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1章3話/斜陽。


『えー』老教師が咳をした。先週からもうずっとだ。当年取って六六歳、この御時世では定年まであと九年あるが、年金を繰り下げ受給してでも退職した方が良いと思われる。


『あーむ、む、む、失礼しました。では先週の復習から』


 私の通う七導館々々(しちどうかんかんかん)高校普通科、その二年三組の教室であった。欠席者を差っ引いてもニ五〇名にはなる生徒たちは階段状の教室に散らばっている。前の方はガラガラだ。かくいう私も最後尾の席に座って遊んでいた。右隣の、何時も顔を見るが話したことのないポニー・テールはヘッド・フォンで音楽を聴いている。手にしたシャーペンをリズムに合わせて振る彼女の様子は鬼気迫るものがあって面白い。(それにしても高級なヘッド・フォンだ)


 ひとつ前の席の二人組はお化粧に余念がない。左から漂ってくるイイ匂いの源へ目を配れば何人かで鍋をやっている。混ざろうかな、と、一瞬だけ考えたがやめた。なにかしら事情があるのだろうが、我が校へ来てまで勉強に未練があるらしい幾人かが迷惑そうにしていたからだ。手持ち無沙汰な私は――小説を読む気分ではない――止むを得ずまた例の紙を取り出した。


 中間テストの成績表であった。


 左右来宮(さゆうきのみや)右京子(うきょうこ)の名前はニ四番目にある。ざっと一〇〇〇人の普通科でこの順位なら悪くない。だが、どうしても絶対的な順位だとは思われなかった。つい兄と自分とを比較してしまうのだった。彼が通う高校の偏差値は七〇を超えるが、とはいえ、あの兄である。学年主席をキープしているに決まっていた。『お兄ちゃんはアンタと違って何でも出来るのよ。逆にアンタはどうしてこんなこともできないの?』


『現代社会の問題は貧困であります』と老教師はマイク越しに強調した。平均給与が三〇〇万円を割ろうとしていると彼は嘆いた。大変だなあ。


 この貧困の原因は多岐に渡る。例えば、メリケンの、あの超大国のポピュラリストから押し付けられるがままに行った関税撤廃や移民受け入れの影響も大きい。


 最初、なにしろ我が国の人口ピラミッドと言えば酷いものだから、移民は素晴らしい労働力になると歓迎された。人件費も安いし。


 現在はどうか。近年の大不況によって生じた数多のヒノモト人失業者、彼らが糊口を凌ぐための単純労働は殆ど外国人によって占められており、移民排斥が叫ばれるようになって久しい。叫び続ける哀れなる市民の言い分はこうだ。『騙された! 政府に騙された! マジで! 自分たちは悪くない! ちなみに僕は私は俺はアタイは投票に行ってないけどね! あ、自分なんかは親の世代が勝手に決めたことの被害者ですのでよろしく!』


『で』


 教師は声を低くした。『最後に我が国の経済にトドメを刺したのがあの連続地震でありました。教科書で言うところの“時計を止めた六年間”ですな。ただでさえ旧エウロパ共同体の事実上の崩壊、それによって貨幣危機だの、各国での自国産業保護の傾向だの、輸出国の財政が傾いただのがあった時期でした。えー、おほん? では、当時の映像を見ていきましょうか?』


 老教師の背後、馬鹿にデカいスクリーンに懐かしの光景が映し出された。私は手にした成績表を両手で絞るようにして破いた。胸が苦しかった。スクリーン一杯に廃墟が広がっていた。アチコチで人が倒れていた。倒れている人の傍らに座り尽くす者もあった。多くは泣く気力すら喪っていた。彼らの傍を、まるで何事も無かったかのように、むしろ楽しむようにして歩く幼児の姿がアップで撮影されたりもしていた。幼児の保護者らしき姿はどこにも見えない。しかし、誰も幼児を気にかける様子はない。否、ないのは余裕だ。誰を責めることもできない。――


『ヘイセイニ九年にトウカイ地震がありました。三〇年にトウナンカイ、ナンカイ、追い打ちのように、どうですか、皆さんが四歳か五歳ですか? 六歳もいる? レイワ四年にホッカイドー大震災です。どの地震でも首都が受けた損害が想定よりも遥かに小さかったことだけが不幸中の幸いであります。――いえ、あの、先生は事実を事実として紹介しているだけなのですが、不幸中の幸いという言葉は不適切だったかもしれません。被災者やその遺族の方などに。ここにもいらっしゃるでしょうから。謝罪します。君、そこに座ってる君、ボイスレコーダーをちょっと止めて貰っていいですか』


