番外編2章37話/ダス・ゲマイネ - 後編(荒木)
言うだけのことはある、――とは思わなかった。左右を竹に埋め尽くされた、まあ雅と言えないこともない渡り廊下を超えて、辿り着いた露天風呂はちちこましかった。土台、元の敷地がそう広くはないので、お風呂場の面積もたかが知れている。脱衣所で服を脱ぎながら私が考えていたことは、寒いな、それに尽きた。冷たい床板が容赦無く足裏を悩ます。息をすると気管の底までヒンヤリとした。緑が多いからか、空気は澄んでいて、頬を撫でる風に含まれる不純物の少ないことだけが幸いだった。(空気が濁っていると、なんというか、独特の重さみたいなものを私は感じる。ただ歩いているだけでも、あの、向かい風を浴びているように歩き辛いと言いますか)
伽藍堂、脱衣所もお風呂場も等しく。或いは私の胸の奥までも。脱いだ服をカゴに押し込んで、浴場へと繋がる引き戸を開け放った私は、そんなことを思った。
「あら」と、貸切状態の湯船を満喫していたらしい彼女は、私を認めると口元を歪めた。
「起きたようね。お寝坊さんもここまで行けば才能だわ」
「いやあ」私は後頭部に手を当てた。タオルで前を隠している。浴槽の周りは石で畳まれていたが、溢れた湯に晒された為に却ってぬくもりを失い、ひたすら滑り易かった。
「昨日はすまんでしたスね」
かなでちゃんはふんと鼻を鳴らした。私は、五、六人も入れば限界そうな浴槽、それを満たす透明な湯の表面を爪先で叩いた。ヌルい。これならばと肩まで浸かる。溜息が出た。お湯が肌から体内へ染み込む感覚があった。お湯が炭酸飲料か何かのように肌の表面でバチバチと爆ぜるような感覚である。筋肉が微かに痺れる。寒さで縮まっていた肌がぐんぐん伸びる。それがたまらない。五臓六腑に染み渡る的な?
浴槽は小さな庭園とでも呼ぶべきものの、その中央に位置する。庭園と言っても常緑樹が何本か、頼りない梢を天に向けて伸ばしているばかりで、風呂場を仕切るためのコンクリート製の壁が目立つ。壁は年代物である。アチコチに欠けとかヒビ割れがある。それが侘び寂び的な味なのかもしれないが、だとすれば、私は味音痴ということになる。ま、どうせ私は外国人ですんで。この国の文化には疎いんで。
「よくってよ。知らないわ。はん」
かなでちゃんの口調は棒読みである。「お陰で貴方の分も夕食を食べられたので。得をしたので」
「それは良かったスねっていう返事は、なんていうか、こういうときには不適切スよね?」
「不適切じゃないと思うの? だとすれば根拠は? 貴方は脳味噌が間抜けなの?」
彼女は拗ねていた。庭の一隅を占める苔生した岩などを見詰めている。岩の表面には朝露がビッシリとしている。徐々に、その差し込む角度を水平から斜めに変えつつある太陽光は、かなでちゃんの胸元を無造作に照らしていた。貧相な、そう言って悪ければ華奢な彼女の体の随所には、こうして見直すと大小様々な傷が残っていた。
太陽も随分と残酷だな。私は思った。照らすなら彼女の首から上にすればいいのに。そっちを照らしてくれたならば私も顔の方を見たのに。
「珍しい?」かなでちゃんは目線を自分の右手首辺りに落とした。
「珍しくは」私は言葉を切った。勇気を奮い立たせる。「珍しいスね」
このとき、私は、一言で言うならば開き直っていた。どうとでもなれと思っていた。夏川部長の言葉が頭蓋骨の中に木霊していた。『お前はせめて素直に生きろ』
「そもそもかなでちゃんがこんな時間に起きてるのが珍しいスよ。寝坊助はむしろかなでちゃんの特技じゃないスか」
「言ってくれるじゃない」
「ええ」私は喉を鳴らした。「言いますとも。かなでちゃんのことが嫌いなので」
「はあ?」
「だあら、嫌いなんスよ、嫌い。私は貴女のことが大嫌いです」
かなでちゃんの眉間に皺が寄る。私の宣言が軽口に類するものではないと察したらしい。察せるように私も努力したつもりだ。
「なんでも器用にこなすのが嫌いです」私は言った。
「あれこれとふざけた真似をする癖に私達にあれこれと配慮してくれるのも嫌いです。善人なんだか悪人なんだか区別が付かないのも嫌いです。苦労してきた癖にそれを自慢しないのも嫌いです。いまみたいに、傷だらけの体を晒して、何が“珍しい?”スか。そういうところが嫌いです。オタクはね、そこに居るってだけでね、私の劣等感を刺激するんスよ。滅茶苦茶に。私がもし貴女ならね、かなでちゃん、もっとこう、もっと、もっと今の貴女よりも更に性格悪く振る舞うのに。なんでそうしないんスか」
