番外編2章28話/HAPPY PARTY TRAIN(荒木) - 下
しかし、“ちょっといいかもな”では終われないのが人間の業だ。
私は実害を被ったことがない。それはストレスは感じている。私は望まれて生まれた子ではない。愛されて育ったけれども、生まれてしまったから愛されたに過ぎず、生まれて来なくともそれはそれだった筈だ。むしろ、来歴から推理するに、生まれて来なかった方が少なくとも母にとっては良かったのではないか。どうだろうか。私が生まれたからこそ母はヒノモト国籍を獲得し得た訳で。養育費も慰謝料も。やめよう。穿ち過ぎだ。第一、それが母親であろうと、死人について巡らせる思いに意味はない。
外国人だとバレれば迫害される。
つまり、生の私には価値がない。加工された私にだけ意味がある。人生にフォト・ショップをかけて、他人はおろか自分すら騙す、その生き方にはそれなりの苦痛が伴った。しかし、だとしても、私は誰かに殴られたことはない。蔑まれた経験にも乏しい。貧しさに喘いだのも、母が消えて、下宿した先のオーナーが嫌な女で、それで路上で暮らしていたしばらくの間だけだ。後は男に媚を売って、(なにしろ男なんて腕に抱き着いてにゃあにゃあ鳴けばそれで済む)、テキトーに人生を消費してきた。
理不尽な話だ。私は、かなでちゃんに対して、友情と、同情と、それから嫉妬を感じていた。かなでちゃんはイイコだ。私みたようなのでも友達として扱ってくれる。彼女のお陰で給料なんかも上がったので、なんと申しますか、可能であれば恩返しをしたいなとも思う。
と、同時に、かなでちゃんは私には想像することすらままならない苦労を味わって育った、その事実が嫌で嫌で仕方なかった。彼女と相対していると、知的な彼女、大人な彼女、冷静な彼女、彼女のあらゆる側面が私を嘲笑っている気がした。『お前は安い女だ。袋に詰め放題で三〇〇円でもまだ高い。お前は大して辛い目にも遭っていない。それなのにそんな歪んだ性格で恥ずかしくないのか?』
被害妄想だ。それは分かる。分かっていたところでどうにもならない。私は彼女を慕った。それでいて恨むようにもなっていた。ただ、彼女が発作的に催す子供じみた癇癪、それをヘラヘラと宥めすかしている時ばかりは、自分でも嫌になるぐらい心が安らいだ。
そういう次第なので、ある日、
『相談があるの』と、持ちかけられた際は、それが夜中の二時、彼と二人で寝ているところをいきなりの電話で叩き起こされたにも関わらず、寛大な返事をしてやれた。
『割増料金を貰いますよ』それでもまあ嫌味は言った。
『はん。割増料金ね。誰のお陰で学校に通えているか、それを考え直せば、そんな減らず口は叩けなくなるはずだけど?』
『……。……。……。』
『何か言いなさい』
『……。……。……』
『ねえってば』
『……。……。……。』
『言いなさい。言え。言ってください。なんで。なんで黙ってるのよ。なに。私のことが嫌いにでもなった?』
『はいはい』台詞こそ冗談めかしているけれども、“嫌いになった?”の発音はヤンデレが別れ話を切り出された場合のそれ、鼻声でもあったので私は肩を落とした。気も済んでいた。気が済んだか。自分の気が済むか済まないかを他人の感情に優先させるとは。今更か。それにしてもこのコはズルい。嫌いになったなんて言い方があるか。そんな言い方をされたら。ぐぬぬぬぬ。
『で? どーしました? 花見盛と別れることにでもなったんスか?』
『まさか。冗談。はん。私の方はそれでも構わないけど。あちらが困るだろうし。その、旅行、そう、旅行に行くことにしたでしょ、シズオカに』
