番外編2章25話/壊れかけのレディオ(藤川)
発作的に。俺こと藤川健雄は衝動を感じる。投げ込みでもしようか。無意味か。グラブを手に嵌めなくなって何年だ?
ガキの頃は、巨人、大鵬、卵焼き――だっけか。それで育った親父にスパルタ教育を施された。お前はプロ野球選手になるんだとか何とか。親父は熱心だったよ。自分がプロになれなかったからだろう。才能はあったのに。貧しかったから。弟達を学校に通わせる為とかで。工場で働いている間に腰と肩を痛めたらしい。
親父は死んだ。と言うと、震災に結び付ける人も多いと思うけど、アレは糖尿病を拗らせて死んだんだ。俺は馬鹿だ。馬鹿だけれど知っている。『貧困家庭においてはカロリー摂取を安価な炭水化物に頼る傾向がある』んだそうだ。医者が教えてくれた。親父は米をドカ食いしてた。俺も俺と家族の将来が心配だ。糖尿病は遺伝する。
晩年の親父は何時も三つのことを言っていた。
『ヒノモト米だ。ホンモノのヒノモト米が食いたい。こんなメリケンのニセモノでなくて』
『外国人はどいつもこいつも駄目だ。仕事が雑だ。第一、態度が悪い。人様の国を自分のもののように踏み躙るのも気に食わない』
『俺が死んだ後で野球を続けるか続けないかはお前が自分で決めろ』
一つ目は切ない笑い話で済む。二つ目もまあ身内相手の戯言としてなら笑える。三つ目はアレだな。アレだよ。よくよく考え直すと、晩年だけじゃない、親父のお前が決めろはアレの口癖だった気もする。
“お前が決めろ”。選択肢があるように見える。実際には無い。続けたくないと答えると怒られる。殴られる。蹴られもする。今までの努力を無駄にするのかと親父は言う。そう言われても。続けると答えるしかないけれど、そう答えたら答えたで、ヘコたれたときに、“自分で続けたいって言ったんじゃないか!”とか怒られる。殴られる。蹴られもする。どうしろって?
親父が死んでくれて嬉しいよ、正直。しかし、親父が居なくなった今になって、あれだけ嫌だった野球を、もういちど真剣にやりたい気がしてならない――時がある。
思う。趣味で、楽しみとして野球をやればいいのに。素振りをしたところで無意味だと感じるってことは、なんだ、俺にとって野球はプロを目指すものなのか。刷り込みだなあ。親父は俺の中に生きている。気持ちが悪い。俺は親父を尊敬している。それでも親父のような大人にはなりたくない。それが俺なりの親父に対する復讐だ。俺は俺の中の親父を殺すことでようやく大人になれるのかもしれない。大人になるということは解放されるということだろう。自分だけでは抗えない何かから。
……旅行に行くのは生まれて初めてだった。小学生の修学旅行は積立金を払えなくて行けなかった。他にニ、三人、同じような奴らが居て、そいつらと学校で特別授業とかいうのを受けた。つまらなかった。野球クラブの後輩に出会す度に『あれ?』な反応をされるのが辛かった。だから、中学生のときのは、地震で中止になって嬉しかった。
シズオカはどういうところだろう。何が名物なんだろう。地図上ではどこにあるんだっけ。俺は海を見たことがない。親父が死んだ後は新聞配達に明け暮れて、世話になった店が潰れてからはブラスペに移ったから、俺は今度の旅行に遅れて来た青春のようなものを感じていた。海の色は空と同じなのだろうか。テレビで見るのと同じか。恥ずかしながら俺は旅行数日前から興奮で寝付けなかった。
しかし、悪いことに、出発当日になって都合が付かなくなった。パート先で病欠者が出たとかで、その代わりに、オフクロが出勤することになったからだ。オフクロと俺が出払えば後に残るのはまだ幼い弟と妹ばかりになる。已むを得ない。俺は時と場合で諦めが良くなるのだ。
「行けなくなった」と、散々に悩んでから、イチから家庭事情を説明するのも面倒で、サトーに連絡を入れた。
