1章2話/Video killed the radio star
――伸ばした手を引っ込める前に目が合った。誰と? 鈍く銀色に光る冷蔵庫の扉、その中に佇む人物だ。一四五センチも身長のない、大きな黒縁眼鏡の、伸び過ぎた黒髪は膝裏までで、唇の右下と左目の下にホクロのある陰湿そうな女だ。地味な癖に頭のカチューシャだけが派手だった。
気に入らない容貌だった。私が舌を出してやると、野郎、あろうことか舌を出し返してきやがった。やれやれである。
今朝のメニューはトースト三枚、それに林檎とソーセージのバター焼きである。トーストにはこれまたバターに、みじん切りにしたパセリと檸檬汁を加えたものを塗り付けてあった。
料理を半分ずつにして二つの皿へ盛り付ける。我が家にある皿は全てが陶器、安物に見える高級品に見える安物である。
「妹よ」キッチンから続いている畳敷きの居間には兄がいた。「喜べ。お前のお仲間が話題になっているぞ」
兄の座る、居間の中央でデカイ顔をしている卓袱台の横にはテレビがある。今時ブラウン管の、ぼやけた液晶の中で府画邦治なる社会学者が次のように語っていた。『なぜ低学歴が凶悪犯罪を起こすのか。彼らの、低学歴の根底にあるのがコンプレックスだからですよ。そして、彼らはそのコンプレックス以外には何も持っていない。精神的にも物質的にも貧しくて身軽だから軽率に犯罪を起こすのです。承認欲求や物欲を満たすためにね。これはひとつの例外もありません』
不愉快な番組だったが、だからこそ、チャンネルを変えるように依頼すれば兄の嫌がらせに屈したことになる。私は努めて無表情に配膳を終えた。兄はつまらなそうにテレビを消した。「今日はパンか」
どうして、自分とこの兄とが双子なのだろう。私は何時もながら疑問に思った。六尺の身の丈で細身、私と正反対の位置にホクロのある顔立ちは若かりし頃の内野竹豊に似ている。銀縁眼鏡の似合う一七歳を私は兄以外に知らなかった。
「昨晩は輪番停電でしたからね。炊飯予約ができなくて。なに、兄さんはパンもお好きでしょう」
「塩対応だな」
「レモンとシュガーがあればレモネード対応にできますよ。優しい対応をして欲しいならばぜひご持参ください」
「か。久々に顔を合わせればコレだ。まあいい。どうせ、お前の塩辛くて飲めたもんじゃない味噌汁で食事を済ますなんてゴメンだ。己は灰かぶり姫じゃないんでな」
いや待てよ。兄は眉を顰めた。その声は焦げたような独特の低音である。「お前、さては怒ったな? お仲間を馬鹿にされて怒ったわけだ。全く、誠にお前はそういう点で阿呆だぞ。何かあると直ぐにへそを曲げる。いいか、今年が何年だと思ってる。ミレニアムから既に四〇年近くだ。ニ〇三八年だぞ。いい加減、精神の建築基準法ぐらい守れ。お前の心は木材で出来ている。ちょっとした火種で忽ちの上に燃え上がる。欠陥だな。欠陥精神だ。誰に設計を依頼した?」
「お祖母様ですよ」
兄は目に見えてたじろいだ。部屋の隅に置かれた仏壇には私のあげた線香だけが燻っている。「怒りましたか? 全く、兄さんは洵にそういう点で阿呆ですね。何かあると直ぐにへそを曲げる。いいですか、今年が何年だと思ってるんですか。年号がレイワに変わってから既に一八年ですよ」
兄は舌打ちした。私は黙々と食事を進めた。昨晩、否、ここのところ飲み過ぎだからか頭痛がする。口の中が妙に渇いていた。
メリケン製の安いソーセージをはむつきながら――バターと溶け合った脂が甘い。噛むとパリパリの皮が弾ける――中庭を見た。狭い、池と木々と花とで埋め尽くされたそこではラベンダーの花が開き始めている。天気は余り宜しくない。雨の匂いが立ち始めている。
「妹よ」
兄は不機嫌を隠そうともせず言った。「最近は元気がないようだ」
「ついに頭のネジがポォーンと弾け飛びましたか。兄さんが心配してくれるとは」
「己が心配しているのは我が家の家計のネジだ」
「入院する余裕はまあないですからね」
「お前、まさか自己管理もできないほどのド低能の腐れ脳味噌じゃないだろうな」
「自己管理ができないのと低能というのは完全にイコールなんでしょうか。自己管理が出来ないでも結果を出した野球選手とか文豪をいくらでも知ってるんですが、私」
「つまらない」
兄は頭を振った。手にした醤油差しをソーセージへ向けて傾ける。出が悪い。醤油差しを振る。それでも出が悪い。彼はついに醤油差しの蓋を開けた。加減を知らない彼は皿を醤油の海へ変えてしまった。
「……。……。……。つまらない。全く、お前と話すのはつまらない。つまらない。いいか? しっかりシメておけよ。家計のネジもお前の減らず口もな」
「そうしてもいいですが、でも、お先にどうぞ。それと、それ、ちゃんと食べてくださいね」
「ああ、出来の悪い妹の作ったものでも勿体無いからな」兄は舌打ちした。
「食材に罪はない。この醤油、特選で高いしな」
そこで固定電話が鳴った。着信音からして母である。兄は顎をシャクった。塩辛いソーセージを咀嚼して渋面だった。「お前が出ろ」
『だからなんで右京子が出るのよ』受話器を取ると出し抜けに叱られた。
『左京お兄ちゃんに取らせるようにって言ってるじゃない。何度も言わせないでよ。ねえ、アンタ、最近はしっかりやってるんでしょうね。禁酒セミナーには行ってる? また変なことしてない? お兄ちゃんのお世話はちゃんとしてるんでしょうね?』
私の口からは使い慣れた嘘が淀み無く出た。「はい、もちろんです」
『それでいいのよ。あんたは出来が悪いんだから。だから虐められたんですからね』
母は面倒そうに捲し立てた。『じゃ、お兄ちゃんに代わりなさい』
その兄は鞄を手に居間を出ていくところだった。庭を囲む廊下へ第一歩を踏み出しかけていた彼は、しかし、かれこれ二週間も母を無視していたことに罪悪感を覚えているのだろうか。私から受話器を奪い取ってもしもしと始めた。母の猫撫声が聴こえる。『――平気? 何も不自由はない? 苦労は? 右京子は嘘ばかり吐くから』
私は兄を置いて家を出た。バスの時間がもう五分後に迫っていた。自治体予算の不足から廃止寸前に追い込まれている市バスは一時間置きにしかやってこない。
私の懐にはスマホと財布とポケット版の小説だけが入っていた。いかさま、高学歴と違って低学歴は身軽かもしれない。私が教科書を家へ持ち帰らなくなって何年が過ぎたろう。
……バスは混んでいた。乗り合いの誰もが殺気立っていた。何かに苛立っていた。