番外編2章31話/花見盛恭三郎君の憂鬱(花見盛) - 9
僕はデブだ。まあ見ての通り。ただのデブだよ。事実、親も居るしね、家庭事情もそれなりにまとも、経済的にも愛情的にも不自由を感じたことはない。強いて親の欠点を論うとすれば、彼らは子供にだね、喜ぶからって糖質と油物をかなり無制限で無秩序に与える、それぐらいだな。僕がデブりだしたのはマジで親の責任だと思うよ。幼児に食事量を調整しろだなんて無理な相談だからさ。痩せようとしないのは確かに僕の責任だけどね。
小学校の低学年ぐらいのときにはもう虐められてたなあ。いや、それも高が知れたものでさ、深刻なのじゃないの。ああ、先に言っておくけどね、僕は少食なデブなんだ。そうは見えないかい。失礼だな君は。世の中には居るんだよ。総量では食べるけどさ。一度の食事量は少ないというか。デブ基準では少ないというか。日に五食とか六食とか食べてる内にデブるというか。それにね、おデブだからといって、無条件で肉類とか味の濃いものが好きだと思われるのも困る。それは好きだけどさ。限界もあるよ。でも、子供だからね、その限界が分からなくて、周りがあれも食べろこれも食べろ、食べたいだろって、食べ物が目の前にあれば、食べ物の話になれば、僕を誂うわけだ。豚野郎ってね。僕はそれがコンプレックスだった。ま、ウチの部活の、他の、それこそ花見盛とかね、皆んなからすればそれはそれは些細なコンプレックスだったと思うよ。こうして話してるのが恥ずかしいぐらいさ。それでも確かにコンプレックスだったんだ。人に指摘されると泣きたくなるぐらいの。
だから笑って誤魔化していた。そのうち、周囲は僕を、何をしても怒らない奴だと受け止めるようになって、後はもう野となれ山となれとばかりさ。僕は諦めた。こういうノリでどこまでも行くんだろうなあと。実際、小学校の間はクラス・メイトのオモチャとして扱われていたからね。
親? ああ、でも、ご時世だよ。面倒事を家に持ち帰るのは、なんていうのかな、息苦しかったんだ。
中二の、雨の日にね、梅雨時期だったかな、外が暗くてジメジメしていたのは覚えてるんだ。僕は廊下を走っていた。転がる方が速いんじゃないかなんて自分でも考えたことがあるよ。先輩から『焼きそばパンを買ってこい』って言い付けられてたんだ。なんてテンプレートな。でも本当にそう言い付けられたんだから仕方ない。それに、テンプレートなのはむしろここから先なんだ。
焼きそばパンは人気商品でね。授業が終わると同時に教室を飛び出ても、僕の教室は購買が遠いから、買いそびれることがある。だから急いでいたのに、ある曲がり角で、人とぶつかってしまった。それが女の子で、転ばせてしまったんだから、さあ大変だ、僕は混乱した。足踏みしながら謝った。――
「それが荒木か」俺は合いの手を入れた。軽食はよほど前に食べ終えていた。バナナ・ワニ・パークの植物園内をあてどもなく歩きながら会話は続く。木々のトンネルのようになっている小路、その両脇にはハイビスカスや珍しい種類のランが咲いていて、蜜の香りは鼻の奥までをとことん甘くする。
「女の子には慣れてなかった。触れてしまったというだけで僕には大事件さ。怪我をさせてないか、汚してしまってないか、嫌な思いをさせていないか」
平気だった。井端は言った。むしろ僕の方を心配してくれたのさ。彼女は。僕にはそれが嬉しかった。数拍子、遅れて、彼女が同じクラスのコだと気が付いた。彼女の方でも僕の顔に見覚えがあることに気が付いてくれた。彼女は尋ねた。そんなに慌ててどこへ行くんスか。僕は体裁が悪いから、言い訳をしようとしたんだけど、思い付かなかった。それに時間も無かった。こうしている間にも焼きそばパンが売り切れるかもしれない。早く買いに行かないといけないから、ストレートに、実はパシリでねと口走ってしまった。彼女はアハハハと笑った。僕の情けなさを笑ったんだろうに、気分は悪くなくて、僕はモジモジした。とにかく、悪いねと重ねて言い捨てて、購買部へ走った。彼女は僕の背に向けて、もう転んだら駄目スよ、そう言ってくれたけど、言われてドギマギしたからさ、僕はまた転んだ。
