番外編2章51話/学院戦争 - 12(花見盛)
一九七八年五月二〇日のことである。成田空港が開港した。いきなり何の話だ、と、俺ですら思うがまあ聞いて頂きたい。適当に。
新空港開港が閣議決定されてから実に一二年越しのことである。なしてまたそんなに遅延したのかと言えば地元住民による反対運動の為だ。三里塚闘争、又は成田闘争と呼ばれるこの運動については、既に突き詰めた研究が幾つも発表されているので、詳細はそちらに譲る。ここでは運動の経緯と顛末について乱暴な概略を述べるに留める。
事の発端は航空需要の高まりであった。当時は高度経済成長期の真只中である。国際輸送と旅客における航空機の重要性が高まり、更に大型ジェット機の就航数が増えるに従って、羽田空港の発着能力が不足し始めた。滑走路の数が足りておらず、既存の滑走路もその距離が短いので、将来的に就役するであろう超音速旅客機の運用に支障を来すとも判断された――飛行機はその図体により必要とする滑走路の距離が変わる。基本的に図体が大きければ大きいだけより長い滑走路が必要とされる――のである。
初期、政府は羽田の拡張で対応しようとした。ところが運輸省による次の見解でその判断を改めねばならなくなった。曰く、『羽田を拡張するとしたら東京湾沖に延伸することとなる。この場合、東京港の港湾計画が崩れてしまう。また、現有の国産港湾土木技術では埋め立て作業が難しく、更にアメリカ空軍の管制地域との兼ね合いもあり、航空機の離発着経路が極めて限定される』
そこで新空港開設と相成った。言うまでもなく新空港開設は大事業である。故に、重ねて言うまでもなく、政治家と官僚による駆け引きがまず始まった。この駆け引きは建設候補地を巡って激化した。例えばココなら私の知り合いの建設会社を安く使えてしかも私の懐も潤いそうだとか、地元が近いのでココに建てられれば票集めが楽になるとか、その手の激化である。候補地は、最初、チバ県は富里に定められたが、地元住民による猛反発を受けて成田へと変更されることになった。
成田が選ばれたのは御料牧場の存在が大きい。御料牧場とは古代から――なんと八世紀頃から――成田に根付いた巨大牧場で、メイジの御代、富国強兵を掲げた我が国がその一環として行った殖産興業により国有化されていた。(御料の名が示す通り皇室縁である。宮内庁の管轄下にあった)
この御料牧場を取り潰して、その跡地を軸に周辺の山林や田畑を買い上げれば、素早く、それも最小限の反発で空港を作り上げられるのではないか。そういうことである。お誂え向きに周辺の田畑は開墾されてから日が浅かった。というのは、戦後、復員した兵隊さんであるとか、空襲で東京から焼き出されたとか、行き場の無い人々が入植した土地が成田――三里塚だったのである。先祖代々の土地ではないから金で手放すだろうと(現実に商売が軌道に乗らず金に困っている農家も多かったので)政府は踏んだ。
全てが性急に進められた。候補地の選定に手間取ったこと、一度は定められた富里プランが白紙になったこと、それらの時間の浪費により航空需要問題は切迫していた。早くしなければ明日にも羽田の離発着並びに収容能力が破綻するかもしれない。羽田沖で起きた、政府にとっては折が悪いとしか言えない墜落事故によって、航空業界に対する世間の目が冷ややかになっていたことも政府対応の加速に拍車をかけた。急がねば成田でも住民による反対運動が起きる。野党からの突き上げもあるだろう。新空港建設に失敗したら内閣は解散になるのは間違いない。
これが悪かった。他に手が無かったとはいえ悪かった。政府は地元住民の充分な理解を得ないまま、得る時間の無いまま、得る気もないまま、強引な用地収用(土地買い上げ)を実施した。その態度が地元住民を刺激した。政府の読み違えも甚だしかった。御料牧場の取り潰しは、官僚らしい発想、“国の土地なんだから国が勝手に潰せる”で決められたが、古くからの地元住民からすれば土地の象徴的存在である。物心の付いた時から町にあったものが無くなるのは人情として凄しい。また、牧場で働く人々を相手に店を営み、まずまず繁盛していた地元の商人らによる現実的な反感も買ってしまった。かてて加えて、件の“日の浅い土地”の住人達も、
『どうしてようやく落ち着いたのにまた移動せねばならないのだ』――こう考えた。
住民側にも内紛がましいものはあった。『あそこの人は田畑を相場の五倍だかで買い上げて貰った。それで東京へ移住した。なのにウチは』とか『そもそもウチは買い上げの対象でないから一銭も入って来ない。空港が出来たら騒音で大変なことになるのに』とかである。住人達の中に、買い上げに応じる者は“地元を捨てた裏切り者である”というような、ある種の嫉妬による連帯感(或いは我が国に特有な同調圧力)が生じた。これも事態を複雑化させた。国による交渉や恫喝や脅迫に決して屈しないという風潮が生まれてしまったのである。
