4章2話/ぼくらはみんないきている!
半世紀前、誰が、地球の裏側に住む見知らぬ誰かの飲んでいる珈琲にイチャモンをつけられただろうか。『こんなの飲む奴は味覚障害だ! 常識がない!』
――発端はある大学教授の一言だった。
『あの、ゲームの、軍隊は、なぜ、一日に、三〇キロしか、移動、できないのだろうか。老体の、私ですら、三〇キロ以上は、歩ける。コンディションにも、よるが、三五キロ以上、歩ける、こともある』
こういう場合、問題提起をする側はそもそも前提条件を理解していないことが多い。三〇キロ歩けるって? それはお宅の個人的な話だろう。一人で、歩きやすく舗装してある現代の道を、コンビニとか寄りつつ、スマホで音楽なんか聴きながら手ブラで――の話だろう。
集団で組む隊列を維持しながら、食料にも娯楽にも事欠き、九キロの背嚢を背負いながらの行軍と一緒にしてはならない。そも、軍隊は数週間に渡って行軍せねばならず、一日ぐらい素早く動いたところで無駄に疲れるだけだ。(何事も批判するのは批判する対象について詳しくない人間だけという、これは証左である)
とはいえ、である。六五歳の爺様がSNS上で何を言おうが自由なはずだ。己は『アホめ』と思うだけで済ませた。済ませられた。
済ませられない人たちもいる。彼ら、正義依存症候群の民は老教授に向かって言った。『こんなこともわからないのに教授なんですか。アンタに教えられる学生が哀れだ』
老教授を批判すると見せかけて自分の知識自慢をしたいだけの者も多かった。その知識に対する訂正や校正や批判も相次いだ。
『それは間違っています。正確にはこうです(-_-;)』
『いえ、史実ではこれが正しいのです』
『確かにゲーム内国家は史実をモチーフにしているけど、技術や辿ってきた歴史が違うから戦争の様式なんかも変わってくるんだよ。普通に考えればわかるだろ。そんなこともわからねえのか(普通に考えたら人前では使わない言葉)ども』
老教授の勤務先の大学には苦情と悪質な嫌がらせとが雪崩の如く押し寄せた。老教授と同じ学校に在籍しているというだけで人間性を疑われるようなことにまでなった。老教授は自らの無知を素直に認めた。謝罪もした。何故か、彼を叩く声は彼が謝罪する、反省する、過去を悔いるたびに強くなっていった。
正義依存症候群の民は勝ち誇った。
彼らの一部は味を占め、別の獲物を求めて、見なくても良い発言を探しにネットの海を彷徨った。その様子を見ていた正義依存症候群アレルギーの人々がこう言った。『なぜ、お前らは他人の無知を責めるのか? ならお前らは何でも知ってるんだろうな』
見るに堪えない。大人も子供もお姉さんもお兄さんも激しく議論をし始めた。
ネット上で議論をする両陣営に代表者がいるわけでもない。散発的に、アチコチでCtoC的議論が行われるだけだ。
彼等のある者は勝利して『やはり自分たちが正しいのだ!』と主張した。
彼等のある者は敗北して『奴らが間違っているのに!』と発狂した。
どちらの意見が本当に正しいかなど議論の全体像が掴めないのだから判別できない。しかも正義依存症候群の民は民で、アレルギーの人々は人々で、そのような曖昧な派閥に所属はしているものの、仲間同士で意思疎通ができているわけでもない。どころか、仲間同士でさえ論点や細かい意見が異なっている場合がある。彼等は時として仲間同士で詰りあうのだった。――
そのうち話が大きくなってきた。例の老教授がついに辞職させられた上、彼の顔写真の悪質なコラージュが流行する中、様々なメディアが様々な企画や記事を発表した。
その中には老教授の無知を辛辣に批判するものがあった。ネット民を執拗に攻撃するものがあった。中立的な立場を取るものがあった。誰も言えない(或いは敢えて言わない)ことを言って得意げにしているものもあった。メディアも老教授もネット民も纏めてナンセンス・ジョークの題材にしてしまうものもあった。『ヒノモトの将来が心配だ』と嘆くだけのものもあった。老教授を呼び出して涙ながらに語らせる悪質な番組もあった。
オオトリはゲーム規制派と反規制派の対決である。規制派は言う。『この世界にはブラスペが規制されていなかった為に被害を受けた人たちがいる。彼等のためにゲーム規制をいまこそ行うべきである』
一理ある。だが、彼等はその話をこう続ける。『ゲーム規制がないから被害にあった人でゲームを肯定的に評価できるものは絶対にいない。同様に、ゲーム被害にあった人を知人に持つなら絶対にゲームを肯定的に見られない。なに? 自分はゲームで被害にあった人間がいるが、その人はそれでもゲームを愛している? それは嘘だ! 捏造! 捏造! それかソレが普通だと洗脳されてるんだ!』
