番外編2章36話/ダス・ゲマイネ - 前編(荒木)
自分が不甲斐なさ過ぎて、昨晩は、つい飲み過ぎた。かなでちゃんが少しばかり泣いたからといって。彼女が自分と同じような心理状態にあると知ったからといって。
『私は何をやっているんだろう』――二重三重の意味で私は自問自答した。
何を今更、と、私は私を嘲笑った。思い出したように他人に優しくしたところで何になる。これまでどれだけ他人を虐げて生きてきたのか。否、何が“優しくしたところで”だ。イジメてやろうと企んでいた相手を見逃してやる。それがお前の優しさか。というか、見逃してやる、そんな語彙を好んで使う辺りで私はその程度の人間だ。意志が弱い。意志も弱い。嫌になる。醜い自分も嫌になるが、それ以上に、こんな自分があのコの隣に居ることが嫌になる。悪影響しか与えないに違いない。
何かしら理由を付けて。私は腹積もりをした。ゲームを辞するか。生活はまあ彼におんぶにだっこで。いざとなれば春を鬻ぐのもありだ。
震えた。恐怖を感じたからだった。名前も本名も知らない男の(時には女の)腕に抱かれることは怖くない。怖いのは彼や仲間達やかなでちゃんに軽蔑されることだった。『そこまで汚い女だとは思わなかった』と、そう蔑まれる場面を脳裏に描くと、胃がウネウネと動いた。ショックだった。私はこんなに他人の目を気にする性分だったのか。そうだろうな。でなければ出自とかいうあやふやな、厳密にはヒノモト人ではない、そんな下らないことでこんなに悩んだりしない。より深刻な悩みを抱えている人も世の中には。畜生め。そんなことはどうでもいい。
“他人の目”である。それが赤の他人ならまだ耐えられる。仲間達は赤の他人ではない。一緒に戦った。一緒に苦労した。一緒に疲れて、一緒に嫌なことを乗り越えて、一緒に死んだり殺したり殺されたり死なせたりした。愕然とする。私みたいなのが人並に友達を大事にしていいはずがない。大事にされていいはずもない。
どこで間違った。どこで。最初からか。
『おい、荒木、少しいいか』と、アタガワからヌマズへ電車で移動している最中、部長が話し掛けてきた。
『宿に着いたら幾らか時間を貰えないか。手間は取らせない。私もお前と話がしたい』
優先権は私にある云々と喚くサトーちゃんを、直ぐに戻ってくるからと説き伏せて、部長と二人で宿を出た。部長は腰を押し付けて話したいらしいので、宿から近くもなければ遠くもない、地元住民の御用達らしい居酒屋に一見さんで飛び込んだ。黄昏時である。開店とほぼ同時にタッチ・ダウンしたので客は疎らだった。古民家というか、そういった風な木造建築を改造した店舗は手狭だったが、土間には風流じみたものがあったし、店主のオジサンは気さくだった。
『私は出稼ぎでね』と、一瞥するだけならヒノモト人にしか見えないオジサンは、他に話相手が居ないこともあって、語った。
『国に家族を残して来てるのよ。最初はこのアタミとかヌマズら辺でお風呂屋さんでもやろうかと思ってたの。ご存知? あのね、お風呂屋さんにはホクリクの人が多いんだよ。そ、そ、何でも伝統的な理由らしいよ。元はね、ホクリクって、言い方は悪いけど、大昔は仕事が少なくてね。それで皆んなが都会へ出るんだね。特に商売を継げない次男とか三男がね。雑貨屋とか、豆腐屋とか、色々とやってたっていうけど、銭湯も多かったのね。その当時は家にお風呂が無かったから。って、いまもそういう家が増えてるんだっけね、都会では。代わりに家賃がベラボウに安いとか。それでさあ、銭湯って現金をかなり扱うもんだからさ、流行ってるところでは地元の親戚なんかを、お前も仕事欲しいだろって、呼び出してね。使ってたんだって。銭湯が時代の流れで減ってからは、そこで働いてた人、業種が近いってんで温泉とかにも流れて来て』
オジサンはこぢんまりとしたカウンターの奥で、地魚を手際良くおろしながら、
『大変だったよォー。“俺達はプライドを持ってこの仕事をやってんだ”って人が多くてさ。オジサン、国ではサウナとかやってたから、そのノリで入っちゃってね。温泉業界。大変な目に遭ったなあ。大変な目に遭ったなあ。大変な目に。国ではどんな風に働いてたんだ、ウチじゃあこんなトロいと通用しないぞ、俺を馬鹿にしてんのか、何度教えたら分かるんだ、ここを逃げて他に行っても雇ってくれねえぞ!』
苦労自慢は語り手の技量如何で面白さが変わる。以前の上司のモノマネといい、流れるような話しぶりといい、オジサンのそれは聴いているとつい笑ってしまう出来だった。恐らく、彼はこの話を、初めてこの店を訪れる客全てに披露しているのだろう。それだけ彼の演説は熟れていた。
