番外編2章28話/花見盛恭三郎君の憂鬱(花見盛) - 7
アタミと聞いてまず最初に何を思い浮かべるだろうか。お恥ずかしながら俺は、その、だから、ええと、ブラック企業だった。分かっている。言わないでくれ。頭文字が違う。分かっている。俺は斯様なまでに旅行、並びに温泉、吐露するならば地理にも興味がない。アタミがシズオカの一部なのは知っていた。しかし、正確にどの辺りに所在するかについてはこの旅行で初めて知った。(というか、“アタミがシズオカの一部”って、一部って、我ながらなんて杜撰な)
言うまでもなく、アタミの歴史、それについては友達の友達についてぐらい何も知らない。辛うじて温泉が有名なのは存じておりましたけれども、その他はサッパリ、友達がトイレにでも立とうものなら約束された沈黙に気不味い思いを強いられねばならない。
『なんでこんな奴を連れてきたんだよ』と友人を憎むのは切なく、俺はイイコちゃんでもあるので、俺は友達の友達についての見聞を深めることにした。
……翻訳すると、新幹線のシートに井端と並んで座っていたところでやることがある訳でもなく、かといってスマホでも弄ろうものなら彼の気分と面子を潰すことになり、それは部長辺りを呼び付けて話を始めても変わらない。とすると、サトーご謹製の、幼稚園児が描いたのかと疑われるようなイラストが目立つ表紙の旅のしおり――なるものを熟読する他に無かったのである。
そもそもからして、今度、俺と井端が薄ら大きな図体を戦時でもないのに密着させていなければならないのは、二人揃って仲良く余ったからである。
何から余ったかと言えば、旅の最中に迷子になったとかトラブったとかそういうときのために組まれた班構成、そこから余ったのである。ハブられたとかそういう話とは違う。断じて違う。藤川の談を引用するならば、
『お前はサトーと。井端は荒木と。普通に考えれば一緒に行動すると思うだろ? 誰だってそうだよ。俺だってそうだったよ』
『誰だってね。俺だってね。俺だってそうでいて欲しかったよ』
『班を組み替えたらいけないってルールはない。いまからでも二人してウチの班に来るか』
『いや。うん。大丈夫だ。ありがとう』
この点から推して考えると一番可哀想なのは井端なのかもしれない。荒木は俺に『私がスね、かなでちゃんと二人であちこち見て回るンで、その間はブーちゃんをお願いします。一日に三回ですよ。餌は。おやつも別に与えてくださいね。あ、量はキチンと制限して下さいよ』などと、サトーとはまた違うベクトルで辛辣な表現を用いて、依頼した。荒木に豚扱いされるのは恐らく日常的なことだろうから敢えて言及しないが、それはそれとして、団体とはいえ楽しい旅行である、俺ではなくて大好きな彼女とを望んでいたろうに。
井端自身はこの件について『いいよ』としか言わなかった。むしろ『花見盛はそれでいいのかい』と尋ねられた。井端はこんなにイイヤツだ。俺はどうだ。井端は口下手だ。コミュ障に片足を突っ込んでいる。荒木の前か仕事中でなければまともに話さない。まともに話したことも実はそう多くない。だから、井端の方から話題を提供するのは厳しいだろうな、それが分かっているのにムッツリしている。あまつさえ、彼を無視する形で、しおりの内容に夢中だ。
それだけではない。俺はこの醜態を、全てサトーがいけない、アイツが俺を邪険にさえしなければと責任転嫁することまで考えていた。しおりを読む耽ることにしたのも、ああそうだとも、そうでもしなければ嫌でもサトーと荒木と副部長らの談笑がこの耳に届くからだとも。救えない。
しおりを紐解く。最初に旅の理念なるものがあった。必要なのかコレは。読み飛ばす。次に日程表がある。弾丸旅行そのものだ。一泊二日、その初日は、言うなればサトーの趣味に総員で付き合ってやるようなものに近い。
無論、どいつもこいつも旅慣れていなかったので、トヲキョヲかヨコハマからまずまず近くて、食い物が美味くて、そうそう温泉とかあるといいかも程度のアイデア以外、あらゆることをサトー任せにした俺達にも責任の一端はある。ただし、物事には程度というものがあるはずだ。このスケジュールだと日中は休憩する暇もない。