「昨日の意趣返し?」
「それも嫌いです。私が――私なんかがですね、かなでちゃんとね、同じようなことを考えてるってのが嫌いですよ、まず。貴女が私よりもっとずっと崇高なことばかり考えててくれりゃあ私も楽なんスよ。私になんか考えもつかないことばかり考えててくれりゃあ楽なんスよ。それが、何スか、私のことが嫌いだとか、嫌いじゃないとか、ファッション・モンスターとか。“このコも私と同じ人間なんだなあ”とか考えちゃったじゃないスか。遠い世界の人であれば楽なのに。身近な世界の人だって。違う世界に生きてる人ならまだ妥協も出来たのに。なんかね。もうね。何もかもが嫌になりましたね。どうしてこう人には格差があるやら」
私は浴槽の縁に背を預けた。先程のとは異なった意味合いの溜息を吐く。「私なんかがかなでちゃんの友達やってるべきじゃないんスよ、多分」
「多分で物事を語っていいのかしら」
「じゃ、多分の部分は撤回しますよ。あのね、私はスね、昨日ね、あわよくばかなでちゃんに嫌がらせしてやろーと思ってたんスよ」
「嫌がらせ?」
「なんだろ。なんでもよかったんですけどね。そうですなあ。花見盛が浮気してるとかその手の話でも吹き込もうかと」
「私がその話を信じるとでも」
「信じません?」
「……。……。……信じたかも?」
「なんかね、それぐらいにはムカついてたんスよ。調子に乗ってるからシバいたろコイツみたいな。私はそういう女ですわ。あ、何も言わんといてくださいな。優しくされるとね。逆にね。ムカつくんスよ。憐れまれてる気がするとかそういうのとは違うくて。なんつーんスか。良い感じの言い方が分からないんですけど」
「貴女も相当に難儀ね」
「分かった風な口ですねえ」
「悪い? 私はね、昨日、貴女が約束を破って苛々してた上、つい皆んなで食事をしてるのが楽しくてね、飲み過ぎたもんで、酔っ払ってね、それで、寝てる貴女のところに夜中に戻ってね。首でも絞めてやろうかと割と真面目に思ったわ。無防備に寝てるから。発作的に殺すなら今だな、と。でもやらなかった。死んでないでしょ、実際。感謝しなさい。殺そうとしたけど殺さなかった私に」
「頭、イカれてます?」
「なんで私が貴女を殺さなかったか分かる?」
「刑罰が怖い」
「友達だからでしょ」
口の中から舌で強く弾き出されたように、彼女の“友達”の発音には威力があり、私はそこから発見した。彼女は拗ねているのではない。怒っているのだ。
約束を破られたから怒っているのか。違う。私がふざけたことを喋っているから怒っているのだ。――ふざけたこと?
ふざけたことだろう。正味、私は『貴女と居ると私が辛いから友達辞めたい』とか何とか抜かしているだけだ。。論理としても倫理としても破綻している。“私と居ると悪影響だから”なんていうのは道徳的な飾りに過ぎない。自分の利益だけを追求する友情などあり得るか。友情だと。私と彼女は友人なのか。友人だったのか。まずはそこを突き詰めねばならないのではないか。
私は不当に憤った。あのですね、と、早口で切り出した。「それがふざけてんスよ。なんでかなでちゃんぐらいの人が私なんかの友達なんです。他に無限に居るでしょ。釣り合う人がね。無駄ですよ。無駄。私のことなんてあれすると人生を無駄にするだけですよ。私なんか放っておいてくださいよ。でないとね、身分とか、頭の出来とか、そういうのが違う者同士が友達だとか恋人でいてもね、やがては悲劇になるだけでスよ。マジで」
「なんでそう言い切れるの?」
「うちの母親はね」私は我を忘れて叫んだ。
「お偉いヒノモト人の方々に差別されながら私を生んで育てたんです。私はピュアな純度一〇〇パーセントのヒノモト人じゃあない。母の苦労を知っている。ただ国籍が違うというだけで、少し遅れた国に育ったというだけで、少し学歴が劣っているからというだけで、少し民族が違うというだけで、少し文化が違うというだけで、どれだけあの人が酷い目に遭ったか。“虎穴に入らずんば”とか言いますけどね。相手の真似をどれだけ頑張っても結局は真似じゃないスか。真似したところで笑われるだけじゃないスか。いいですか。挙句の果てにね、うちの母親はね、まだこんな、一ニ〇センチもねーような私にですね、ある日、言ったんですよ。母さんも色々と経験したわ。愛し合わないまま貴女を妊娠したの。