番外編2章26話/HAPPY PARTY TRAIN(荒木) - 上
『あー』当時、私はまだ彼女のことをサトーちゃんと呼んでいた。そのサトーちゃんは前髪の一部を指に巻き付けながら唸った。
『荒木さん』サトーちゃんは目線を私ではないどこかへ据えて言った。『荒木さん』
『ホイホイな?』私は小首を傾げた。彼女と私とは二人でダババネルの市長室に詰めていた。レイダー戦を前に控えた大事な時期で、勘弁してチョンマゲ、そりゃーもう忙しかった。そもそも何故に私が書類仕事なぞせねばならんのですか。私はスキあらば、帰りたい、辞めたい、遊びたい、このどれかに思いを馳せて、彼と副部長に“大変だろうけど”と慰められていなければバックれていたかと存じまする。敬具。
『ふと思ったんだけど、貴方のことを、その、何時までも荒木さんと呼び続けるのも何だかこう――』
『はあ。なんスか。あ、手は止めんといてくださいよ。私だって頑張ってるんスから』
『ええい!』サトーちゃんは執務机の脚を蹴った。やめとけばいいのに。それ石製でスよ。大理石とかスよ。知らないスけど。サトーちゃんは痛みで飛び上がった。飛び上がった勢いで椅子が傾いた。
『あ』とサトーちゃんは呟いた。間を置かず『あわわわわわわ』と慌て始めた。傾いた椅子は、まるでメトロノーム、危ういところで倒れずにいる。サトーちゃんは両手を飛び方を忘れた鳥のように振り回した。この漫才にも慣れた。日に三度も四度も同じことをやられればそれはねえ。
彼女の身体能力から推して考えるに奇跡としか言い様がない。サトーちゃんの椅子は無事に着地、彼女は倒れずに済んでドヤ顔を披露したけれども、着地の衝撃で机の上に重ねられていた書類が崩れた。『あああああああ』と彼女は後頭部を掻き毟りながら叫んだ。『あーあーあー』と私は嘆いた。
『あの』二人で書類を拾い集めた後で、サトーちゃん、相変わらず視線を銀河の彼方に据えたまま言った。
『なんスか。てゆーか、どーやったらば、拾い集める過程で書類を破けるんスか?』
『私が話してる途中でしょ!』
『ああ。はあ。はいはいはい。なんスか?』
サトーちゃんは腕を組んだ。頬を膨らませる。ぶつくさと何か文句らしきものを吐き捨てた後で、
『ありがとう』言った。
『へい』お礼なら目を見て言えばいいのに。
『へいって。――へいはないでしょ。へいは。人がせっかく感謝してるのに』
『サトーちゃん、アレでスよね、友達とか居ないスよね。いや、知ってますけど』
『ああん? 私に友達が居ないことと、いやいや、よしんば居なかったとして、それとこれがなんの関係があるっての?』
『サトーちゃん、居るんスか、友達』
『居るんスかて』彼女は跋が悪そうに下唇を噛んだ。私の顔を盗むように見た。忌々しげでもあった。彼女はただでさえ熟れたリンゴのような頬を有する。ぷにぷにで。もちもちで。アップル・パイに適していそうで。その色までを秋の果樹園に見られるような朱に染めたかと思うと、
『貴女は私の友達じゃないの』
と、探りを入れるように、顎を引いて上目遣いに言った。花見盛を落としたのはこの手に違いないと私は確信した。男ならこれで一発ですわ。サトーはチョロい。花見盛もチョろい。なるほどなあ。やはりリンゴは原罪の象徴でスわ。私は苦笑した。或いは私も照れていたのかもしれない。
『じゃ、友達ということで、これからは』
『んなっ』サトーちゃんは鼻先に煙草を押し付けられたネコのように仰天した。『これまではどうなるのよ。これまでは。歓迎会のときとかあんなに話してくれたのに』
“話してくれたのに”ねえ。話したのにではなくて。くれたのにか。『いやあ。どうスかねえ。それで。そういえば、先に、何か話そうとしてませんでした?』
『え? 先にって、あ、ああ、貴女のことをね、何時までも、ええと、だから、あー、なんでもないわ』
『いやいやいやいやいやいや。なんでもあるでしょ。絶対』
『笑わない?』
『可能な限り』
『何時までも貴女のことを荒木さんと呼び続けるのも、なんと申しますか、他人行儀かなと』
『あー。はい。そういうね。え? なに? なんで仕事しながらそれ考えた?』
『いやだから! 仕事しながらだからでしょ! これが終わった後で、もしかしたら、ホラ、私は天才なので? ので? レイダーと戦っても生き残りますけど? 貴女は? 凡人でいらっしゃるので? もしかしたら殺されるかもしれない訳でして? 二度と逢えなくなるかもしれない前にアレかな的な?』
『うわー。うっぜー。うっぜーっスね。めちゃウゼえス』
『……。……。……。いや、あの、はい』
『シュンとしない』
『してませんし』
『ふうん』私はこのコをもう少しイジりたかった。ただ、彼女の心の内幕を掬するに、これ以上はやめておいてあげよう――と、偉そうに思った。
『じゃ、いいですよ、かなでちゃん。好きなように呼んでくださいな』
先手を打った。すると、サトーもといかなでちゃん、口を“あ”の形に開いて、直ぐに閉じた。小鼻を左手の親指と人差し指でフニフニと押し潰す。鼻を啜る。肩を大きく上下させた。眉をキリッと寄せて、大きく口を開き、私と目線を合わせたかと思うと硬直した。彼女の瞳は藤色だった。その瞳の虹彩が揺れている。私はドキリとした。彼女は目に大粒の涙を溜めていた。そこまでか。そこまでスか。悪いことしたかな。
『あ』音は彼女の喉を逃れるようにして漏れた。
『荒木――さんちゃん』
ぷしゅー、と、音がした。比喩でなくかなでちゃんの脳天からは湯気が上がっていた。もくもくと。一昔前の漫画よろしく、目は渦巻のようにぐるぐるで、アニメなら全身をデフォルメ作画されているところだ。私は失笑した。理由もなく彼女の唇を奪いたい気にもなった。かなでちゃんはそんな私のことなど露とも知らず、知らないはずだ、あばばばばばばばばばばばばとか意味のわからないことを言っていた。
なにはともあれ、以来、お互いのことをかなでちゃんと荒木さんちゃんと呼び習わす一対の友達が爆誕した。おめでたい。