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銃剣突撃する怒れる低学歴と悩める高学歴のファンタジア  作者: K@e:Dё
番外編2章『七導館々々高校文学部』
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番外編2章38話/権上かなでさんの憂鬱(かなで)


 夢を見た。駅のホームで藤川君の妹が転ぶ。私は、自分でもどうしてそんなことをしたのか分からない、彼女に歩み寄って手を差し伸べた。そうしなければならないという直感があった。彼女は私に懐いた。懐かれた後で、もし差し伸べた手を握り返して貰えなかったらどうしていたのかと、心配しなくてもいいことが心配になった。どこへ行っていたのか、遅れて帰ってきた藤川君が、私と彼女が仲良くしているのを見て、


『どんな風の吹き回しだ?』


『風ですら迷うときがあるのよ。人の気なんて幾らでも迷うわ』


『ふうん。ま、気の迷いでも妹と遊んでくれるのは嬉しいなあ』


 私と彼女は荒木さんちゃんを交えて談笑した。それは新幹線の中でも、彼女が疲れから眠ってしまうまで、続いた。私の肩にドッチボールぐらいの頭が凭れている。その重量のなんと軽いことか。こんなに軽くて脆くては世のあらゆる有害さに耐えられないだろう。私は彼女を藤川君が奪い取る妄想をした。それは暫定的には楽しいことのように思われた。暫定的と言うのは、そうだ、私には弟が居るんだった、そんなことに考えが及んで、つまらなくなってしまったのだった。


「姉さん」――と、その弟が私を起しに来た。六時半である。私は天井の隅にあるシミを意味もなく凝視した。目をパチパチさせる。瞳が乾燥していた。


「ああ」私は目を擦った。私の目は夢の世界を懐かしがるでも恋しがるでもなく未練がっていた。「もうそんな時間か。もう五分だけ寝ていたいなあ」


「それは無理でしょう。遅刻するとまたウチに電話が来ます。母さんが嘆きますよ」


「うん」私は観念していた。伸びをする。肩甲骨が鳴る。ベッドの手摺を握った。苦笑する。もうあれから幾星霜、十五年以上が経とうとしているのに、私はついベッドから立ち上がろうとする癖が抜けない。立ち上がろうとしても無駄だ。私の脊椎、詳細に語るならば下部胸椎から腰椎にかけての一連の部位は、酷い骨折をしてからその機能を果たさなくなった。立てないどころではない。力が入らない。まず感覚が殆どない。時折、曲がったような、痛いような、痺れたような感覚(ファントム・ペイン)がして、私を落胆させたり、糠喜びさせたり、それから改めて落胆させたりする。もう絶対に自分では歩けないという感覚はこそばゆい。私はもう三五歳だが、まだ三五歳でしかないのだ、そう思うときもある。このままの暮らしが何時まで続くのか。無論、死ぬまでである。脱落も離脱も許されはしない。これは報いなのである。私は何歳まで生きるのだろう。


 弟は私の上半身を抱き上げる。クレーン・ゲームのように。彼の目の下の隈は斉射を終えた後の銃腔内のように濃い。よせばいいのに、私と同じゲームにのめりこんで、彼はまあまあ出世した。私が指導したのだから当然だ。よせばいいのにと考えておきながら、どうかひとつと、頭を下げてお願いされたら断れないのが笑えるね。


「大人になった今だからこそ思うんだがね」私は車椅子の上に座るというか据えられながら言った。


「姉さんは大人ですか?」弟は車椅子を発進させても私が落ちないか否かを誠実に確認している。


「おい、この年齢で大人判定して貰えないのかい。ラッキーだな。今日から子供料金で電車に乗ろう。そうしよう」


「そういうところですよ。そういうところです。――どうしました?」


「夢を見た。君と同じぐらいの頃の夢だ。あの頃は何もかもが楽しかった。我が世の春だよ。我が世の春」


「不適切な言い方かしれませんが、まあ、あれだけやっていたら、それはそうでしょう」


「ただね、当時のことを回想すると、何時も思うんだ。ポーズだったな、と」


「ポーズですか?」


「私は自分が変人であることを気に入っていたんだ。この感覚が分かるかい、若者よ、なあ、私は自分が我儘な性格に落ちぶれていた、その浅ましさを愛していたんだ。自分が普通の人とは違うっていう感覚が好きでたまらなかった。実際、普通の人とは違ったところが、たしかにあったんだろうけど、それを過大に評価していたんだね」


