5章12話/秘め事
狭い森の中で四列縦隊が急停止した。行軍に慣れていない己は足を止めるのが遅れた。つんのめり、危うくすっ転ぶところだったのを、横から須藤の手が伸びてきて支えた。不本意ながら助けられたことは事実である。礼を述べようと奴の方を見やると、野郎は人を馬鹿にしたような笑みを浮かべつつ、シーッ、と、立てた人指し指を唇に当てていた。
「小隊長より逓伝」
伝言ゲームと同じ方式で、先頭を歩く吉田からの命令が届いた。「全隊停止。小隊長と小隊下士官が物音を聴いた。小隊長がこれより音源周辺を捜索。小隊は屈んで次の命令を待て。その間は絶対に沈黙しておること。捜索の結果、敵影を発見した場合はコレとの遭遇は可能な限り回避する。ただし、回避不可能である場合は先手を取って白兵で始末をつける。位置暴露を避けるため発砲は厳にこれを慎むこと。違反者には罰則。着剣していない者は速やかに着剣」
己はこの命令を後方へ伝えた。己の後ろにはまだ三列ほどが続いている。隊列の後ろではあるが後ろ過ぎない、つまり比較的、安全なところを吉田は譲ってくれているのだった。身に染みるね。
白兵か――。己は膝を突くと水分の染み出してくる地面に半ば、座り込みながら考えた。そんなものの経験はない。
そもそも己は銃を持っていなかった。撃ったこともロクになかった。
ゲーム内のアバターはプレイヤーの現実世界の体力、それにアバターの性別や身長、体重などと一切、無関係で、ゲーム内で運動すればするだけ身体能力が向上する。逆に、積極的に鍛えなければ初期設定のまま成長せず、その状態では数十メートルを走っただけで吐き気の込み上げてくるほど息切れする。
甘木のアバターは、書類仕事しかしたことのない己の本来のアバターと異なり、わりかし鍛えられている方かと思うが、兵站部長がバリバリの肉体派では件のスパイ容疑を強められても文句は言えない。己は自分から銃の所持を拒否したのだった。
隣の須藤が腰の鞘から銃剣を抜いた。彼以外の下士官、兵は、ほぼ全員が行軍のはじめから着剣していた。そうすることで、歩き難い泥中、つい銃を杖にしてしまったときなど、銃剣がカバーになって、銃口から内部へ異物の入るのを防げる。(内部に異物が入っていては暴発の恐れがある。また、それが湿っていた場合、火薬まで湿ってしまうので不発が増える。マスケット銃はただでさえ不発率が高い。戦列を組む理由のひとつに、集団で発砲しないと誰も射撃が出来ない可能性があるから、も含まれるぐらいだ)
己は何を無駄なことを考えている? 否、無駄なことを長々と考えるのは何時ものことだが、どうしてまたこんなときに銃剣のことなぞを。
どこかで梟か何かの鳴き声が聴こえた。己は悲鳴をあげそうになった。見栄だけで耐えた。腹の中で腸がゴロゴロと蠢いた。神様に祈らねばならないなと思った。胃の中で、まだ消化されていないらしい食べ物が右側に偏った気がする。胃の壁に溶けた肉が張り付いたのが感覚でわかった。
ビビッているらしい。そりゃあそうだろう。認めるべきだ。認めない意味がない。自分が兵として参加する初めての戦闘がこれから起こるかもしれないってんで、畜生め、膝が震える。武者震いではない。止められない。森は深かった。暗かった。どれだけ目を細めても隣の奴までしか見えない。数センチ感覚で生い茂る木々のどこかの影に敵が潜んでいてもおかしくはなかった。
誠に恥ずかしながら己は那須城崎を盗み見た。アイツも震えを我慢していることがわかれば、少しでも気分が楽になる気がした。なんて卑怯な。
果たして那須城崎も怯えていた。彼女は笑うことで自分を誤魔化していた。追い詰められた人間は笑うしかなくなるというのは都市伝説ではないらしかった。――そういえばこういうニタニタ笑いを、己はよく見る気がする。どこでだったか。頭がうまく回転しなかった。己自身もニタニタと笑った。気分は少しもよくならなかった。
これだけ注意力散漫になっているというのに、己は視線を感じた。それだけ視線に熱が籠もっていたのだった。玉田だった。お前はどれだけ己のことを見ていたいんだ。やめてくれ。お前みたようなまずまずの美少女に見られてると、なあ、ほら、己の心臓が、可哀想に、こんなにバクバクになってるじゃあないか。
彼女は自分の身体を抱くようにして派手に震えていた。辛うじて、歯と歯がガチガチと噛み合うのを制御している。
己と目線を交換しながら彼女は含羞んだ。恥ずかしいらしい。恥ずかしいけれども、誰かと恥ずかしさと怖さを共有していなければ居ても立っても居られないらしくもあった。(那須城崎も彼女も純粋な身体能力不足から銃を持っていない。戦闘になれば真先に殺される)