でも産んだわ。そして、産んで、育てることで、私はこの国の一員としての権利を勝ち取ったのよ、って。ふざけるんじゃあねーすよ。私はなんですか。アンタが市民権を得るために生まれたんスか、じゃあ。違うんでしょうね。そういう意味じゃないんでしょう。貴方が生まれてきてくれたお陰でみたいな話なんでしょう。でもね、酷い方向にしかね、解釈出来ないのが私なんでスよ。だから言わないだけでね。今日までどれだけかなでちゃんのことを内心で罵倒してたか。死ねとか殺してやるとかオンパレードですよ。メンヘラ女だともマジで思ってますよ。ヒノモト人の癖に馴れ馴れしくすんなって思ったこともありますよ。こんな私と居て何のメリットがあります?」
かなでちゃんは答えた。「無いわね」と。どうでもよさそうに。
「無いなら――」
「――無いなら? 誰と友達で居るかなんて私の勝手でしょ?」
「この分からず屋! 友達ってのはお互いにそうありたいと思わないと友達じゃないっていうか、ああ、この、この馬鹿女!」
暴れようと思った。暴れられなかった。身体の気怠さはもう飛んでいた。コンディションの問題ではない。気持ちの問題だった。泣きそうだった。
「友達ってのは」かなでちゃんは何処までも落ち着いていた。
「昨日から考えてたんだけど。別に友達で居ることで利益を得る必要はないというか。悪影響を与えられてもそれはそれというか。なんていうのかしらね。友情っていうのは、もしかすると、私も友達も人間、長所もあれば欠点もあるってことを、許せるようになったときに――欠点を認めるとか欠点まで含めて愛してるとかでなくて――芽生えるのかな、と。芽が花開く条件についてはまだ考え中だけど」
「何が言いたいんです?」私は鼻を啜った。
「私、貴方、嫌い。でも同時に大好きよ。一緒に居ると頭に来る。でも楽しいときもある。劣等感を煽られる。コチラから煽るときもある。一緒に居たい気もするけど離れたい気もする。自分のために一緒に居たい気もする。相手のために一緒に居てあげなきゃと思う気もする。自分のために離れたいときもある。相手のためを思って離れたいときもある。結構じゃない。どうせ人対人の関係よ。年がら年中、一年通して、仲良くハッピーでいられる訳ないわ。喧嘩することもあれば殺し合うこともあるでしょう。でも、それが友達じゃないの? それじゃあ駄目なの? ずっと仲良く、相手に取って素敵な友人で居たい、自分に取って素敵な友人で居て欲しい、そんな風に思うから、願うから、勝手な理想像を自分にも相手にも押し付けるから、面倒なことになるんじゃないの?」
心配しないでいいわ、と、かなでちゃんは私に反論の余地を与えずに続けた。
「その意味においてはね、私は、貴方に一ミリも幻想を抱いてないもの。“汚い女”。心の底からそう思ってるわ。素敵な人だとかこれっぽっちも考えてない。お金にガメついし。仕事では手を抜くし。手癖は悪いわ、口も悪いわ、性格も悪いわ、頭も悪いわ。昨日も言った通り嫌いよ。本当に大嫌い。死ねばいいんだわ。でも、それでも、友達で居て欲しい。そう思うわ。最初の友達だからってのも、ええ、あるでしょう。贔屓もね。でも、それを抜きにしても、貴方と居ると楽しいから、友達で居たいと思う。今更、約束のひとつやふたつ、破られたぐらいで、或いは貴方がヒノモト人だろうがなかろうが、“騙された!”なんて喚かないし、“そんな人だと思ってなかった”とも言わないし、差別する気にもならないわ。私は貴女がそういう最悪な人で、私に酷いことをしようとしていて、私のことを嫌っているのなんて、何なら貴女と友達で居るとお互いに嫌な思いをしなければならないのすら百も承知で、それでも友達で居ましょうって、そう言ってるのよ」
目眩がした。かなでちゃんが何を宣っているのか半分も理解出来なかった。ただ、否定、そう、否定された気がしていた。私のこれまでの十数年は全て無駄なことだったと。腹が立った。誰に。かなでちゃんに。自分に。否定されたことに衝撃を受けつつ、その否定を、どこかで喜んでいる自分が居ることにも腹が立っていた。私の十数年が無駄であったことは、むしろ、私にとって良いことなのではないか。それは、つまり、母親の国籍などたかが知れた問題、それだけで差別する人ばかりが世に居る訳ではないことを証明しているのだ。もうビクビクして生きていく必要など無くなる。
しかし、では、どうなる?