『なにそれ』と、サトーは短い返事を寄越したかと思うと、
「行けなくなったじゃないでしょ」
俺が連絡してから七〇分後には俺の家の玄関先に押し掛けていた。「ドタキャンとは良い度胸ね」
「ドタキャンて」俺はドギマギした。いきなりやってきてなに言ってんだコイツと思っていた。また、それに並行して、ウチの貧相な住宅事情を知られたのが嫌で嫌でたまらなかった。我が家はアダチ区の外れにある。徒歩数分でサイタマ県に越境が可能な、まあ、ニ三区内と言えば聴こえは良いけれどの典型例、品も治安もよろしくない。
品も治安もよろしくないって、それは現代トヲキョヲのどこへ行ってもそうだろうけれど、この辺りは輪を掛けて酷い。元々、アダチ区というのはどうも印象が悪い。都内の割にアクセスの悪さなどから家賃が安く、それで低所得者が好んで住み着くので犯罪発生率が向上、更に家賃が安くなって、――みたいな。
そこにもってきて、近年では、震災で家族や住居や職業を喪ったり失った地方県民、移民や出稼ぎ外国人まで流入している。彼らを狙った詐欺、昔からこの界隈に拠点を構えている某宗教団体の勧誘、これも昔からこの一帯に一大勢力を築いていたハルピン人達による『ココは我々の縄張りだから他人種は出ていけ』的な運動も顕著だ。
現に、――ウチのアパートは入り組んだ横丁に面しており、一階部分はハルピン・パブとラーメン屋、それに謎の会社のオフィスとして貸し出されている。その一階が今も騒がしい。仕事を終えたオバサンもといオネエチャン達がラーメン屋で管を巻いているからだ。あのラーメン屋、直ぐ其処に事務所のあるヤクザのお兄さん達も愛用していて、夜中に暖簾をくぐると、
『お前、分かってんのか、人生ってのはなあ』などとアニキに説教されてる若い衆を見ること頻繁である。なんなの。
可愛い話から一転、三年前には、そのアニキのひとりを狙った鉄砲玉とかが店に押し入って、三八口径を何発か撃った。撃たれた側は死んだらしい。撃たれれば死ぬよな。それはな。俺はその音をこの耳で聴いた。拳銃の音だけではない。罵声や怒声や悲鳴もだ。冗談ではない。この他、一年に一度は、どこか近所で強盗とか、子供を狙った通り魔とか、恐喝事件の類が起きる。ともすれば遭遇する。ああ、忠告しておくけどね、この周りを歩くときは財布を二つ持つんだぞ。ひとつはダミーで。さもないとスラれる。路駐はするな。車でも自転車でも。あっという間に盗られてしまう。(誤解がないように言い添えておくと、アダチ区全てがこうではない、住心地の良い住宅街もある。この町ですら悪い面ばかりではない。良い人も安くて美味い店も人情もある。ただ、悪い面が嫌でも目に付くというだけの話だ)
「色々とあって」俺は兎にも角にも帰って貰おうとした。早い内に。しかし、玄関先で押し合いへし合いをしていると、
「サトー、花見盛はどうした?」
居るべき男の居ないことを悟った。「まさか一人で来たんじゃ」
「一人で来たわ」サトーは前髪を掻き上げた。サラリと言うなよ。やっぱりな、この女な、どこかイカれてんだよ。大体ね、朝の七時だよ、いまは。常識がないよ。
「何か問題でもあるの。――ああ、アダチ区だものね。“銃も持たずにアダチ区に来るな”って話なら私も知ってるわ。実際、駅からココまでの短い間ですら、四回ぐらい得体の知れないキャッチに“オネサンオネサン”って声を掛けられたし、町中、路上で寝てるホーム・レスが多過ぎてそういう文化でもあるのかと。というか、道が狭い、なんでどこもかしこも三人も並んで歩くと一杯になるような幅しかないの。なんなの。藤川君、分かる、藤川君、貴方はそんなところを歩かせたのよ。私に。貴方がドタキャンさえしなければ私があんなところを歩くことも無かったわけで」
花見盛、花見盛、お前はおかしい奴だと前から思ってたけど、やっぱりおかしいよ。こんなののどこがいいんだ?
