番外編2章39話/うそをうそであるとみぬけるひとでないと(蕪城)
『蕪城さん、僕はね、映画を観に行ったんですよ』と、その人は言った。
中学時代、一五歳でデビューしたということもあって、文壇というかまあそうしたものと付き合いがあった。『君は早熟だね』と言われるのも『君は大成するよ』と言われるのも嫌いだった。幼さ故の反発だろうか。可能性、私が備えるそれはどれだけのものか、まだ私自身でも見定められていなかった時期である。今でも、見切りは付けているものの、見定められてはいない。それを他人に云々されるのが嫌だった。そういうことだろう。部屋を勝手に掃除される感覚と似ているかもしれない。
ただ、焦ってはいた。
いわゆる可能性とは若さであり、一瞬毎に浪費される有限なものであって、今日の自分に出来ることが明日の自分に出来る保証はない。思い立ったが吉日、閃いたアイデアは片端から筆に委ねて、ペンの先がカリカリと鳴る度に小説が出来上がった。出来上がったけれども、出来上がったそれは、どれもこれも“思っていたのと違う!”のだ。
大人になるのが怖い。それでも大人になりたい。相反する渇望に苛まれながら私は二冊目の本に着手した。人生で初めて物を書くのが苦痛になった。
……ま、この辺りの話を掘り下げるのはまた今度ということにしよう。兎に角、先達に対してさしたる敬意も払わない私は、出版社のパーティなどに呼ばれても端の方で窮屈にしているだけだった。来なければ良かった、と、そう後悔するときもあったけれど、招待された時点では“行かなければ負けだ”と考えていたのだ。
紙のお皿に、一口、齧っただけのターキーを載せて。プラム・ジュースを啜りながら、本当に啜っていたのは心の鼻汁、そんな私に、その人はずんずんと歩み寄ってきた。私は“あ”と思った。その人はクスリで三回ぐらい捕まって、その都度、反省したフリと涙ながらの自己破産を繰り返してきたという猛者で、業界では要注意人物だとされていた。デビューした当初、もしこの人に話し掛けられるようなことがあったら、いいですか、逃げて下さいと教えられたこともある。
この日も、招待されてもいないのにやってきて、それで大威張り、彼の出現は襲来だと陰口されていた。ちなみに、彼がそんなことをするのは寂しいから、切ないから、自分の存在を誰かにアピールしたいからに他ならなかった。嫌われていても無視されるよりかはいい――そういう話らしい。
私は彼を警戒した。彼の方でも私を警戒したかもしれない。挨拶をして、社交辞令を交わして、五分もすると私は彼の人柄を、こういう言い方はどうかと思うが、気に入っていた。彼も饒舌になった。尤も、挨拶の時点で饒舌ではあったので、饒舌が超饒舌になったと解釈して頂きたい。
『高校とかに行くと私の心理が分かりますよ』大柄で、丸いサングラスを掛けていて、顎髭を蓄えている。昔の映画に出てきた無学な優しい殺し屋のような風貌である。
『あれです。留年した、退学した、そういう先輩がね、得意げに自分がどうしてそうなったかの理由を教えてくれますから。それと同じです。自分を偽らないとやっていられない』
『嘘ですね』私は反射的に言った。『あ、いや、すみません。違うんです。話が嘘ってことではなくて。自分を嘘で騙さないと生きていくのが辛いんですね、ってことで』
『そうです。そうです。そうです。良いですね。良い感じにグレてる。ヤクザです。グレイトです。グレイトにグレておられる。作家向きですよ。ヤクザな商売ですからね。ところで、蕪城さん、“他人を騙す嘘”と“自分を騙す嘘”の境界線が貴方には分かりますか?』
『とても曖昧になら分かると思います。作家なのにあれですけど、言葉にするのは、とても難しいですね』
『うん。私は言葉に出来る』
彼は咳払いをした。喉を猫のように鳴らす。右手に泡立つビール・グラスを握ったまま背筋を伸ばした。まるで儀式だな、と、私は思った。
『蕪城さん、僕はね、映画を観に行ったんですよ。彼女とね。大学生のときだったかな。反差別の映画でね。可哀想な黒人が出てくるんです。黒人なんて言い方をしたらアレですけどね。でも黒人です。奴隷なんです。酷い主人にコキ使われている。主人の機嫌次第では鞭に打たれたりする。親切だと思った白人に次から次へと裏切られるんです。その黒人が苦労して自由を勝ち取る。私の彼女はその映画を観て泣いた。差別はよくないよね、ね、ね、と、映画館を出たときに頻りに言った。覚えています。“ね、ね、ね“の言い方がいじらしくてね。それだけストレートに他人の同意を求められるのだから女というのはいい気なもんだとも思ったが』
彼はサングラスの奥の目を細めた。諧謔的に。『そして、帰りの電車ですよ、彼女はね、ある車両に乗るなり、“うわっ”と言った。それで隣の車両へ。どうしたんだと尋ねると、ホラ、あの人、あの外国人、人相が怖いから、あんな人と同じ車両には居られないよ、――と言いました。私はむしろ彼女を可愛いなと思いましたよ。等身大の生きている人間という感じがして。ああ、なんだかノロケ話のようになりましたね。だからもうひとつ言っておきましょう。いや、実は、こっちの話を先にしたかったんだが、恋人自慢をしたくてね』