ほとほと自分をぶん殴りたくなる。思うに、サトーとの関係が巧く行っていたのならば、俺はこのスケジュールも『サトーらしい』とか勝手に好意的に受け止めていたのだろう。というか、誰も不平らしい不平をこの旅行に対して言い出さない辺り、俺以外はそのように受け止めているのだろう。
危ない。疎外感に胸を締め付けられるところだった。あれは中学の、ホラ、人身事故の動画で有名人になって、それが学校にバレた後のことだ。一日、学校の自分の教室に入ると、机の上に花瓶が置いてあった。花瓶には汚水が注がれていて、菊の花が一本だけ生けられていて、呆然とする俺を教室中が蔭で笑った。あのときと同じような感覚だ。あのときにも似ているな。オフクロの葬式のときだ。親族に浴びせられた『親不孝者』の言葉はまだ胸の奥に燻っている。だから俺はこんな俺を見棄てなかったあの人に惹かれて。って。おい。そうじゃないだろう。だから。ええい。落ち着こう。深呼吸だ。
「花見盛」
井端が俺を呼んだ。
「平気かい」彼は膝の上に載せたシウマイ弁当の包を撫で回していた。
「平気だ」俺はなにをやってるんだろうなあという自戒と共に返事をした。首筋を掻く。「変に見えたか?」
「凄くね。変に見えたよ。なんていうか――」
「なんていうか?」
「――トイレに入ろうとしたら有料でオマケに小銭を持ってなかった人みたいだった」
不意打ちだった。ツボに入った。俺は腹を抱えて、咄嗟に口を抑えて声は殺したものの、息が出来ないぐらいに笑った。井端は含羞んだ。
「熱心に読んでたね」井端は弁当の蓋を取り外しながら訊いた。弁当箱は木製のように見えるプラスチック製で、小さくて可愛らしいシウマイが肩を寄せ合い、俵のような形で一口サイズに纏められた米粒はピカピカしている。この他にも色の薄い唐揚げだとか、煮た筍、干しアンズなんかも入っていて具沢山なのが羨ましい。
「何か面白いことが書いてあったかい」
「あったね。お前、アタミに行ったことは?」
「無い。それどころか、今回、行くまではアタミがシズオカの一部だってことしか知らなかった」
「ああ。だよな。そうだな。俺もそうだった」
「温泉街なんだよね」井端は割箸を割った。綺麗に割れた。割箸を指の間に挟んだまま掌を合わせて会釈をする。もぐもぐと食べ始めた。シウマイをひとつくれるというので貰ってみたが、ははあ、サイズの割に味が濃くて、前歯で噛むと肉の旨味と汁が舌の奥に流れ込む感じだ。冷めているからこそのシットリとした食感も素晴らしい。シウマイというよりかは上等な肉マンに似ている。
「温泉街だ。歴史は相当に古いらしい」俺は指先に着いた脂を舐めながら言った。
「アタミってのは熱海と字を充てるらしい。移民が増えて地名に漢字を使わなくなって、なあ、何年だった?」
「さあ。覚えてないね。僕らがこんな小さな頃じゃないか、それ。熱海の名前の由来は?」
俺はシウマイを一度に三つも頬張ってはガツガツと米を掻き込む知人をこの上なく頼もしいと思った。「なんでも、あるとき海中からいきなり温泉が噴き出して、海がグツグツ煮え始めたらしい。魚が爛れて死ぬぐらいにな。それで熱海と呼ばれ始めたそうだ」
「へえ。本当なのかな」
「知らん。だが、七世紀頃だかの本に、伊豆国に神の湯があって、それは一昼夜に二度、激しく沸騰しながら噴出するとかしないとか書かれてるそうだ。それを桶に汲んで身を浸すと万病が治るとか。ま、その源泉、オオユ間欠泉ってのは疾うに人の手を介さないと湯を出さないようになっているらしいけどな。温泉というか、湯治場か、それとしても昔から重宝されているようで、エドの頃には温泉番付で行事役だったらしい」
「……。……。……。温泉番付?」井端は箸を動かす手を止めてあらぬかたを眺めた。
「温泉番付らしい。当時は何でも相撲の番付みたいにランキング付けするのが流行ったそうだ。おかず番付とか」