最初、ブラスペだけを叩いていたはずのゲーム規制派は全てのゲームを悪だと断じ始めた。否、規制派の中にも派閥があって、別に全てのゲームが害悪ではないという人たちもいる。だが彼等は彼等で、彼等が独自に設けた基準を満たすのならば、それだけでそのゲームは名作だと持て囃す。ゲーム性など二の次だ。
反規制派も黙っていない。お決まりの、表現や言論の自由や『現実として高校生はああでもしないと稼げないのだ』がぶちあげられた。
一理ある。だが、彼等はその話をこう続ける。『ゲーム規制論者は自分がゲームで活躍できなかった無能どもの成れの果てなんだ。つまり負け犬なんだ。じゃなければゲームを批判するはずがない。それにゲーム被害っていうが、被害を受けたくないなら自衛すればいいだけのことだろうに。まさかそんなこともできないのか。簡単なことなのに』
ところで、彼等が当然のように振り回すゲーム被害とは何なのだろうか? どうも、ゲームをしていて、単刀直入に言ってしまうが、アバターをレイプされたとか、作中の表現からトラウマを被ったとか『ゲームのプレイ動画を見て傷ついた子供たちの人権が云々!』とかそういうことでもあるらしい。人によって違うニュアンスで使っている。
定義の正確でない言葉を使えばどうなるか。規制派と反規制派は噛み合わない議論を続ける。やがて、多面的になった議題のある一側面だけに固執するようになった両者は『自分たちの正しさがなんでアイツらにはわからないんだろう?』と思い出す。
理論は飛躍する。『彼等が悪だからだ。悪人は正義を理解できないから悪人なのだ』と。
行くところまで行くと『自分だけが正しいのだ』とか主張しだす奴らもいる。彼等は敵対者に対する『こうなんだろうな』という推測をそのまま真実だと信じ込む。
『ああ』と悟る輩もいる。『あいつらは可哀想な人たちなんだなあ。可哀想だなあ! 此の世のなーにもかもは可哀想だなあ! 世界は下らないなあ!』
論点はズレにズレていく。最終的には議論でも罵り合いですらなくなる。ただ、相手の人格が如何に劣悪かを並べ立てるだけの攻撃に行き着く。『あんな下等な連中の信じているものが正しいはずがない』
この時代、真実など何処にでもあるが実在はしない。誰もが自分にとっての真実を発信する。自分に都合の良い情報をばかり集める。自説を補強してくれる言葉はみんな正論に思える。そうして似た意見の人々が集まり、自分たちの意見以外を徹底的に排斥した、閉鎖的な集団が完成する。
彼等にとって正しいことは他人にとって正しくない。他人にとって正しいことは彼等にとって正しくない。議論している相手の意見の長所と自分のそれとを合体させるという発想には行き着かない。
大体だ。ある問題を議論するとき、その問題に纏わる被害者と加害者とが居たとして――。
一〇対〇で加害者が悪いなら加害者を責めまくれ(世の中にはそういうことも多い)。だが九対一でも被害者の側にも非があるならば、加害者を断罪するのは当たり前として、被害者も戒められて然るべきではないのか。
加害者と同じだけ罰する必要はない。だが、『次からは面倒事にならないように気をつけようね』ぐらいは言っておかねばならないのではないか。(全ての例がそうではないにせよ、世の中には『虐められる方も悪かった虐め』も存在する。その“悪かった点“を放置すれば虐めはただただ繰り返される。一方的に加害者だけを責めることは被害者を利さない。一方的に加害者を責めて得られるものは『自分たちはいいことをしている』という卑近な自己満足だけだ)
確かに被害者への擁護、労り、慰め、そういったアフター・フォローは行われるべきである。だが、それらが行き過ぎて行われたとき、九対一という現実は一〇対〇に歪められる。結果、それに不満を抱いた敵だけを増やす。『悪者はアイツらだ!』という訴えは、それが正しい場合ですら理解され難くなっていく。
……だが、かくも偉そうなことを言う己自身、嫌いなものを前にして自制が効くかと尋ねられれば効かない。王様の耳はロバの耳としてしまえばよいものを、なにを好き好んでか、口や態度に出してしまう。頭でわかっていても止められない。
人間は感情で生きる。嫌いな相手の意見をなぜ認めねばならないだろう。己たちは相手の意見が嫌いなのではないのだ。相手が嫌いだからその意見まで嫌いになるのだろう。坊主憎ければなんとやら。
この時代の特徴がもうひとつある。ムーブメントが一瞬で消費されることだ。あの、老教授の炎上に端を発した一連の議論は開始から五日ほどで飽きられてしまった。
シュラーバッハ会戦から一週間が経過しようとしていた。