『あの当時のことを言葉にするのはシンドいねえ』と、彼は思ってもいなさそうな感想で、物語を〆た。
『もう一〇年以上もヒノモトに居るけどね。すっかりね、身のこなしもさ、言葉遣いもさ、ヒノモト人ですよ。それでもシンドいねえ。何がシンドいって、まずね、ヒノモト語であのときの辛さをどう表現すれば正確に伝わるのか、もう一〇年以上もヒノモトに居るんだよ、オジサンは。それなのに分からないのが辛いね。これが民族の差かね。母国の言葉でなら簡単なんだろうけどねえ』
オジサンはなめろうをサービスしてくれた。来るべきではなかったなと私は後悔していた。なめろうの味は抜群だった。ねっとりとしていて、味噌の風味が強いが、ショーガとネギのサッパリとした後味が爽やかである。荒く叩かれた鯵の歯応えも良い。オジサンは料理だけ作ってりゃあいいんスよ。
『お前』夏川部長は四方山の話もそこそこに本題に入った。
『本音を言え。サトーのことをどう思っている?』
オジサンの奨めるがままに注文したシズオカの地酒、それは舌触り滑らかで、どこまでも冷たく、切れ味の鋭い辛口だった。お陰で私の言葉遣いまで辛口になった。私は苦情とも愚痴ともつかないものを部長にぶつけた。当たり散らすようにして私の食は矢鱈と進んだ。部長は聞き役に徹してくれた。
何を話したか。朧にしか覚えていない。彼女の事から、何がどう転んだのか、自分のことを少しく話した気もする。覚えているのは、店を出るとき、
『お前はせめて素直に生きろ』と言ったことだけだ。
起きたら頭痛がする。二日酔らしい。部屋に辿り着くなりひっくり返ったので、目を醒ました瞬間は、ここがどこで、自分が何をしているのか把握しかねた。天井が高い。波がさあさあ鳴る。孤独感すら胸の奥でさあさあ鳴った。苦労して布団の上に半身を起こすと、大きな窓の外に、アワシマとフジサンが等直線上に並んでいた。島と山の間には海だけが静かに寝そべる。空の色にはまだ黒の成分が強い。とはいえ星が煌めく様子もない。私は理由も分からないままやる気を無くした。背中から布団に倒れ込んだ。しばらくウジウジと非生産的なことを考える。
かなでちゃんはどこだろう。
畳の上を這い蹲る。自分が浴衣に着替えさせられていることにようやく気が付いた。部屋の隅に彼女の小規模な荷物があった。スマホで時間を検める。空の色から凡その予感はあった。まだ早い。五時過ぎである。こんな時間にかなでちゃんが起きていることがまずムカつく。
「人間失格野郎がよー」私は吐き気を堪えながら言った。誰に憚ることもないのでそれなりに大声である。
それから義務感めいたものを覚えた。ぷるぷる震える両腕を杖にして立ち上がる。着替える元気はない。化粧をする元気もない。自分がどんな顔をしているのか確かめる勇気もない。体裁を気にしている余裕もないので、どうせ旅の恥は掻き捨てだ、着の身着のまま、スリッパだけつっかけて、スッピンで廊下へ出た。
宿――旅館内は静謐である。ここは二階か三階か。下の、厨房だろう、そこからは人の気配とそれとない活気を感じる。まだ客の大抵は寝ているらしい。照明は抑えられている。壁伝いに歩く。ふと、もしかして、かなでちゃんは花見盛の野郎のところかなと閃いた。だとすれば探すのもバカバカしい。男とイチャついてる奴をどうして私があれでこうしてあれを。
方方、歩いた。そう広くはないが、だからこそ趣のある庭は砂利敷で、ぽつぽつと松がある。その庭の片隅に文庫があった。なんとかとかいう文豪がこの宿でなんたらとかいう本を著した、――それに因むらしい。文学被れのかなでちゃんがほっつき歩いていてもおかしくはないな、と、突撃しようとしたが、時間が時間なので入口が閉められている。一分毎に日の出が近付く。空の色が藍になる。松の枝と枝の隙間を遠慮がちに落ちてくる光の質も柔らかくなってきた。
数寄屋造の建物内をウロチョロする。表玄関には居ない。表玄関には談話や休憩のための空間がある。大きな和傘の下にソファが向かい合って並んでいた。そこにも居ない。玄関から接続されている囲炉裏を覗く。居ない。まさかお土産物でも物色しているのかとそちらへ足を運んでも居ない。歩き疲れて少し気分が悪くなってきた。土産物コーナーの前で膝に手を突いてヘコたれる。ところへ女中さんがやってきた。
大丈夫ですか大丈夫ですという問答があった。丁度良い。連れを探していましてと尋ねる。ああ、と、女中さんには思い当たる節があるらしい。
「その方でしたら、先程、一階のお風呂場の方へ行かれましたよ」
「こんな時間に」
「冬の朝のお風呂は素敵ですよ」と、女中さんは私の言葉の意味を取り違えた。