『あれはなんでシズオカに決めたんスか。そういえば。いや、別にどーでもいいんスけども』
『私が海が好きだから。後はまあ聖地巡りとか。好きなアニメとか小説の。そうなのよ。その海についてなんだけど。ねえ、水着ってどんなの買えばいいと思う?』
『水着』
『水着ですけれども』
『エーとね。熱でもあるんスか』
『至って平熱よ。むしろ私にお熱なのは貴方の方でしょ』
『なに言ってんだコイツ。あのね、いまは一一月でスよ、かなでちゃん。こんな時期に泳ぐんスか?』
『あなたを』かなでちゃんはわざとらしい咳払いをした。
『試したのよ』
『流石に無理がある。なに、海に入るつもりだったんスか、死にたいんスか、死ぬんスか?』
『うるさい!』
『あれスか。そのだらしないボディを晒して男どもを悩殺する気だったんスか。出来ると思ってたんスか?』
『うるさい!』
『そもそもかなでちゃんてば泳げるんスか? 海に行っても浜辺で砂遊びじゃないんスか? つーか、海に友達と行ったことあります?』
『うるさい!』
『旅館は個室ですか? 相部屋? きのうはおたのしみでしたねとかそんな感じスか?』
『うるさい! うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい――コォォォ』
『この女、息継ぎしやがった……』
『うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい! うるさい! あー! もー! うるさい! やる気を失くしました。もう旅行なんて行きません。さようなら』
『はいはい。はいはいはいはい』
『謝って』
『はいはい』
『謝って』
『だから。あー。はいはい。悪かったでスよ。それだけスか?』
『それだけよ。あ、違った。待ちなさい。まだ切らないで。部屋の話だけど、真面目な話よ、貴女と二人で泊まろうと思ってるから。当日も出来る限り貴女と回りたいと思ってるし。よろしくね。馬鹿してないで早めに寝なさいよ』
質疑応答の間も機会も与えられないまま電話は切られた。その一方的なのに私は呆れた。腕を組む。照明の落とされた室内は暗く、季節の割に湿度が高くて、壁の白さが冴えていた。近頃、かなでちゃんは花見盛を遠ざけているようにも見えるけれど、あれはどうしてなのだろう。私は程々に柔らかいベッドの上に座り直して考えた。実は考えないでも分かっていた。溜息を吐く。彼は向こうを向いて寝ていた。その背中を背凭れのようにして体重を預けた。二人で暮らすワン・ルームは家賃相応に手頃で、清掃が行き届いているから清潔であるけれども、シングル・ベッドは流石に狭かった。私を抱いてしまえば、ベッドの上、彼が夢とか愛とかを抱き締める余白は存在しない。
何故か急に寂しくなった。微かに汗ばんでいる彼の背中に、弾む息のままに抱き着いて、饐えた体臭で肺を満たしてもまだ切なかった。それでも寝てしまえば気分が変わるだろうと私は信じた。信じる者は足を掬われる。寝ても覚めても私の気分は変わらなかった。そうこうしている内に旅行のその日と相成った。
朝と夜の境目辺りに、何の前触れもなく藤川の馬鹿が『行けなくなった』とか言い出してかなでちゃんはムカチャッカファイヤー(死語)、彼が行けないなら誰も行くべきではないとか何とか意味不明な理窟を語り始めたので、おやコレはもしかするともしかして中止かな――と期待したのも束の間、
「紳士淑女諸君紳士淑女諸君!紳士淑女諸君!!」
普通、行けないと言っている奴の家に朝から押しかけて、しかも面識の全く無い妹だ弟だまでを仲間内の旅行に付き合わせるだろうか?