 車椅子の車輪が前へ転がり始めた。揺れる。私は背凭れに全然体重を預けた。部屋は、なにせ散らかすことが出来ない上、弟と母による厳重な整頓が成されているので、私のそれとは了解出来ない程に清潔である。スライド・ドアを開けて廊下へ。


 私の往年の稼ぎをフル活用して購入、改装の施された我が家は曲りなりともタワー・マンションで、部屋から洗面所に運ばれる途中、窓からの見晴らしは悪くなかった。カナガワの片田舎の景色には畑と森と丘と林しかない。冬が近いからどの緑からも色が褪せていた。


「でも」と、かなりの間を置いて、弟が私の話を拾った。「それでも楽しかったんでしょう?」


「楽しかったね」私は弟の手で寝癖を直されながら肯んじた。鏡の中では人当たりと愛想の良さそうな女がヘラヘラしている。好んで自己をこのように改造した訳ではない。渓流の中に屹立する岩が、長い年月を掛けて、その胴体を水の勢いに削がれるようにして、――私の性格は変えられたのである。始末に負えない。性格とは常に自発的に改良されるべきだ。環境に応じて已むを得ず変えられた性格はどこかに欠陥が生じる。


「あの頃は良かったなあなんて、誰だって言いたくない台詞のはずなのに、いざとなると皆んなして言い始めるのは、しかし、どうしてなんだろうね?」


「答えた方がいいですか」


「まさか。答えてくれない方が親切ってもんさ」


 計算された開放感のあるリビングには、度を越して上品、つまり下品な調度類が並べられていた。猫脚の食卓の上には母の書き置きがあった。婦人会だか何かで今日は帰らないらしい。そうですか、と、トマトとバナナと桃のジャムなど実に貴族趣味な朝食を摂った。弟とは下らない話を幾つか交わした。話の最中、私はフォークを床に落としてしまったので、弟に回収して貰った。これもまた今にして思うと、足元にある小物を回収しようとして自分までスッテンコロリン、あんな真似がどうして出来たのだろう?


 食事が済んだら食器を片付けて貰って、部屋に連れ戻して貰って、服を脱がせて貰って、着替えさせて貰って、家用ではない電動の車椅子に座り変えさせて貰って、荷物を用意して貰って、家から連れ出して貰って、家の鍵を閉めて貰って、エレベーターで一階のフロントまで運んで貰って、気を付けて下さいねと注意までして貰ってから、弟と別れる。彼は自転車で学校へ。私は駅の方へ。反対方向である。ブィーンとか機械音を鳴らして車椅子を走らせると、マンションの陰になっている部分に住民用のゴミ捨て場があり、今日は隔週に一度の――自治体に金が無いのでゴミ処理の間隔は長くなっている――燃えるゴミの日だった。この山積みにされたポリ袋を見ろよ。壮絶だぜ。


 ゴミ捨て場には浪漫はあっても生きているものはなにひとつない。


 駅で電車を、ああ憂鬱だなあ、学年主任の伊藤先生は今日も私にセクハラをするだろう、アイツは前に飲み会で、無礼講だからって、“本当に何も感じないんですか!?”とか言って私の太ももを撫で回していたけれど、あれは裁判にしたら何十万がせしめられるんじゃないか、問題は彼がそんなに金を持ってるかどうかだな、金が無いところからは巻き上げられないからな、ところで彼は学生と付き合ってるようだけど、あれは教師としての建前と性欲のどちらを優先するかのスリルにお熱になっているのか、それとも単なるロリコンか、その両方なのか、――などと考えながら待っていた。傍らには私を電車に押し込むための係員が無駄にニコニコしながら待機している。油断すると、