パン? パンかい? 無かったよ、それは。余計な時間を使ったからね。代わりにジャムパンを買っていったら、そのパンを口に詰め込まれてね、窒息するかと思うぐらい詰められて、ナメてんのかって、殴られた。痛かったなあ。ナメるなら床を舐めろとか言われたりも。舐めたよ。怖いもん。最後は、コイツ、マジでやりやがったとかね、指を指されて笑いながら、先輩達の前で、踏み潰されたジャムパンを食べさせられた。いやあ。
翌日さ。世界が変わったのは。
先輩達は僕にこう言った。飽きた。それで終わり。呆気に取られたよ。どうしていきなり、と、尋ねると、うるせェってさ。同じクラスで、僕をボンレス・ハムって呼んでね、昼休みになると関節技をキメたりしてくる連中が居たんだけど、彼らも僕を遠ざけるようになった。わけがわからない。僕はコレも何か新しい手口なのかと疑った。
違ったよね。ウチの中学校はさ、今時はどこもそうかもだけど、この不況のせいで学区が広くてね、学生数が凄かった。勿論、良い奴ばかりではなくて、悪い奴ばかりでもないにしても、不良みたいな生徒もさ、一定数、居た。その不良の中でとびきりにアレな人と荒木さんは知り合いだったのさ。どういう種類の知り合いかについてまでは言わないことにするよ。察して欲しいな。
荒木さんは顔が広くてねえ。オタクのグループにも出入りしていて、僕はそのグループと、仲良くはないけれど犬猿の仲でもなかったから、あるとき教えて貰えたんだ。『あの不良のボスみたいなのがお前をどうにかしないようにお触れを出したんだ。どうも荒木さんがそうするようにお願いしたらしい』
僕はね、勇気を振り絞ったよ、休み時間に、いや、人前では無理だからね、荒木さんが一人になったのを見計らって、階段の踊り場で尋ねたんだ。こういう話を聴きました。本当ですか。彼女は迷いもせずに答えた。そうスよ。迷惑でしたか。迷惑なんてとんでもない。ただ、でも、理由が知りたいんですと僕は前のめりに訊いた。
彼女はここでも迷わなかった。返事はこうだ。可哀想でしたんで。気紛れでスよ。僕は感銘を受けた。僕は気紛れで人を傷付ける人をたくさん知っていたけれど、気紛れで人を救う人、これの実在についてはあのとき初めて知ったんだ。なんだかとても――――
「救われた気がした」
トンネルを抜けるとまたしても南国だった。池のほとり、俺達は水面にプカプカと浮く、花弁の先だけが仄かに紫色の白いスイレン、子供ぐらいなら上に乗せられそうなオオオニバスを眺めていた。水は適度に濁っている。過度に澄んでいるものは信用ならない。何事も適度に濁っているべきなのだ。
「それからは君も知る通りな感じさ。僕は彼女の後を着いていくようになって、いろいろな知り合いも増えて、中学生活の後半はそれなりに愉快だった」
「尋ね辛いことを尋ねていいか」
「あのね、君、もう既にかなり尋ね辛いことを尋ねた後だぜ?」
「なら遠慮なく。嫉妬とかしなかったか。荒木は、だから、そういうことだろ」
「うん。したよ。それはもう。夜の街で彼女がハンサムな男の人と腕を組んで歩いていてね。いやあ。アレは悔しかった。懐のハンカチを取り出して端を噛んだね」
「それでどうした」
「正面から行った。貴方のことを好きになりました。本気です。――って」
俺は湿度でペタリとした前髪を掻き上げた。「なるほどね?」
「なるほどだろ?」井端は二重顎を撫で回しながら笑った。