普通ならしない。かなでちゃんは普通ではない。彼女には良識はあっても常識がない。それでいて、まるで常識がないのは藤川を含む我々だと言いたげに、いま、手にした紙束を振り回しながら叫んでいる。止めて頂きたい。ところはシンヨコハマ駅の新幹線乗場である。プラット・フォーム中の他のお客様方が何事かとコチラに注目している。苦笑されているのはまだ我慢のしようがある。写真を撮られているのは不味い。ワタシハカンケイナイデス。コノヒトタチトハムカンケイデス。ヒノモトゴムツカシイネー。
「どこかの誰かのせいで予約していた指定席は無駄になりましたがー」
「悪かったよ……」かなでちゃんの傍に立っていた藤川が項垂れた。その両手をガッチリと握っているショタとロリは可愛らしい。
「はん。いいから貴方は反省してなさい。――とにかく、無駄になりましたが、後の新幹線の自由席にはこの切符で乗れるらしいので」
「かなでちゃん、それ、知らなかったんスか?」
「黙らっしゃい。私の専門はSLと路面電車で、車両とかもそれは好きだけど、愛してるのは時刻表の方だから、アレなのよ」
「オタク、鉄道までやるんスか」
「いいから。あのね。時間がズレたとはいえ私は妥協しないわ。各自に配ったこの旅のしおりね」
かなでちゃんは例の紙束の表面をバンバンと叩いた。「この旅程は、たとえ死んでも履行するし、して貰うわ。覚悟しておくように。それから、アタミまでの一駅で新幹線の乗車時間は三〇分しかないけど、全員が座れるとは限らないので、立っていなければならない人はご愁傷さま、我慢しなさい。マナーを悪くしないでね。アタミからアタガワ、アタガワからヌマズ、この辺りは電車に乗り遅れると悲惨なことになるから、間違いのないように。先に言っておいたから。いいわね」
「燥いでますなあ」私は、ちなみにバナナ・ワニ・パークの見所は云々と訊かれてもいないことを話し続けているかなでちゃんを見放して、その彼氏に言った。
「あのしおりを作りながら、彼女、ずっとグフフフフとか笑ってたからな」
花見盛は髭でザラザラの顎を撫でながら笑った。「ま、いいさ。好きにやらせておこう。君、彼女を頼むぞ」
「お任せあれ。いざとなればウチウラの浦に突き落として差し上げまスよ」
それは勘弁してくれと花見盛は肩を竦めた。私も肩を竦め返した。私と花見盛の間でニコニコしていたおデブちゃんに男同士仲良くやるんスねと言った。彼はそうするよと後頭部を掻きながら笑った。しばらくして新幹線が、今時は新幹線でも定刻通りにとはいかない、三分の遅れを侘びながら姿を現した。
レイダー戦にラデンプール戦を経て七導館々々高校の陣容も幾らか寂しくなった。しかし、それはゲームの中に限ったことで、この旅行にはかなでちゃんが加入した時点での七導館々々高校ゲーム部員の殆どが参加している。例外は高木先輩くらいなものだ。あの人は今は何処で何をしているのだろうか。レイダー戦でアバターを殺されて以来、彼はフッと消えてしまって、学内でも見掛けた試しがない。固より私個人としてはそれほど親しくなく、連絡先も知らず、お世話になったことも数えるぐらいなので、強いて知りたいかと問われれば微妙ではある。それでも、一応、仲間ではあったので、気にならない訳ではない。
まあ、兎にも角にも曲りなりにも、久しぶりに顔を合わせた延べ三一人、我々はぞろぞろとノゾミだかコダマだかの自由席に流れ込んだ。空いていた。全員が無事に席に有附た。私はかなでちゃんと並んで座り、その座席を回転させて、後ろに陣取っていた副部長ともうひとりと無駄話を始めた。その途中ではたと勘付いた。
私は駅の購買でお菓子を買い込んでいたので、それを三人に振る舞っていたのだけれども、かなでちゃんはそれにばかり手を伸ばしていた。良かれと思って買っておいた酒類には興味を示さない。私は愕然とした。表面上は平然を取り繕い、副部長の側頭部がストレスからマジで薄くなっているのをからかったりしていたが、胸中ではやれやれと頭を振っていた。聞く所によると、過去には安酒で酔払うことだけで楽しみで、唐辛子中毒になりそうになったこともあった――そんなに量のない安酒で酔払うためには血行を良くするのが一番なのだそうだ。かなでちゃんは、一時、どぶろくみたいなお酒に唐辛子の小袋をひとつ丸ごと空けて呷っていたという――そんな社会不適合者のかなでちゃんがアルコールを無視るとは。そういえば、近日、彼女は酒よりも食の方を優先しているかもしれない。花見盛は料理上手だと聞いている。
人格破綻者の癖に生意気な。カタギみたいに振る舞いおってからに。ムカつくなあ。
「そうだ、サトーちゃん、サトーちゃん」私は話の切れ目を見計らって誘った。「後で少し二人で話とかしてもいいスか」
「――――。夜ならば。どうかしたの?」
「いやいや。別に。大した話じゃないんスけれどもね」
「あ、そう。ならいいわ。また後で話して頂戴。忘れてると困るから」
脳裏にありありと蘇る光景があった。あの猫は流産なんてしないわ。私がお腹を蹴ったの。そう言われたときのあのコのあの表情だ。私は乾いた唇を舐めた。何か破滅的な願望と衝動とが込み上げてきていた。やるか――と思った。やることに決めた。