そして、そこへ新左翼が絡んだ。学生運動である。手短に言えば『国家権力に負けるな』を標榜する過激派野郎どもだった。
本を正すならば、学生運動とは、戦後の民主化の波に乗って始まった大学内の運動だった。つまり、大学内の不正や腐敗を国や大人は修正しない、ならば自分達の手で――ということになる。性質が性質なので運動は自然と共産的なものへと変貌した。大学が腐敗しているのは国が腐敗しているからだという訳である。(事実としてその時代の大学は汚職や腐敗に塗れていた。進学率を上げるという名目で無駄に乱立された大学群では、テキトーな教師によるやる気のない低質な授業が行われ、その反面、政府による経営援助が少ないので学費が異常に高かった。また、医学生インターン制度、医学部を卒業した学生が正式な医療免許を交付されるまでに一年間の無報酬労働をせねばならないというブラック丸出しな制度が罷り通っていた。これらの問題を学生個人が指摘しても『ああそう』と大学は取り合わず、それどころか逆に退学や単位を認めないなどの処理を行っていたこともあり、学生は団結したのである)
しかし、新左翼運動は、その時期、やや衰退しつつあった。労働者と学生の権利であるとか、そういうアレを主張するのは構わないが、やり口がえげつなさ過ぎるからだった。どうえげつないかは後で語るとして、この類の運動は、民意と世論とを味方に付けねば成功しない。結局、どれだけ騒いで暴れたところで、社会を根底から革命するには数の力が必要だからだ。新左翼運動の彼等は探していた。自分達が民衆の支持を再び受ける方法を。そして、そこに、成田空港の建設問題が飛び込んできた。“横暴な国家権力に立ち向かう哀れでか弱い農民たち”の図式である。彼等は農民らに味方することに決めた。
ここからは話を急ぐ。新左翼が合流、そのノウハウを農民らに提供したことで、空港建設反対運動は大変なことになってしまった。具体的には、反対デモを行う、無許可集会を催す、こんなものは可愛いものだ。空港の建設現場で働いていた作業員が拉致されて殴られる、蹴られる、鉄パイプで殴られる、角材で殴られるなどした。空港公団による強制代執行――土地の強制収用に際してはその土地に砦を築いて立て籠り、動員された警備員や機動隊員に糞尿を袋に詰めた黄金爆弾を投げつける、投石を行う、火炎瓶を投げつけるなどした。無論、空港公団側も、過去の恨み辛みがあるから容赦はしない。砦や鉄塔を中の人間ごとクレーンで薙ぎ倒すなどしている。
民意はしばらく農民側に味方していた。『可哀想じゃないか』と。地元警察も、まあ地元警察だから、反対派にそれとなく肩入れしていた。メディアもそうだ。テレビや新聞は政府を糾弾して、現地に車を派遣し、その車で機動隊の進路を遮ったりした。そうすることで社会的な地位を高めようと狙ったのである。また、一目その騒動を見たいと全国から駆け付けた野次馬らが現地の左翼学生に焚き付けられて、機動隊員に投石を面白半分に行うなどという一幕もあった。いやはやだね。ヒノモト人は礼儀正しいですからね。弱い者の味方だからな。俺とてその場に居たらどうだったか。(ああ、そうそう、左翼学生も全員が理想主義者ではない。『女にモテるから』だの『格好いいから』だので運動に身を投じた者も少なくない)
……結局、左翼学生らによって、三人の機動隊員が虐殺されたことで民意は翻る。地元住人ですら『ここまでやってくれとは頼んでいない』と嘆き――ただし一部では『天罰だ。ざまあみろ』などと三人の死を喜んだ者も居た――始めた。彼等に対して同情的だった地元警察も流石に態度を変えた。三人の機動隊員の死体は検死官が『人のやることではない』と唸る程に原型を留めていなかったという。以後、機動隊員は地元住人らに『人殺し野郎ども』などと罵声を浴びせるようになり、負けじと地元住人も詰り返して、お互いに何か不幸があると快哉を叫ぶなど、官民の対立は更に深刻化するが、土地の収用そのものは間もなく終了する。その終了に前後して、この他、多数の警察官や機動隊員が左翼学生にリンチされて、竹槍で胸を貫かれたとか、目や口を犯人特定のための証言を封じるために潰されたことなどが明るみに出ると、運動は完全に失速した。メディアの中には、昨日までの態度を忘れて、住民側を執拗に叩き始めるものまであった。(なお、失速した後も、また空港が開港した後でも、反対運動というか、テロ行為は続いた。続いている)
さて、前置きは以上だ。重要なのはここからである。