「ほお」井端は口の端の米粒を指で拭った。迷った末にパクリと食べてしまう。「昔も今もヒノモトだなあ。直ぐに最強議論とか始めるんだから」
「幕府の将軍様の中には、アタミからエドまで、わざわざ湯を取り寄せた奴もいるらしい。樽に入れてな。引湯権? ああ、そのままか、湯を引く権利があったのは限られた二七軒の湯戸だけだったとか何だとか、その湯戸が他の宿屋が無断で内湯を作ったりしてないか監視してたとか、あれこれとこれ以外にも書いてあるよ。もう少しだけ読むか。古い話だけでもなんだからな。メイジの維新以降、文人墨客って奴だな、トヲキョヲから近いってこともあって文化人が押し寄せるようになって、温泉地として本格的に人気を博し始めたんだと。ショーワの高度経済成長期にも団体様旅行でそれはもう大人気だったが、新幹線の開通でトヲキョヲの近辺でもなくても気軽に旅行可能になったとか、主要な客である男性客を狙ったピンクな商売が流行しちまったせいで治安が悪化したり、次第に入込客数が減少して、バブルで少し盛り返したけれどもその後は――だったらしい」
「だったらしいと言うと」
「一時期は“アタミは終わった町”として扱われていたそうな。ヒノモト国内でも有数の温泉街だった頃はあちこちに有名人だ財界人の別荘とかがあって、セレブの街という印象があったけれども、人気が凋落するにつれてそれはもう寂れちまったらしい。アタミアタミと大騒ぎするのはオッサン以外に誰もいませんみたいな。ところが、昨今の連続大震災、それのせいで盛り返したんだとよ」
「なんだか辻褄の合わない話だなあ。あの震災のせいでどこもかしこも不景気なのに」
「でも、小金持ちは探せば居るし、偶の贅沢をいまの俺たちみたいにする奴らもいる。メイジの頃と同じことが繰り返されてるんだ。少し羽根を伸ばせる、それでいてトヲキョヲから遠くない温泉街となると、アタミしかないと、そういうカラクリだな」
「納得。震災で地元を捨てて、捨ててって言っちゃ悪いか、首都圏に雪崩込んできた人も多いもんなあ。生活が落ち着いたらどこか遊びに行きたくもなるだろうしね。落ち着いて暮らすにはトヲキョヲは不向きな町だ。ところで、アタミ、どれぐらい滞在するんだっけ?」
「短いよ。着いたら一時間弱で乗り換えだ。見て回れるとしたら駅の近くだな。見て回るか」
「今日の宿のあるヌマズからアタミは近いんだよな。明日もその気になれば来られるんだし、無理をしなくてもいいとは思うけど、まあ、せっかくだから」
「そうだな。せっかくだから」俺は井端のことが好きになり始めていた。変な意味ではなくて。
しかし、無念なことに、駅周辺の観光は捗らなかった。アタミの街は些か狭く、道路幅なども狭く、急な坂道に沿うようにして展開しているので、人も車もごった返していた。駅を出て数分のところで、俺と井端、インスタントな凸凹コンビは人海に呑まれて、そこを犬掻きで泳ぎ切った後はもう疲れてしまっていたのである。俺たちは苦笑を交換した。駅へ戻る中途、ふと坂道を振り返ると、背の順のように段々になって連なる建物の隙間に海が覗けて、俺達は俄に興奮した。
トップ・シーズンには市内を巡るバスが最大で一時間半も遅れるとか、それを改善するためにモノレールの開発が企画されたけれども頓挫したとか、毎月のように催される祭りのどれが賑わうかとか、アタミについての知識は旅が終わった後でも定期的に仕入れた。また機会があれば行きたいなと思ったからだ。サトーのことは置いておいて、それまで同僚ではあるけれども友人ではなかった男、彼と急速に打ち解けながら『ふざけんなよ』だの『なんだこの人の量は』だの『どこから来たんだ。みんな帰れよ。国へ帰れよ。お前らにも家族が居るだろう』だの愚痴りつつ、秋晴れの空の下、人熱れのせいで汗だくになりながら歩いた街に俺はそれだけの感慨を抱いていたのである。正直に申告するならば、旅の最中、美しいと思ったものやことは他にあり、いいなと思ったことも他にあるが、これ以上に気楽で楽しかったことはない。
俺はまだあの街を再訪していない。海の色はあの頃とは変わってしまったことだろう。