『身分を明かせば酷いことになる』と信じて生きてきた過去の自分はどうなる。お前は馬鹿だ、と、そう突きつけられて、それを認められるのか。自分が良い目を見る為に犠牲にしてきた他人への責任問題については。まさか棚上げしないだろうな。そうなのだ。
私みたいなのが幸福になっていいはずがないのだ。つまりはそれが全てだ。
ごめんなさい、と、言おうと決めた。それでも私はと。
「ありがとう」と、しかし、私は言っていた。
「別に」と、かなでちゃんは言った。「友達だから。許してあげるわ。今度だけ。特別よ。それにしてもお風呂場って便利ね。今度から真剣な話をするときはお風呂場ですることにしようかしら。泣いてても、それが涙か汗なのか、見分けが付かないし。雨の中で泣くのよりかは寒くなくていいしね」
お風呂から上った後で、微妙な放心状態にあった私は、そろそろ起き出してきた彼とばったり遭遇した。彼は私が上の空であることを直ぐに見抜いた。私を玄関のあの休憩所へ連れて行った。平気かと問われた。平気だと答えた。なんだか今日は大丈夫かとか平気かとか尋ねられてばかりだ。私は苦笑した。何か、物の弾みのようなもので、
「あのね」打ち明けた。「そういえば、ウチの母、実はヒノモト人じゃないんスよ」
「ああ」彼は意外につぶらな瞳をぱちくりさせた。
「うん。へえ。それがどうしたの?」
私は大笑いした。なんというか。まあ。その。大笑いするしかなかった。彼は世にも奇妙なものを見る目で私を見た。
最後にこれだけ言っておく。私は旅行二日目を、自分でもコレはどうかな、そう反省するぐらいには楽しんだ。かなでちゃんと。二人で。帰りの新幹線に乗るのが惜しく思われる程度には。その、帰りの新幹線を待つプラット・ホームで、藤川の弟と妹が戯れていた。客は私らばかりだった。だから誰も兄妹が走り回るのを叱らなかった。私は夕焼けを見ていた。朝、かなでちゃんと隣り合って、昇る所を眺めたあの太陽が、これから沈んでいく。明日になるとまた昇る。不思議だ。本当に同じ太陽なのだろうか?
「あっ」と、藤川妹が悲鳴をあげた。走っていて転んだらしい。見る間に泣き始めた。藤川弟が宥めても効果がない。藤川兄はと言えば姿が見えない。
「泣かないの」と、藤川妹に、かなでちゃんは手を差し伸べた。およそ彼女とは受け入れがたいぐらい優しく微笑みながら。
安堵、それをかなでちゃんの笑みから得たのだろうか。藤川妹は泣き止んだ。かなでちゃんの手を取った。恥ずかしがり屋で、旅の最中は兄と弟以外の誰にも懐かなかった幼女は、かなでちゃん相手にあれこれと話を始めた。その中には、連れてきてくれてありがとう、楽しかった、何が面白かった、また来たい、そういうフレーズが含まれた。かなでちゃんは満足げに頷いた。
私は唐突に悟った。どうしてまた藤川の妹と弟までこの旅に巻き込んだのか。疑問には思っていた。そうでもしないと藤川が来ないから。まあ、そういう事情も現実としてあったのだろう。
見棄てられなかったのではないか。見過ごせなかったのではないか。
身体の傷に代表されるように、かなでちゃんは、それは壮絶な子供時代を過ごした。救って欲しかった筈だ。誰かに。しかし、誰も救ってはくれなかった。だから彼女はああなった。何もかもを憎みながら何もかもを欲しがるようになった。手に入れたところで手放したくなるにも関わらず。私とほぼ同じように。
彼女は、我々と似たような境遇の、あまり恵まれているとは言えない少女を救ってあげることで、間接的に自分を救おうとしたのではないか。少なくとも、藤川妹が、自分と同じような人間に育たないようにという配慮があったのではないか。
だとすればそれはどんなに――。
「あほですねえ」私はかなでちゃんと藤川妹の輪に割って入りながら言った。
「何が?」と、さしものかなでちゃんとて、私のいきなりの発言に戸惑っているようだった。
答えは教えてあげなかった。ただ、『私はこのコのことが好きなんだなあ』などと再確認していた。嫌いだけど好きだ。友達で居たい。
友情とはなんと厄介で素晴らしいものなのだろうか。
……間もなく暗くなった。