 国家財政の悪化に伴い被災地の復興は今日に至るまで放置されている。職や家を失った人々はトヲキョヲ近郊に集まっていた。集まらざるを得ない。そこにしか仕事がないからだ。人口とGDPの過半数が首都圏に集中しているならば? 地方に税金を使う蓋然性などない。


 ましてや地震以来、信頼を失った円の価値は底冷えして復活する兆しも――我が国は既に“モノづくり大国”ではなくなっている。円安を逆手に取ろうにも売るものがない。こんな災害だらけの国に好んで観光に来る者も少ない――見えないのだ。消費の滞った昨今、誰が好き好んで、消費を促進しない田舎を救済したがるだろう。


『あー、というわけで、これで、もし、首都直下型地震が来たらデフォルトする他にないのが我がヒノモトの現状です。我々はあの地震が来るのが明日か? 今日か? それとも五分後か? 常に怯えて過ごしています。皆様もそうでしょう?』


 その皆様の大半は私語雑談に興じている。鍋をやっていた連中など乾杯を始めた。教師はまた咳込みだす。彼はどうしてこのような教室環境で語りかけるように話すのか。その真意を推察すると居た堪れなくなる。


 付き合いきれなくなった私は教室を出た。扉を閉めるとき、何人かの生徒が酷く同情した様子で老教師を見ているのに気が付いた。


 廊下の窓から見下ろせるのは、この、急な斜面に沿って建てられた総合高校の校舎群であった。俯瞰すればするほど棚田に似ている。今頃、暗雲が立ち籠めているだろう都心の空に引き換えて、タマのそれは清らかだった。私の気分はこの空のために幾分マシになった。


 私は部室へ向けて歩き始めた。どの校舎のどの階にもあるラウンジでは授業をサボった生徒らが各々の興味に惑溺(のめりこんで)いた。「程々にしとけよー」と、彼らに注意する教師の九割は大学を出て間もないか老い過ぎていた。揃いも揃って覇気がない。


 唯一、校舎を出て、部室棟へ向かう坂道で出会した高橋だけが例外である。年中を和装で通す七ニ歳の彼は今日も今日とて竹刀を持っていた。坂道の両側ではサツキが咲き誇っていた。我が学園内には緑が豊富なのだった。(“緑の豊富な中に強引に学園を建てている”が正確な表現ではある。すみませんね。間借りして)


「左右来宮!」彼は私を見つけるなり手招きした。「授業中だぞ。どこへ行く」


「少し気分が悪いので保健室へ」


「人様を殺しておいて気分も何もあるのか。お前が殺した相手は気分が悪いでは済まなかったと思うがなあ」


 高橋は竹刀を地面に突き立ててお説教を始めた。私たちの脇を何食わぬ顔で通り抜けていく他のサボりには目もくれない。そのサボりたちは口々に、人によっては無遠慮故に、人によっては敢えて、私に聴こえるように噂していた。『アイツって左右来宮だろ? まとめサイトで見た。なんか、いや、よく知らないんだけど、小学生でもやらないようなミスをして負けたって。なんでも後ろに回り込まれたのに気が付かなかったとかでさ。俺、結構、気になってたんだけど、あれだけ悪く書かれてると――』


「――この前、お前が殺した高学歴だがな」高橋が吠え続けている。


「左右来宮。高学歴というのはお前よりずっと高級な人間なんだぞ。わかるか。お前のような落ち零れとは違うのだ。ああ、落ち零れで思い出した。寿々㐂家(すずきや)だ。アイツ、実に愉快だ、ついにクビになったそうじゃないか。ざまをみるがいい。なにがキラー・エリートだ。奇襲を受けて全滅とは情けない」


 一昔前なら。私は日に日に強まる湿気のためにゴワゴワする髪の毛を撫で付けながら思った。この程度の暴言でもバレれば懲戒免職だったらしいが、いったい、ヘイセイの世にはどれだけの教師がいたのか?


 高橋は手を変え品を変えて私を楽しませてくれた。

 

 お前、香水をつけ過ぎているぞ。


 お前、またアルコール度数の高い酒を飲んでるんじゃあるまいな。


 お前、誰かとふしだらな関係にあるまいな。


 私はいちいち頭を下げて否定する。高橋は、以前は良く生徒に向けられていたという竹刀を無闇矢鱈と振り回すだけ振り回す。


「とっとと行け」ある意味で時代に敗北している高橋は吐き捨てた。


「ニタニタしよってからに。いつか生徒指導室へ連れていってやる。拷問にかけてやるからな。電気椅子だぞ、電気椅子」


 先生、それは拷問ではなくて死刑では。とは――言わないことにしておく。私でもそのぐらいの知恵は回る。畜生め。(この畜生は私自身に向けたものですよ、念の為)


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