事件後、当然と言えば当然だが、成田を擁するチバ県では次のような精神的土壌が育まれた。『これを繰り返してはいけない』である。そして、そのために練られた諸政策のひとつに教育制度の徹底再整備があった。成田闘争はどう考えても学生運動が絡んでからおかしくなった。学生運動は根絶せねばならない。根絶するためには学校の腐敗や品質の維持に努めねばならない。かくてチバ県は教育立県として成長することになった。教員の採用基準は厳しく、研修は頻繁で、その内容や監査に抜かりはおさおさない。
そのような歴史と教育立県体制がヘイセイの中頃からの我が国の情勢と密接に結び付いた。
まず移民問題に対するリアクションがチバ県では違った。他県、主にトヲキョヲにおけるそれが“安い労働力として受け入れるしかない”とか“決まってしまったことだから仕方ない”であったのに対して、チバ県においては“可能な限り歓迎しよう”であった。民族間の不和と対立が第二の成田闘争と化すかもしれないからだ。
で、それは教育によって、――移民受け入れがどうやら国是となりそうな段階になった時点で、県内のあらゆる小中高校の道徳並びに倫理の授業を強化する(授業時間を増やす)という手法で成し遂げられた。否、正確にはそのような手法でも成し遂げられたと言える。チバは県をあげて、移民の実際的な受け入れ先となる企業、特に中堅以下のそれや住民らに『移民との付き合い方』を説明会やパンフレット配布や相談所の設置などで徹底したのである。ある意味、これもひとつの“教育”だろう。
企業や住民らからは反発、反感が相次いだが、“成田の二の舞になる”という殺し文句が利いた。当時の記憶が生々しい世代はまだ元気だったし、その世代から薫陶を受けた世代が住民の過半であったし、そうでない世代については学校でいいこちゃんになる教育を受けていたのである。
変な言い方だが不景気も有利に働いた。トヲキョヲには高くて住めないという層は交通の便の良さからカナガワかチバに分散していた。また、トヲキョヲの、移民受け入れによって治安が悪くなることが予想される地域の地価や物価が下がる一方、純粋なヒノモト人が集まるだろうと見越された地域では何もかもが高騰したので、それに付き合いきれない層も同様に関東圏全域に広く移動していた。金はあるけどトヲキョヲの煩雑さに耐えられそうもないという層も忘れてはならない。人口の増加がチバ県の税収を豊かにした。その税収が教育費の財源に充てられたのである。
当たり前だが、移住者は、生粋のチバ県民に比べて、遥かに成田闘争や移民問題に対する関心や知見が浅い。このため、両者の間には断層のようなものが形成されるのではと危ぶまれたが、何分、絶対数が違い過ぎた。移住者は割合から言えば人口の一割から二割なのである。
こうして、(この世のどこにでもそれなりの差別はあるのだという諦めも手伝って)、チバには移民が殺到した。移民が多く住むようになったことで税収は更に増した。増した費用は改めて教育や福祉に投じられる。移民の子は満足な教育を受けられないというのが通り相場なこの国において、例外的に、チバにおける移民の進学率は高水準をキープするようになった。この国で奴隷のように働くしか将来がないという親の子だから、移民二世は、ハングリー精神とでも言うべきものを発揮して狂ったように勉強した。純ヒノモト人の学生らも、それに『生意気だ』と反感を覚えるようなことは少なく、むしろ彼等をライバル視し、切磋琢磨して、――チバ県の偏差値の平均はありえないぐらい高くなった。
ところが、その彼等ですら、昨今の大学受験では弾かれることが多い。そこでブラスペの出番となる訳だ。高学歴、チバ県民、そう揶揄されるプレイヤーらのルーツはこれである。南部の開拓がアレ程の速度と勢いと効率で進んだのも成田闘争の影響があるのでは、――と指摘する向きもある。土地開発はどのように進めるべきかについて彼等は幼少時代から叩き込まれているのだ。
――そのチバ県民の典型例とでも言うべき彼女、ウチの参謀総長は、会議が始まるなり発言を求められた。
ミルク・チョコレート色の肌をしていて、整えていない、違うな、整えようとしないから伸び放題でボサボサな金長髪が目立つ。悪目立ちである。荒木などに言わせると『ドクトル・ペッパーとか嬉々として飲んでそうスよね』となる。俺もそう思う。異様というか、異質というか、旧時代のマニアそのものの気配を全身から発している。彼女だけではない。参謀本部の構成員はどいつもこいつもそんな風なチバ県民だった。ウチに合流するまでは高校の歴史部とか史学部とかで燻っていた連中らしい。
「このまま開戦するとですね」参謀総長はボソボソと喋る。ヒヒヒヒと喉の奥で笑う。瓶底眼鏡が光った。
「必敗ですわ。必敗。必敗。負けます。国が滅びますね」
どうしてそんなに楽しげなんだ、アンタ。





