であるからだった)
師団司令部から僅かに離れたところからそれらの光景を見下ろす、己の脈拍はもう速くない。実際に自分が銃を取る訳でもなく、まして殺される危険がそうあるわけでもなく、何より片付けるべき仕事が目先にあった。己は兵站部の各課が提出してきた書類の束を小脇に、それとは別の、人事部から取り寄せた一枚を手で弄んでいた。
「部長」その発音を精密に記すならば“ぶちょぉー”になる。間が抜けている上に延びている、男を駄目にする種類の喋り方だった。
玉田である。彼女は銃剣でぶっ刺されたところ――右腕を繃帯しているが、その他にこれといった外傷はない。『運が良かったんでしょうなあ』とは軍医の談である。
「玉田君」己は呼んだ。
「はあ」彼女は目を瞬かせた。
「玉田瑠璃君」己は呼び直した。
「はあ。なんでしょうか」彼女は目を凄く瞬かせた。
「玉田二年生」己は更に呼び直した。
「はあ。ええと」彼女は小首を傾げた。肩に流してある太い三編みが揺れた。毛先が解れた。
己は彼女のメゾ・ソプラノの味わいが好きだった。無論、それを独占して楽しむために、こんなに彼女の名前を連呼している訳ではない。
話の緒をどう着けたものか、己はそれに悩んでいるのだった。時間はない。戦闘開始までは一時間を切っている。いまの時点でやっておくべきことは粗方、やっつけてはあるが、この瞬間にも次の仕事が現出しているかもしれない。早く配置に戻らねばならなかった。副官や課員らに無理を言って拵えて貰った時間はこの際、金よりも貴重である。それをなぜまたこんなに無駄にしているのかと軽い自己嫌悪を覚えた。
「そういえば訊き忘れてたなと思ってね。わざわざ呼び出してすまないが、いいかな」
己は回り道を選んだ。急がば回れとも言うではないか、と、内心でゴネるもうひとりの己を説得する。
「君はなんで僕を助けてくれた?」
「はあ」玉田はキョトンとした。「それは……」
「それは?」
「なんででしょうか」うーんと彼女は唸った。反射的に腕を組みそうになったらしく顔を顰めた。「よくわかんないです」
これには己も拍子抜け、ずっコケるかと思った。己は苦笑した。鬢の辺りを掻いた。己の釈然としていないのが伝わったのだろう、玉田は慌てて、
「いやでもっ」反射的に右手を振りそうになって顔を顰めた。
「平気かね」己は尋ねた。
「平気ですっ」玉田は何故か頬を膨らませた。その頬はほんのりと赤かった。汗ばんでもいた。「――いやでも、考えてみると、部長よりかは私になるのかなあ……って、思ったんじゃないかなあ、と」
「部長よりかは私になる」
手持ち無沙汰な己は人事部から来た書類を折り紙にして遊び始めた。「それというのは?」
「だって、私の代わりはたくさんいるじゃないですか」玉田は言葉を選んでいるようだった。「でも、部長の代わりは誰もいませんから」
「合理的だ」己は相槌を打った。
「そういうのじゃなくて」彼女は煮えきらなかった。なんていうんだろう、とか、だからその、とか、彼女は百も二百も独り言を重ねて、ついに適切なセンテンスを組み上げられなかったらしい。彼女は思い切ったように目を閉じた。そのままグッと上体を前に突き出して言った。「私、高学歴の方って苦手だったんですっ」
「続けて?」
「このゲームを初めて二年になりますけど」
「そうだろうね」
「行く先々で出会った、どんな高学歴の人も、私のことをニブいとかトロいとか、それだけなら事実だからいいんですけど、とにかく悪い風に言うんです。言うだけじゃないんです。酷いことするんです。でも、部長はあのとき、私が震えてたら、笑いかけてくれたじゃないですか。それだけじゃないんです。部長、部長の方では覚えていらっしゃらないでしょうけど、普段、仕事をしているときも、なにげないとき、私に優しくしてくださったので」
伏し目がちに、彼女はむしろ寂しげに笑った。「それが嬉しかったんだと思います。それでワーッ、って、やっちゃいました。ええと、ご迷惑でしたか」
「そんなことがあるもんか」
己は咄嗟に笑い返した。内心は穏やかではなかった。笑いかけてくれた? なるほど、そう見えたのか。そうかもしれない。だがな、玉田、違う。それは違う。己はお前を励ますために笑っていたんじゃない。お前を笑うことで自分を励ましていたんだ。
いま、お前が相対している、どういう好意を抱いてくれているかはわからないが、とにかく高い評価を与えてくれている野郎は、結局、お前の見てきた高学歴と同じなんだよ。否、それよりずっと悪辣かもしれない。
己はお前を騙している。
