番外編2章23話/花見盛恭三郎君の憂鬱(花見盛) - 5
『家事は分担しよう。分担という言い方がもし気に障るなら分業にしよう』
想い出の中の彼女はそう提案した。そのはずだ。畜生め。一字一句、彼女と話したことは覚えていたつもりなのに、たかが数ヶ月で思い出せなくなるなんて。
たかが数ヶ月? 本当にそうか? 新しいお人形が手に入りました。良かったね。古いのは要らないよね。そんな馬鹿な。全面的に否定出来ないのが悔しい。畜生め。
『君は食事係だ』彼女は帰り途中にコンビニで買い付けた品々を冷蔵庫にぶちこみながら言った。
『後は珈琲係。ベッド・メイク係でもある。それから月曜日は燃えるゴミ、水曜日は缶と瓶で、金曜日はペットボトルだ』
『あー。ええと。質問していいですか』
『ヨコハマの焼却炉は古いんだよ』
『はあ。焼却炉ですか。焼却炉?』
『ゴミの話だろ。缶と瓶とペットボトルは一緒じゃないのかって。違うんだなあ。コイツが違うんだなあ。困るよねえ。なんでも蚊でも一緒に燃やせないってんでね』
『いや、そうじゃなくて――』
『――包丁を握ったことがないって話で?』
『それでもないすね。違うんですよ。俺、ここにそんな長居していいんですか』
何時だったか、ああ、これも思い出せないのか畜生め、彼女はこう言った。『物語の登場人物がイカれてるって設定であるとき、それを読者に認識させる最も有効だけど陳腐な方法、何か分かるかい。簡単だよ。“イカれてる”って他のキャラに言わせてしまうのさ。それか地の文に書いてしまう。私はエピソードを積み重ねてキャラを描写して欲しいタイプだからね、嫌いだけど、ははあ、確かに一発だよね?』
俺も彼女と同意見だ。そのセオリーは陳腐で安い。しかし、有効なので、次のように使わせて貰う。
彼女はイカれていた。さもなければ狂っていた。彼女が家事分担を提案したのは俺が彼女の家に上がり込んで数分後のことだったのだ。
『あーはん』彼女はライブ会場でノリ遅れている奴を見つけたときのような表情を閃かせた。
『そうか。坊やは童貞か。それは悪かったね。実に悪かった。じゃ、先に卒業しとくかね?』
冗談はよしてください。俺は初めては好きなコとがいいからムーヴを始めた。当然、心臓はバクバクで、俺は致命的な間違いを犯したのではないか、いやいやこんな得はそうそうないぞ、待てコレは孔明の罠だ、思考が異次元にループした。ワープもした。可愛いねえと彼女はそんな俺を嘲笑った。表面上は冷静を取り繕っていたはずなのに。差か。経験の差か。なんなんだ。薄い本か。同人誌的なアレですか。おねえさんとぼく的な。すみません。新刊と既刊を二部ずつ頂けますか。
『まあ、なんでもいいけどね、なんでも』
彼女はゴスい服を脱ぎ始めながら肩を竦めた。あの手の服を脱ぐのには手順が要る。俺はジッパーを降ろしてくれと頼まれて、覚束ない足取り、彼女の背に回った。母親以外の生着替えなんて初めてだった。震える手でジッパーを降ろすと白い項が露になった。首筋から浮き出る背骨までは一直線に滑らかだった。俺は生唾を飲んだ。それも、バレないように努力したのに、筒抜けらしかった。恥ずかしかった。恥ずかしいのに嫌悪感を感じないのが不可思議だった。
『居たいだけ居ればいい。こんな痛いオバサンと一緒でいいならね。――おい、君、オバサンって部分は訂正するのがマナーだろ。君には教えることがしこたまそうだ』
差し向かいで、谷間をアピールするのはやめろババア、腹が減ってるのに喉の奥に入っていかないコンビニ飯を食い散らかした後、さて寝ようという段になった。彼女はベッドでトゥギャザーするかいと誘ったけれど、俺は丁重にお断り、明日になったら違う宿を探そうと決意した。俺は彼女が不規則な寝息を立て始めるまで寝付けなかった。余りに規則正しい寝息だと狸寝入りではないかと疑ってしまったのだった。俺はなんて臆病だったのだろう。
翌日、目が醒めると、先に起きていた彼女はベッドの上で胡座を掻いて、頗るしどけない姿でメリケンの文豪だかの著作を読み耽っており、
『悪いけど珈琲を淹れてくれないか。豆はそこ。ミルはあれ。使い方はヤポーでググりなさい』