『駅でね』彼の話を回想してしまう。


『人が死んでいるところを見たんだ。中学生のときに。高校に入ってからも何度か』


『どう思った?』彼がその話をするときは、大抵、二人して消耗した後である。どうしてそんな話題をピロー・トークのネタにチョイスするのか。当時は彼の神経を疑ったりもした。彼の、汗でペトペトになった胸、私の頬に触れる、そのゴムのような胸は変なリズムで浅く上下する。


『うん、まあ、その、酷いもんさ。酷いもんだと思ったよ。酷いもんだと思った。何もかもを酷いもんだと思ったよ』


『ねえ、最低なことを言うようだけれど』


『君が最低でないことを言った試しがあるか?』


『私も見てみたいわね。一度でいいから』


 私はキョロキョロした。場末の駅なので通勤通学の客も少ない。向こうのプラット・ホームのそのまた向こうには人参だか大根だかの畑がゲンナリと広がる。その畑に蓋をするようにして空は低い。係員を含めて誰にも監視されていないようなので、いやまあそれもそうか、わざわざ私を見たがる人は居ないよな――『ねえ、お母さん、あの人を見て!』『障害者さんを馬鹿にしたらいけません!』――。


 誰にも監視されていないようなので、車輪に備えられたハンド・リムを握って、回す真似をしてみた。ブレーキが掛けられている。回らない。あくまでも回す真似だ。もし回っていたらどうなる。線路の上に落ちる。電車が来るのはまだ先だ。無様に助け挙げられるだろう。それから係員君は監督不行届とかでクビになるだろう。私は何故か駅長辺りから謂われのない謝罪を受けるだろう。そういう空想をするのは非常な娯楽だった。少なくとも暇潰しにはなる。私は轢死する訳にはいかないのだ。私が轢死すればニュースになる。ニュースになれば私の死を彼等が知る。彼等は悩むかもしれない。『サトーが死んだのは自分のせいではないか?』


 それにね。私は頬の内側に溢れる唾液を飲み干しながら言った。未だに、真面目に死ぬとか死なないとか考えてみると、怖くてたまらなくなるのよ。そんな勇気はないの。やはりポーズね。どんなことがあったところで。人の本質は変わらないんだわ。


 ……電車がそろそろ到着する頃になって、視界の端で、一人の少女が転んだ。見窄らしい少女だ。背負っているランド・セルは明らかに姉かそのまた姉のお下がりである。服も同様だろう。栄養が全身に行き渡っている気配もない。膝を擦りむいたようで泣き始めた。彼女の周囲には何人かの大人も子供もおねーさんも居たが、どいつもこいつもスマホに夢中だという演技がお上手なので、助けてあげようとしない。私も最初は無視しようとした。


 しかし、なんだか無視できず、そうせねばならないという直感が、これは今朝の夢のためだろう、湧いた。私は彼女を助けて上げるべく彼女に近寄ろうとした。


 フッフッフッと声を挙げて笑ってしまった。係員が『なんだコイツ』という表情を閃かせた。まさに閃きのように一瞬のことだった。『ああ、私は可哀想な人を笑ってしまった!』という後悔が彼の表情を代わって支配した。私は笑い続けた。


 だから、立てないんだって、歩けないんだって。ハッハッハッハッ。私は彼女に近付く熱意を失ってしまった。だって、車椅子でのこのこ接近してさ、大丈夫かいって、ダサいだろう。アンタの方が大丈夫ですかって感じだ。彼女は泣き続けた。そのうちに電車が到着した。電車が停止するまでに発生させた風に私の髪は乱暴に撫でられる。薫る風は埃っぽい。足が動かくても嗅覚は生きている。嫌になる。私は長方形の箱的なアレに載せられてドナドナと運ばれていく。あらゆる同乗者から見掛け上の無関心という名の同情を浴びつつ。へへーん。畜生め。


 太陽が眩しい。



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