「荒木さんは笑ったよ。何を馬鹿なと僕を笑った。私みたいなのと付き合っても得はしないとも。でも僕はゴリ押した。荒木さんと付き合いのある人たちは彼女の素性を知っていたし、ある意味で割り切った関係だったというか、荒木さんはそういう関係を築けそうな人を狙っていたから、面倒が起きることはなかった」
「ピクルスの瓶の中に詰められているみたいな気分だ。羨ましいよ。俺にはとてもそこまでは」
「あー」井端は二重顎をビヨンと引っ張っている。「そうか。それか。そうだよなあ。サトーさんと上手く行かなくなった原因は何なの?」
「分からない。俺は、その、中学時代、付き合っていたというか、大切にしたかった人が居て――」
「――もう逢えなくなってしまった」
「……。……。……。そうだ。だから、なんというか、サトーに何なんだと物事を尋ねるのが――」
「――怖い、と。何となくそうしたら自分の前から消えてしまいそうで。或いはそのことがキッカケで喧嘩をするのとかも」
「なんだ。凄いな。ニュータイプって奴か?」
「だといいんだけどねえ。荒木さんは口が軽いんだよね。サトーさんから聴いたことをそのまま僕に伝言ゲーム」
「勘弁してくれ。ハンバーガー屋のドライブ・スルーじゃないんだぞ」
井端は口元を綻ばせた。「僕はね、花見盛、僕はね」
「何だ」俺は突慳貪な言い方にならないように努力しながら相槌を入れた。
「荒木さんの頼みであれば何でもするだろう。何でもだ。一方、僕は、彼女がさ、僕の傍に居てくれればそれでいいんだ。彼女は僕には何も教えてくれない。何もだ。僕とてもね? 知りたいと思ったことはあるんだよ? 訊いてみたことさえあるんだよ? それでも何も教えてはくれない。はぐらかされてしまう。彼女がどんな人生を送ってきたか。どんな思想か。僕をどのように想っているか。どんな食べ物が好きで、どんな音楽を好んで、どんな話を好くかぐらいは知っているけれど、それ以上では決してない。でも、それでもいいな、と、僕自身は納得している。なんならね、彼女が僕以外に、本当に好きな人がいてもそれでもいいとすら思うんだ。勘違いしないでくれよ。不満ではあるんだ。それでも納得はしている。納得してさえいれば多少の不満なんてどうでもよくなる」
「納得ね。悪いが、なあ、井端、お前は急に何の話をしてるんだ?」
「自分と相手のどちらを優先するかという話さ」
井端は足元の鉢に植えられたウツボカズラを見下ろした。その食虫植物の漏斗状の袋部分には、いま、まさに一匹の虫螻が迷い込んだところだった。
「荒木さんはとても明るくて、皮肉屋で、明るいけれど、夜になると塞ぎ込んでしまうことがある。最近は特にそれが多かったんだ。ある夜なんてね、サトーさんから電話が掛かってきてさ、話しているときは楽しげだったのに、電話を切るなり沈んじゃってね。僕の背に抱き着いてきた。僕は寝たふりをしていたよ。
だってさ、僕はね、彼女を慰めてあげられないんだ。彼女がどうして落ち込んでいるかの原因を知らないからね。対人関係で落ち込んでいるのか、お腹が痛いから落ち込んでいるのか、前者なのに『胃薬を飲むかい?』なんて尋ねても無意味だろ。無意味ならまだいいか。傷付けてしまうことも有り得る。
“この人は私のことを何も分かってくれていない”ってさ。面倒だよねえ。分かって欲しいなら口で説明してくれよ。せめてコチラの質問に答えてくれよ。僕でもそう思うことはある。たださ、荒木さんはさ、何かあると放っておいて欲しい人なんだろうね。それか、本心では構って欲しいんだけれど、そうして貰うことに抵抗を感じてしまう人なんだと思う。もしかしたら構って貰いたいけど、構って欲しい理由を説明するのが苦手だったり、その理由を話しても理解して貰えないかもしれないって、怖くなってしまう人なのかもしれない。実際、この広い広い世界にはさ、親にも親友にも恋人にすら理解して貰えない孤独なんて有り触れたものだろ。僕の体型に関するコンプレックスだってそうだ」