サトーはテコでも動かない。動かれても困る。下手に一人で返すと何が起きるか分からない。駅まで送っていくから帰れでは納得してくれそうにないので、これも已むを得ず諦めることにした、居間で一応の事情を話すことにする。
居間と言ってもウチには二間しかない。六畳と四畳半に四人家族で暮らしている。日は入らない。当然だ。窓を開けるとニ五センチ先に隣の建物の壁がある。だから部屋は湿っぽくて、寒くて、暗くて、飴色の壁紙の方方、とりわけ天井の四隅に黒カビが繁殖していた。畳も歩くと何か粘つく。サトーが一緒だと何時もより粘つく気がした。
「それで?」サトーは卓袱台の表面を苛立たしげに叩きながら尋ねた。「ドタキャンの理由は?」
「悪いけど五月蝿くしないでくれ」俺は注文した。「隣の部屋で妹と弟がまだ寝てる」
途端、サトーの指が停止した。眉間に皺が寄る。悪かったわねと言いたげだ。しかし、実際に口を衝いて出た言葉は、
「ご兄弟がいたのね」だった。俺は何となくやるせなくなった。サトーは正座している。背筋もピンと伸びていた。こんなサトーは見たことがない。サトーと言えばだらしない女だと思っていた。本人も無自覚に違いない。『人様の家にあげて貰うときはキチンとしなさい』とか躾けられたことがあるんだろうな。ご兄弟。ご兄弟ね。ご兄弟。
羨ましいな。これが育ちの差か。サトーの家は金持ちだったそうだからな。俺は何を考えているんだろう?
「あー」俺はとっとと話を終わらせようと思った。「そのご兄弟ってのが理由なんだ。面倒を見ないといけなくて」
「ご両親は」
「親父は居ない」サトーの眉毛がピクリと動いたのを俺は無視した。「オフクロは仕事で」
「こんな早くから?」
「早くないよ。何時もはもっと早い」
「それは」サトーは言い淀んだ。「そう。つまり、ご兄弟の面倒を見れればいい、そういうことね?」
サトーは脇に置いた上着、脱いでから綺麗に畳んであったそれの懐から煙草の箱を取り出して、細長いのを無遠慮に咥えた。ウチは禁煙でない。壁紙が飴色なのは脂で汚れているからだ。母はヘビー・スモーカーなのである。(畳にも火種を落として焦がした痕が目立つ)
「ご兄弟はお二人?」サトーは卓袱台の上のマッチ箱を手にした。
「二人」俺は茶か何か出せば良かったなと遅れ馳せながら考えた。しかし、そもそも茶がウチの貧弱な台所にあったかどうか。
「何歳」サトーはマッチを擦ろうとした。下手だ。マッチが折れた。
「小学ニ年生と三年生」
「それなら問題ないわね」サトーは二本目のマッチも折った。舌打ちする。三本目でようやく火が着いた。モゴモゴと煙を口に含みながら言う。「連れてきなさい。二人とも。その分のお金も出すから。ホテルも新幹線も何とか捩じ込むので。はい。週末だから問題もないでしょ?」
そういう訳にもいかないだろと俺は条件反射的に言った。なんでそういう訳にもいかないのとサトーは尋ね返した。なんでと言われると返答に窮した。サトーは卓袱台の上に身を乗り出した。メンソールの香りだ。髪から僅かに石鹸の香りもした。改めて近付かれると、なるほどなあ、顔立ちはクール系の別嬪、上半身は貧相だけれども意外と安産型な下半身、特に体重が掛けられている為にその輪郭がぶにゅっと変形しているムチムチな太もも辺りの肉付き、――そうじゃない。そうじゃないぞ。
障子がスッと開いた。目を擦りながら、そこには妹と弟、揃って「なにしてるの? その人は誰? なにしてるの?」と訊かれた。
