5章4話/メルティング・ハート
なんてことをしているのだろう。
師団兵站部のオフィスに併設された洗面所で己は思った。蛇口を捻れば水が出る。ダイキリの上下水道設備は素晴らしい。もしかすると現実よりも。顔を洗う。タオルで拭う。鏡に反射する、己の顔の造型は現実のそれから乖離している。悪い魔法使いに変えられたわけではない。
あの日、妹の病院を見舞った日だ、会長は電話口で己にこう言った。『折り入って頼みたいのだ。君、君の妹君を監視してはくれないか』
『監視なら吉永が居るでしょう』己は咥えた煙草をピコピコと上下させながら尋ね返した。喫煙所内だった。周囲のオジサン連中が訝しげな目線を向けてくる。己は彼らに背を向けた。
『色々あってね。それを説明すると長いのだ』
『そもそもなぜ監視が必要なのです』
『保険だよ』
『保険?』己は聞き咎めた。
『ひとつよくない噂があるのだよ、君』会長はその概略を述べた。
『事情は飲み込めました。ですが、どうやって監視をしろと。まさか“ヘイ、シスター。ブラザーが来たぜ“と言うわけにはいかないでしょう』
『甘木君だよ』会長はこともなげに言った。
『甘木君のアカウントを使い給え。実はね、甘木君は実在するがしない人物なのだ。ハハハ。学籍は我が校にある。普通科の二年生だ。気立ての良い普通の青年だよ。しかし、彼本人はあのアカウントを使っていない。今まで、一年八ヶ月、このアカウントを使ってきたのは彼ではない違う人々なのだ。素性を隠してのスパイ活動などのために。このアカウントを一度でも使ったことのある人々を私は全員ひっくるめて『甘木君』と呼んでいる。ちなみに心配するがものはないよ。一人のプレイヤーが二つの異なるアカウントを使うのはレギュレーション違反ではないからね、君。いや、正確にはレギュレーションで特に規定されていないというのが正しいのだが、ま、同じことだよ』
プレイヤー・キャラクターのアバター(ゲーム内で使用するキャラクター)、その外見は任意に変更することができる。
通常は、なにしろ進路に関わるゲーム、本名を使い、自分の顔に似せて作る訳だが、会長はその固定観念を諜報活動に利用しているのだった。(甘木という名前で活動しているプレイヤーの中身が別人だとは誰も思わない)
……甘木と言えばキラー・エリート崩壊の際にそれを内部から手引きした人物でもある。
と、すればだ。己は感付いた。甘木は妹と同じ部活の誰かということになるのではないか? 誰が甘木を使っていたのだろう。
好奇心が働いた。だから己は、こうして、甘木として妹の師団兵站部長をやっている。
甘木の正体はまだ掴めない。どころか、探れば探るほど特定が難しくなってきていた。容疑者は三人、花村に頂に須藤だが、花村は能ある鷹かもしれず、頂は妹にずるずるべったり過ぎ、須藤はゲームにも部にも来る頻度が少なかったらしいからどうとでも疑えた。三人とも怪しいと言えば怪しく、怪しくないと言えば怪しくない。
そもそも特定できたとして己はどうするつもりなのだろう。
『ほら、兄さんがお前の居場所を奪った野郎を見つけ出してやったぞ』とでも言うつもりか。それで妹の許しを請いたいと? あわよくば過去を清算したいと?
残念だったな。アイツの居場所を奪ったのは甘木ではなくて己だ。いや、いまは己も甘木なのか。頭がこんがらがってきた。