「――――。」
「ただね、分かってあげたいと思うのも、分かろうとするのも、分からないからヤキモキするのも、全部、僕の問題なんだ。相手の問題ではない。“分かってあげようとしたのに分からせて貰えない”からって僕が不機嫌になったらそれで終わりなんだ。親切、善意、相手のことを分かりたい気持ち、それに基づいた行為で、なんで相手ではなくて自分の損得を勘定し始めるんだ? なんなんだろうね? 僕にもある。荒木さんにもある。君にもあるはずだ。人に話したくないことなんて幾らでも。自分は話さない癖に。相手にだけ話せだなんて。それはおかしいことだよ。そもそも、親切にしたからといって、相手がその親切を受け取るかどうかは、相手次第なんだ」
「――――。」
「僕は思うよ。コストの問題なんだ。親切はね、するのにもコストが必要だ、迷子に声をかける、困っている人に手を差し伸べる、恋人の悩みを解決するために奔走する、勇気と時間というとてもとても貴重なコストが必要だ。支払ったコストは、相手が自分のしたことで報われたり、ありがとうって言葉で補填される。だから、多分、人が親切心を発揮できるのは、支払ったコストに対する差し引きが〇かプラスになるときだけなんだろうね。そして、コストを支払っているからこそ、つまり短期的には損をしているからこそ、“せっかく人が親切にしてやったのに”と、その親切が結果を伴わなかったときには憤慨するんだ。相手の都合は無視して」
「――――。」
「親切をね、受け入れる側にも、同じように、人を信じるっていうコストが必要なんだ。人を信じるよりも、抱えている苦しみを自分の中にだけ封じ込めておく方がコストが安くて済む場合、人は誰に対しても内心を打ち明けなくなる。
人の親切は素直に受け取れなんて格言があるけどさ、あれは素直に受け取らないと相手が怒るかもしれないから受け取っておけ、処世術的な意味だと僕は解釈している。大体、人を信じるって、難しいだろ。だって、親切にしてくれる人がさ、本当に自分の助けになるか分からないんだぜ。独善的な正義感を押し付けてくるだけかも。して欲しいことと実際にやってくれたことが噛み合わないならさ、した方は満足して、支払ったコストを回収出来るかもしれないけど、された方は大赤字だ。二度と人を信じる気を失くすだろうしね。
それに、もし、してほしいことと実際にやってくれたことが噛み合ったとして、それで苦しみが消えなかったらどうする? お互いが大赤字になる。しかもそれは二度と帳消しにすることのできない大赤字なんだ」
「――――。」
「優しくあろうとすればね、人は損をするんだ、親切をする場合においてもされる場合においても。だから僕は納得している。バランスの問題なのかもしれないね。僕は彼女を大事にしたいんだ。それでいて僕自身も大事にしたい。だからお互いが損をしない範囲において親切であろうと思っている。この話を、恋人に対して積極的になりきれないデブの壮大な言い訳だと感じるならそれでもいいけど、花見盛、君はどう感じた?」
「単刀直入に言うのであれば」
「単刀直入に言えばいいんじゃないかな」
「ずっと思っていた。サトーは俺が居ないと死ぬんじゃないかと。反対だったな。サトーが居ないと死ぬのは俺だ」
「ふむ。ま、なんていうんだろうなあ、あの」
井端は今更のように照れた。頬を恥ずかしげに掻きながら言った。
「人は厄介だ。人の心理は。親切にしたいが為に、愛する人に損をさせないが為に、敢えて邪険にするということもある――らしいよ、うん」
ウツボカズラの中では這い上がれなくなった虫螻がぐったりとし始めていた。