強く当たって後は流れだ。キュピーンと目を輝かせたサトーは、咥え煙草のまま、お嬢ちゃんたち旅行とか行きたくない、そうそう旅行、そう、その旅行、遠くに行って綺麗な所を見物したり美味しい物とか食べる奴、貴方のお兄さんが行く奴、行きたい、行きたいらしいわよ、このようにして押し切られた。
まあ、兄としては、『おいしいものたべたい!』なんてあんな無邪気な顔で言われたら往生するしかない。オフクロに電話してみると『いいんじゃない』と疲れた声で投槍に言われた。俺は妹達の荷物を手早く纏めた。妹達は照れからか俺にばかり甘えた。俺の陰から何かモニョモニョとサトーに言うことはあったけれども、サトーは子供相手に必要以上の愛想を振りまく性格でもなく、ヒラヒラと手を振ったり、精々が笑うだけで、会話は長続きしなかった。
三つのリュック・サックを背負って家を出る段になって、
「ありがとうな」と、俺は言った。
「余計なことをしたでしょ」と、サトーは今になってそんなことを言った。俺達の先に立っているから俺に見えているのは背中だけだった。
「いや。最初は、その、実は気分が良くなかったけどな、なんだか――」
「――施しを受けてる?」
「まあな」俺は左右から俺を見上げる妹と弟に微笑んだ。コイツらは会話の内容を理解していない。幸せな奴らだと思う。
「でも、荷物整理しながら考えが変わったよ。ありがとう。この機会を逃すと次があるかわからないしな。なんつうか、その、俺はお前に、いや、俺たちはって言うべきかもだけど、機会を与えて貰ってばかり居る気がする。ブラスペでだって。給料も上がるらしいし。助かってるよ。マジで。色々と。初めは嫌な奴だと思ってたけどな」
「ふん」サトーは鼻を鳴らした。ないよりマシな玄関で靴を履く。爪先を床にトントンとした。「あるわよ。ある。次も。その次も」
何故か泣きそうになった俺は目を細めた。「初めで思い出した。そういえば、サトー、なあ、俺はあの件について謝ったっけ。お前に」
「どの件?」サトーは玄関の棚に置いてある薄汚れた野球ボールの縫い目を指でなぞっていた。
「最初の頃の。馬車で。ほら。事故があったときに。俺はお前のせいにして。酷いことした」
「忘れたわ」サトーは大袈裟に肩を竦めた。「先に表に出てるわよ。時間掛かるだろうけど、急いで、電車の時間がギリギリだから」
「分かった」ここで強いて謝るのは違うよなあと俺は考えた。
「本当にありがとうな。変なこと言うようだけど、なんだ、サトー、ええと、頼りにしてるよ。これからも頼りにしていいかな」
「そんなことは貴方が自分で決めなさい。馬鹿ね」
サトーはボロい扉を音高く開けて、音高く閉じて、カツカツと歩いて行ってしまった。イイヤツだなと思う。サトーはイイヤツだよ。
俺は変に満足していた。弟が「あれは兄ちゃんの彼女?」と質問した。ンな事があるか。アレが彼女なら命が幾つあっても足りないよ。彼女は俺の方で願い下げだ。でも、友達というか、都合が良いようにも感じるけれど、仲間ではありたい。せめてもの恩返しにアイツの役に立つことがしたい。そして、あわよくば、サトーや仲間達と共にまだ見たことのないものを見て大人になりたい。
……数分後、表に出ると、サトーは帰宅途中のハルピン・パブのオネエチャンたちに『可愛いわね』とか『ウチで働かない』等と絡まれており、常の威勢はどこへやら、相手のペースに飲まれてシドロモドロに――「いや。あの。本当に。そういうのいいですから」――していた。俺が助けに入り、その場から逃れられると、
「はん。一昨日来やがれってのよ。誰がアンタらなんかと一緒に(以下子供の教育に不適切な暴言)」
仲間も願い下げにするべきかもしれない。