一宿一飯の恩もあれば、昨日、俺が感じたあの暖かみを彼女にお返ししたいという気分でもあったので、俺は台所で格闘を始めた。豆だけでも何種類もあった。豆の挽き方は幾通りもあった。湯加減だ、湯の注ぎ方だ、フィルターが何とかである、どうしてこんなことに拘らねばならないのか、それでどのように味が違うってんだ、当時の俺は苛々した。珈琲相手に苛々したというよりも何も知らない自分に苛立ったのかもしれない。
苦心の末に完成した黒々とした液体は、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘かった。これで勝つる。
『ああ』一口、啜って、彼女が咲かせた笑顔は、母親に最初に連れて行って貰った映画で見たヒロインのそれより綺麗だった。
『不味い! 凄く不味いぞ、これ! ウチの豆と設備でどうすればこんな汚水が生まれるのかな? 知能が五歳児? もしかして珈琲ってご存知でない? あちゃー。異文化圏の人でしたか。そうでしたか。ああ、ごめん、ごめん、じゃあ、いいですよ、これでもいいです。オイシイデスヨ。って、ヒノモト言葉は分かるかなー? 分かる? 分かんねえなら国に帰った方がいいぞ。君の求めてるヒノモト・ドリームなんてとうの昔に無くなっちゃったからね』
この瞬間、俺はしばらくこの家に厄介になることを決めた。それだけ彼女の笑顔は眩かった。どうすればそんな顔でそんな暴言を吐けるのか詳しく知りたかった。
で、数日後にはまんまと餌食、美味しく頂かれたり、頂き返したり、前にも言ったかな、タノシイコトの後には『珈琲を淹れてきて』と頼まれるまでに成長した。何がいけなかったんだ。なあ。何があかんかったんや。どうして君は儚くなった。俺の何がいけなかった。君が死ぬとしたら俺に原因があるだろ。自意識過剰か。どうなんだ。答えろ。言ってくれたじゃないか。淹れるの上手になったねえって。手をそんなに火傷しながら頑張ったんだねえって。美味しいよって。俺は。俺に原因があるはずなのに。俺はどうして君が死んだことを君のせいに。
勝手に死ぬ奴はいいよな。後に遺された者は死ぬまで悩み続けねばならない。どうしてと。考えても答えなんて出ないのに。ああ、だから、どいつもこいつも死に急ぐのか。悩み続けるのが嫌で。死は死を招くのか。ならば。俺は。畜生め。何度でも同じことを考えるよ。助けてくれ。俺は人が死ぬのがどういうことか分かっているのに。それなのにどうして殺せるんだ。俺がおかしいのか。それとも他人がおかしいのか。社会か。世間か。この世の全てか。
彼女は短い遺言を遺した。ノートの切れ端に。ボールペンで。筆跡はわざと崩してあった。遺言の文言は『過去は変えられない』から始まる。
『過去は変えられない。忘れられもしない。うまく折り合いをつけていくことしかできない。私には無理だった。君はそうしろ』
葬儀に参加したのは極少人数で、オーナーが尽力してようやく連絡の着いた身内は『あんな女は知らない』と宣ったそうだ。実は俺も参列していない。行きたくもなかった。ただ、それ以上に、店のお姉ちゃんと暮らしていたことが、まあ彼女の自殺で芋蔓式に方方に露呈、殴られるとか蹴られるはまだしも、
『お前のせいだ!』――これは効いたね。効いたよ。ごめん。ごめんなさい。許してくれ。頼む。お願いです。
俺は彼女の遺品を抱えて、居るとこには善人も居るもんで、俺を見棄てなかった知人の車でフリー・マーケットに出掛けた。彼女の遺品を売り捌くためだった。それが過去と折り合いをつけることだと信じた。しかし、値札の二倍を払ってもいいと語る様々な意味での紳士に、俺は彼女の服を売らなかった。ミルもだ。家具もだ。売ったのはシルバー・アクセサリーだけさ。彼女にくれてやろうと思って給料を工面して買った。イヤリングでね。一〇〇〇円で売った。買値の一〇分の一以下だ。値札にはこう書き添えた。『新品。未使用。』
知人は俺のために泣いてくれたよ。ま、後で『ガソリン代だけは払ってくれな』って言ったけどさ。それでも『気の済むまでやればいいよ』って言ってくれたんだ。そういえばアイツはどうしてるのかね。失業したもんだから故郷へ帰るとか言ってたな。アイツの故郷はどこなんだろう。俺は薄情だな。本当に。
怖い。素直に言えばそれだった。俺は彼女に次いでサトーまで喪う気がしてならないのだった。なに考えてんだか。そもそもサトーは人だよ。俺のモノじゃあない。
分かってるけどさあ。