『どんな話ですか?』
『これも大学時代です。音楽をやっていた友人が、新しいアーティストが登場して、アルバムが出る度に、こう言った。“あんな音楽はどこにでも有り触れてるんだ。簡単なコードじゃないか。五分も聴けば真似出来るぜ”と。これが自分を騙す嘘です。そして、お分かりですね、僕らの見た映画や、彼が問題にしていた音楽のアルバムが、要は他人を騙す嘘です。作った人間からすれば自分を騙す嘘でしょうけどね』
『ああ。なるほど。そうですね。そういう話ですか?』
『結局ね、人間というのは、何か、思想とか、イデオロギーとか、制度とか、そういうものには感動しないんでしょうね。共鳴もしないんだ。ただ、思想に纏わる物語性に同意するんでしょう。或いはその中心人物の心情や社会的環境や地位にね。物凄く要約すると、僕らは、何時も人を見ているんだ。その人の作品や人柄ではなくて。人という表面を感覚的に撫でているだけなんです』
彼はフフフフフとむしろ乙女のように笑った。成功した狼少年のようでもある。彼は言った。『長くて恥ずかしい話を――』
「――してしまったな」
私はハッとした。花見盛さんは肩を竦めた。「どうした? 何かあったか? 体調が悪いなら無理をしない方がいいよ」
「いえ」私は誤魔化した。「すみません。少し思い出し、思い出し、思い出しなんだろう。思い出し笑いの昔話版ですか。それをしていまして」
「なんだそれは。昔話。カチカチ山とか?」
下手な冗談である。私は下手に笑った。あの人は今では四度目のお勤めに励んでいる。花見盛さんとあの人はどこか根底の部分で似ているような気がした。魂の印象が近いとでも形容するべきだろうか。外見は全く似ていないけれど。似ていても困るけれど。私も差別は嫌いだが、それは口で言っているだけで、人を見掛けで判断するので。
「なんにしても長くて恥ずかしい話をしてしまった。バナナとワニの話はこれでお終いだ。強いて言うなら、後日談があるにはあって、サトーは湯の花ってのを買い込んでね。知ってるかい。入浴剤みたいなやつだ。温泉の硫黄成分とかを固めたもので。風呂に入れると溶けて良い感じになる。お陰で、旅からしばらくはね、風呂の時間が楽しくなったよ。それぐらいかな」
私は愛想笑いを浮かべた。すっかり冷めた珈琲を啜る。まだ砂糖が足りないらしい。苦い。「山場がもう二つ残っているんですよね?」
「そうだ。手早く話を進めようか。お待ちかねの話さ。戦争、それもNPCとの馬鹿騒ぎではなくて、ブラスペ世界で最初の戦争の話でね」
「戦争」私はその言葉を噛むようにして発音した。失礼します、と、断ってからシュガー・ポットを開けた。溶けるかどうか不安になりながらも、砂糖を、大さじ一杯分ぐらいカップへ落とした。ティー・スプーンで混ぜる。混ぜる。混ぜる。花見盛さんは苦笑した。はしたないことをした気になって、私は、いやあのその、弁解を試みたけれど、彼は違う違うと言った。
「いまの君と同じことをサトーはしていた」
花見盛さんは言った。「砂糖をドバドバ、ああ、失礼、でも事実なんだ、ドバドバと珈琲にぶちこむんだ。俺は、おい、健康を害するぞ、って忠告した。そうしたら奴はなんて返事をしたと思う。“これは仮想敵国の物資よ”」
「生々しい話ですね」
「生々しい話さ」
「死にましたか。沢山。人」
「死んだよ。沢山。人。ゲームの中でもリアルでもね。今更のようだが、なあ、俺はその話をこうして嬉々として語っているんだ。ハナから自分をマトモだと思っちゃいないし、失礼だが、君もマトモだと思ってはいない。しかし、もしも気分を悪くするようなことがあったら、遠慮なく言ってくれ。せめて表現を軽くするから」
「ありがとうございます。それはモーマンタイです」
「それはモーマンタイ? と言うと? 何か平気でないことがあるのか?」
「その、そういう話を嬉々としてするっていうのは、自分を――」
私は思わず呟いていた。「騙す嘘だなあ、と」
「なに?」花見盛さんは僅かに身を乗り出した。小声だったこともあって私の声を正確に聞き取れなかったらしい。「なんて言った?」
「すみません」私は話を有耶無耶にした。「なんでもないんです。本当に。で、あの、どんな戦争だったんです?」
花見盛さんは姿勢を元に戻した。口の端に皺が寄る。まあいいさという表情で、彼は、
「敵はコチラの三倍だった。正確には三・六ニ倍とかだったかな。装備でも敵が優越していた。もしかしたら人材面ですら敵が有利だったかもしれない」
「勝てたんですよね?」私は変に不安になった。
「どう思う?」
「さあ? 負けて、それで、まあ、色々とあったのかなとも」
「じゃ、教えてあげよう」
花見盛さんは両手で包むようにして珈琲カップを持った。カップを回しながら語り始める。「“これは仮想敵国の物資よ。少しでも多く――”」