馬鹿な女だとすら思っている。蔑んでいる。あまつさえ疑ってもいるのだ。どれだけ慕っている相手に対してだろうが、自分の命と引き換えにソイツを助けてやろう――だなんて、本当に思うのか? 思ったのか? 思ったとして、それはいわゆる勢いとかそういうものではないのか。尊ぶべき行いであることに変わりはない。だが、お前自身、ああしたことを後悔しているんじゃないのか。
衝動に駆られた。なにもかも、己の本当の身分から目的に至るまで、このお茶目でドジな同級生に明かしてしまえばどうなるだろう。できるはずもない。だが、やってみたらどうなるだろう。己への評価はどう変わる? どういう風に接してくれる? どういう風に痛めつけてくれる? お前は己を殺してくれるか。
このごろわからなくなってきている。己は自覚していた。軍の中央に長く居た。だから当然、己の周りには高学歴しかいなかった。ナマの低学歴と触れ合う機会はひとつもなかった。それだけに己の偏見は修正されることなくここまできた。最近はどうだ。
那須城崎にせよ、投木原にせよ、浜千鳥にせよ、須藤にせよ、この玉田にせよ、自分のことを慕ってくれる、好いてくれる、能力のある、そういう低学歴と、これから己はどうやって付き合っていけばいいのか。というよりも、そもそも、低学歴という存在をどう捉え直すべきなのか。
彼らと友好的な関係を築くには己の立場は複雑過ぎた。心理も。或いは単純なのかも。己は自分をただただ良く見せたいだけだった。ただただ他人より優れていることを信じたいだけだった。ただただ他人より傷つくことが嫌いなだけだった。対等な立場というものも嫌いだった。そのために低学歴を見下してきた。
彼らと手を繋ぐためには、己はこの、己を構成しているあらゆるプライドと偏見を捨てねばならない。――つまり、己は卑屈で卑怯で、これまで歩んできた道程には間違いしかなかったと、全面的に認めねばならない。
部分的にならできる。いつもしてきた。だが、全面的にとなると怯む。できない。しかし、まるで女の腐ったのだ、己は自分のその怯みを許すこともできない。
ならば、と、考えた。ならばせめて。ならばせめて。何か。自分の命を救ってくれた彼女にぐらいは相応の報いをしなければならない。(要するにコレもまた自己保身、砂上の楼閣に過ぎない自己の精神を補強するための突貫工事だ。何時か錆が出る。出れば崩れる。その場凌ぎだとわかっていても、己はその選択を既にしてしまった。そしてまた、その場凌ぎの馬脚が現れたとき、新たなるその場凌ぎを捏ね上げるのだろう。嫌気が差す。だが、それが己という人間であり、そう開き直ってしまうことは、自分を否定するよりはずっと気楽で、しかも苦痛が少ないのだった)
「玉田」己はつい呼び捨てにしてしまった。
「は」玉田は身構えた。小さな肩が跳ね上がった。「はい?」
「お前」まずいなと思ったが言葉が溢れた。
「まるで人魚姫だ。放っておけない。お前はそのうち、己のためとか言って勝手に泡になりかねない。そんなことは度し難い。許せない。君が現在の配置に不満を持っていることは調べた。配置転換を希望していることもだ。以上、二点の理由からお前を現職から解く。人事には了承を得ている。お前の新しい配置は己の次席副官だ。不服は。――ああ、付け加えておくが、お前の上司だった武藤とかいうアホはロホーヒルヒに戻ると同時に更迭する。あんな暴力馬鹿を課長に据えていたのは己の間違いだった。すまん」
「……。……。……。」
玉田は目を超凄く瞬かせた。彼女は右手で自分の頬を抓ろうとして顔を顰めた。それでもう、これが夢でないことはわかったろうに、どういう料簡か左手を使って頬を抓った。痛がった。彼女は右を見た。左を見た。どこでも司令部要員が走り回っていた。彼女はついに空を仰いだ。青かった。何匹かの鳥がそこを羽ばたいて行った。
「部長」玉田は的外れなことを口走った。「人魚姫、好きなんですか?」
「悲しい童話は嫌いだ。だが、どういうわけか悲しい童話ばかり知っている」
「私、悲しくない童話を沢山、知ってますよ」
「か。何時かオススメを教えてくれ」
「はい」玉田は瞳に一杯の涙を溜めていた。己は彼女に手慰みで折った折り紙の花をくれてやった。彼女の涙は滔々と流れた。彼女は泣きながら笑った。
涙でも地面の養分にはなるのかな? なるとすれば、彼女の涙で咲く、来年のいまごろの花はどんなものだろうか。その色を己は知りたいと思った。花の種類はどうでもよかった。ただ色が知りたかった。その色を己は嫌いになりたいと思った。
こうして、彼女は己について何かを決定的に誤解したのだった。
――――ラデンプール会戦が始まった。