己たちが見詰め合ったのは何秒間だったろうか。ニ秒だった気もする。三六〇〇秒だった気がする。だが、きっと吊り橋効果に違いなかろうが、己と彼女はお互いの心理を、長く連れ添って、双方ともに嫌気が差しながらも他の相手が考えられない老夫婦の如く悟りあった。たとえニ秒であろうと、そのニ秒は三〇年間に相当しかねなかった。
低学歴相手になにをやっているのか。己はハッと我に返った。しかし、目線を外すことはできなかった。“いまさら外すことができない“のではなかった。いまや己自身、彼女の紫色の瞳を見詰めていなければ発狂しかねない状態なのであった。
放っておけば、己たちは永遠に見詰め合っていたかもしれない。それが沙汰止みとなったのは己たちの直ぐ右手の木陰でガサゴソと物音がしたからだった。
「あ」会敵は突然だった。二人組だった。薄汚れたナリの男連れで銃を持っていた。目を丸くしていた。己は心臓が止まる思いをした。息は実際に詰まった。
そして、己が感じたのは風圧と、顔面に何か粘っこい液体がぶっ掛かったことだけだった。え? と、思っている間に二人の敵は死んでいた。片方はポカンと開けたままにしていた口にマスケットの銃床を叩き込まれて。もう片方は腹にサーベルを突き刺されて。コイツの断末魔は掌で口を覆い隠されたことからついに上がらなかった。
須藤である。まさに驚嘆すべき速さと正確性で、彼が二人を葬ったのだった。
奴は手早くマスケット銃を拾い上げた。銃に異常がないのを検める。倒れた二人の敵の心臓を念の為とばかりにブスリと銃剣でやった。サーベルの刀身に付着した血を払う。普段のチャラいお兄ちゃんの顔はどこへやら、その場に屈み直すのと同時に四方を睨め付けた。いまや彼は敵よりも恐ろしい味方だった。漏らすかと思った。――少しだけ漏らした。
水音がした。玉田からだった。放心状態、彼女は盛大に漏らしていた。須藤がハッとした。“土をかけろ“というようなジェスチャーを見せた。一瞬、理解できなかった。すぐにできた。ニオイだ。この辺りにまだ敵がいるのならばニオイでバレる。
一生懸命、己は足元の地面を手で掘り返した。玉田の足元に広がりつつある水溜りに土を被せる。手で平にして均す。玉田の平均どころか中央値よりもふくよかな――とか気にしている場合か。男はコレだから――ふとももから股間にかけても、セクハラだなんだと言ってはいられない、同じことを繰り返した。途中、ようやく正気を取り戻した玉田は反射的に悲鳴をあげそうになった。それまで腰を抜かしていた那須城崎が跳ね起きてその口に指を突っ込んだ。那須城崎と玉田の顔にも血がベットリと着いていた。
ニオイのせいだけでもなかろう。その他にも色々な要因があったに違いない。(なんで己は玉田を庇ってるんだ?)
新たに四人の敵が現れた。先程の二人と同じ方角からだった。玉田の世話をしていた己はそれを首だけで振り向いて認めた。先程もそうだったが、連中、全員がプレイヤーだった。なんだろうか。
己が疑問を抱いている間に三人が倒された。まるでワニ叩きだ。須藤は――なにしろ人間の腕は二本しかない。同時に相手取れるのは二人までだ――最初に一人の脚を払ってその場に倒した。残り二人を秒で殺した。問題はあと一人だった。彼は他の三人から離れた場所にいた。銃さえ使えれば。
会敵からここまで一分に満たない。四五秒すら満たしていないかもしれない。小隊縦列を構成する他の下士官と兵はまだ状況を把握しきっていなかった。
独り残った敵は逃げなかった。味方を助けようともしなかった。彼は歯を食い縛ると己の方へ駆けてきた。己が奴に背中を向けているからだろう。
殺されるな。でなくとも人質か何かにされる。己はそう直感した。奴は叫ばなかった。常識で考えるならば叫んだ方がいいのに。ということは、奴自身、叫ぶわけにはいかない何らかの理由があるのだ。例えば脱走をしてきたとか。
ヤツの動きはトロい。銃剣を構えている位置もデタラメだ。甘木のスペックを活用すれば返り討ちにすることができるだろう。だが、カタログ・スペックと実戦は違う。己の脚はどうしても動かなかった。
畜生め。どうあれ、己は足手まといになるってことだ。醜態を晒すのは趣味ではない。
そうはならなかった。己と敵兵の間に割って入った者がいたからだった。玉田だった。バネのように立ち上がった彼女は――そのとき、彼女の膝が己の顎を強かに打った――、両腕を大きく広げて敵兵の進路を通せんぼした。玉田と敵が交錯した。玉田の身体から血飛沫が上がった。





